第三幕 第四場 オリンピックホテル フロント
午前十一時。
ロビーのソファ席には、風呂上がりで浴衣姿の似鳥が背にもたれるように座って天井を見上げていた。 その様子を心配そうに遠藤と犬飼が覗き込んでいる。
「ふぅー」
似鳥が大きく息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
犬飼は不安げに訊ねた。
「だから飲み過ぎなんですよ。それに寝てないんでしょう?」
遠藤も気遣った。
似鳥はがばっと上体を起こす。
「いやぁ、犬飼さんのところの坊ちゃんには感謝しないとな。あまりに気持ち良くってよ、うつらうつらしてたのは分かってたけど、まさか寝ちまうとは思わなかったよ。坊ちゃんが起こしてくれなかったら、あのまま湯船で溺れてたかもしれんな」
遠藤が口を尖らせる。
「冗談じゃないですよ。感謝するなら僕にしてくださいよ。湯船から引き上げたのは僕なんですよ? たまたま気が向いたから風呂場に行きましたけど、気が向かなかったどうなってたと思います? 五歳の子供じゃ助けられたかどうか分からないんですから。やっぱり感謝するならケンタ君じゃなくて、僕なんですよ」
似鳥が笑う。
「分かったよ。先生には感謝してるよ。いや、これで先生は俺の命の恩人ってわけだな。どうだ? これで満足だろう?」
その陽気な言葉に犬飼はホッとするのだった。
しかし遠藤の方はまだ言い足りない様子だ。
「いや、ダメです。入浴中の溺死はバカにできないんですよ? 年間数千人単位で死んでいるわけですから。さっきだって死んでいたかもしれないんだ。本当に冗談じゃないんですよ。うとうとしたと仰いましたが、それって失神や気絶だったかもしれません。事故が起こりやすい状態として睡眠不足や飲酒後の入浴が挙げられますから、まさに似鳥さんはピッタリ当てはまるわけじゃないですか? 本当に気をつけないと、死んでしまいますよ」
「なんだか、先生は先生でも、お医者さんの方の先生みたいだな」
似鳥が大人しくなった。
「本当の医者なら、お酒の方も控えるように忠告しています」
「そいつはいらねぇ忠告だな」
犬飼が感心する。
「しかし忠告というのも、知識があるからできるわけですよね。いや、さっき遠藤さんは『たまたま気が向いたから