第一幕 第二場 オリンピックホテル レストラン
午後三時。
「堅苦しいのは抜きにしませんか?」
牛久は皿を下げにきた給仕係の女に微笑んだ。
「そうですよ」
優子も同調した。
「いいえ、失礼があってはいけませんので」
給仕係の女は態度を崩さなかった。
「女将さんですよね? 犬飼さんの奥さんでしょう?」
牛久が訊ねた。
「はい。犬飼洋子と申します」
洋子が簡単な自己紹介を済ませる。
「でも女将といっていいのか、主人と同じ職場に出るのは初めてなので」
牛久が笑顔になる。
「それじゃあ、今日が女将さんデビューじゃないですか。今日が最後になりますけどね」
「失礼でしょ」
たしなめたのは優子だ。
牛久がすぐに謝る。
「あっ、すいません」
「いいんですよ」
洋子が微笑む。
「女将さんなんて呼ばれるとは思ってもいなかったので、一日でもそう呼ばれただけで幸せです」
「話が分かる人でよかった」
牛久は胸を撫で下ろした。
洋子は微笑んでいたが、その顔にどこかぎこちなさを感じるのは初めて客前に出る緊張からなのだろう。元々目鼻立ちが地味で、黙っていれば常に悩んでいそうな顔をしており、接客に向くタイプではなさそうだが、かといって事務職にも向いているようには見えなかった。それでも生真面目さだけは真っ直ぐに感じられるという印象だった。
牛久は妙に深刻ぶる。
「実は話し相手が見つからなくて困っていたんです。レストランで二人きりになるとは思っていなかったので。ほら、他にも客がいたら会話を盗み聞きして時間を潰せるでしょう? それもできないようなんでね」
「そんなこと言ったら趣味が悪いと思われるでしょ」
優子が笑顔で注意した。
「いいだろう?」
牛久は意に介さない。
「こんなところに来て、嘘をついてまで取り繕っても仕方がないさ」
優子がむくれる。
「ほら、それだよ。こんなところなんて言ったら地元の人に失礼になるんだから」
「ああ、それはすいません」
牛久が洋子に謝った。
洋子はめっそうもないという仕草で話す。
「いいんです。私も札幌から来たので気持ちは分かります。お二人は内地の方ですよね? 東京から予約されている方がいましたけど」
「ええ、そうです」
と牛久は返答したものの、引っ掛かりを覚えて、質問を返した。
「こちらの人は東京のことを内地って言うんですか?」
「ああ」
と洋子は答えたものの、説明に困っている様子だ。
牛久は助け舟を出すつもりで声を掛ける。
「答えていただく前に一緒に座ってコーヒーでも飲みましょう。僕が持って来ますよ。ちょうどお代わりが欲しかったんでね」
牛久は洋子をエスコートし、カップを持って厨房へ向かった。
「優しい方ですね」
優子と同じテーブルに着いた洋子が呟いた。
「男の人が優しいのは悪いことをしているからじゃないですか?」
優子は悪戯っぽく微笑んで続ける。
「洋子さんの旦那さんも優しそうじゃないですか。いや、旦那さんが悪いことしてるってわけじゃなく。いけない、あの人の性格が移っちゃったみたい」
「気になさらないで下さい」
洋子は気にした素振りを見せなかった。
「主人はホテルマンなので優しそうには見えるんですが、牛久さんのように女性をエスコートするようなことはしませんね。でも、それで裏表がある人って決めつけるのは酷じゃないですか? ですから私も、主人は仕事と家庭では違う人って割り切ることにしているんです」
優子が同意する。
「それはありますよね。ある意味、男の人って職場と家庭で二つの人格を持てるから救われる部分があって、すべての人ってわけじゃないけど、気を遣うことに神経をすり減らす人にとっては、それでうまく精神の均衡を保てる部分はあるでしょう?」
洋子も同調する。
「はい。でも、私にも似たような状況があって、健太っていう五歳の息子がいるんですけど、子育てしていて、その地域で馴染めないと、ものすごく疲れてしまうんです。特にこういう過疎では、お母さん方が小さい頃からの顔なじみばかりですから、余所者という目で見られてしまうんですよね。それが仕事と割り切れるならいいですけど、育児に対してそんな風に考えてくれる人はいませんよね? 札幌にいる時は自分を内向的だとは思っていなかったんですけど、こっちに来てから本当の自分と向き合わされている感じがして、気が滅入ってしまいます」
優子が驚く。
「全然、内向的じゃないでしょう。会ったばかりの私に、こんなにしゃべってる。田舎に移り住むって憧れるけど、実際は大変なんでしょうね」
洋子が素直に頷く。
「都会から来て上手く付き合う人もいるから、私のような人は、結局は自分自身の問題だって片付けられてしまうんですよね。百歩譲って私のことはいいんです。でも、それを五歳の子供が馴染めないことまで本人のせいにするのは、ちょっと可哀想ですよね」
二人が考え込んだところで牛久が使用人を連れて戻ってきた。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
牛久が陽気に振る舞う。
「俺の姿が見えて黙ったら、まるで俺の悪口をやめたみたいに見えるぞ」
「正解」
優子が笑顔で場を明るくした。
牛久はふくれっ面で話す。
「ったく。そうなるだろうと思ってさ、こっちも援軍を連れてきたよ。こちらは猪俣さん」
と優子に使用人を紹介した。
「猪俣寛治です。お食事は口に合いましたか?」
猪俣が無表情で尋ねた。
「ええ、とっても」
優子が上品に答えた。
「猪俣さんはすごいんだ」
牛久が興奮して説明する。
「シェフはもちろん、ドアマンもやって、ハウスキーパーもやって、あとは何でしたっけ? とにかく何でもするそうだ」
気がつけばテーブルを囲んだ牛久と優子と洋子の前にコーヒーが置かれている。すべて猪俣が手際よく置いたものだ。
洋子が補足する。
「猪俣さんは亡くなられた先代の執事をされていたんです。ただ、猪俣さんは家の中だけじゃなく、ホテル業務も任されていて、できないことはないっていうくらい何でもこなしちゃうんですよ」
猪俣が表情を変えずに訂正する。
「いいえ奥様。私は旦那様が命じることしかできないんですよ」
「頼まれたことを何でもするって、そりゃホテルマンの鑑じゃないですか」
牛久が感心した。
「御用がある時は、私目に何でもお申し付け下さい。それでは夕食の準備がありますので失礼します」
猪俣は丁寧にお辞儀をしてから、その場を後にした。年は七十前後だが、背中は真っ直ぐで、額が広く、銀髪はきちんと整髪されていた。穏やかな顔つきで、怒った時に出る皺の痕が一つもない。痩せぎすではあるが、筋肉は衰えているようには見えなかった。上品さが本人の資質なのかホテルマンとして培われたものなのかは定かではないが、見たところ品行方正であることは間違いないようだ。
「そうそう」
牛久は思い出すように口を開く。
「内地がどうこうっていう話でしたよね。確かこちらの人は東京をそう呼ぶって」
洋子が否定する。
「いいえ、違うんです。内地っていうのは北海道以外の場所をそう呼ぶだけで、東京だけに限らないんです。それに私も親が使う言葉なので自分も使っていますが、同級生の中には知らない人もいました。北海道出身といっても色んな人がいて、本人が北海道生まれでも、親が移住者だとほとんど北海道弁はしゃべりませんね。祖父母が移住者でも、まったく北海道弁を使わない子もいます。たまに冷たいことを『しゃっこい』って言ったり、どう致しましてを砕けた感じで『なんも』って言う場合がありますけど、それくらいなんです。子供の頃にすごいを『なまら』って使う子も、中学生くらいになるとまったく使わなくなりますし、テレビの影響なのか、方言を耳にすることの方が珍しいくらいです。ただ、親の世代ですと方言の割合が高くなるので、やっぱりテレビの影響なんですかね? ただ、ごみを捨てることを『なげる』って言うのは共通語になっているので、方言って不思議ですよね」
「あれは?」
優子が思い付きで尋ねる。
「語尾に『だべさ』って使うことはないんですか?」
洋子は考える。
「私は聞いたことがないですね。男の人が『なんとかだべ』って使うことはあっても、女の人は使わないです」
牛久も割って入る。
「でも『だべ』は神奈川でも使うから耳慣れないわけじゃないよね」
洋子が同意する。
「そうですね。言葉遣いで出身を知るのは難しいですよね。親が東北出身だとそっちに引っ張られますし、高校生の会話を聞くと、生まれも育ちも北海道なのに、語尾に『やん』って付ける子もいるんですよ」
「それは確実にテレビかラジオの影響だ」
優子が指摘した。
洋子が照れ臭そうに打ち明ける。
「でも私も時々語尾に『じゃん』って付けることがあるので、人のことは言えないですけどね」
牛久が理解を示す。
「それは仕方ない。影響を受け、伝播することで人の気持ちも伝わるんでしょう。共鳴することで分かり合えることもあるんだから、その特性は喜ばしいことだともいえる。理解することを求めたわけだから、同じ言葉を持てることは幸せなんだ。それに影響されやすい人というのは優しい人なんじゃないですか? だから悲観することはありませんよ」
そう言うと、牛久と優子は見つめ合って微笑んだ。
入り口から馬渡が入ってくるのを見て、洋子が立ち上がる。
「お客様がいらしたので仕事に戻ります」
そう言い残して、洋子は馬渡の元へ歩いて行った。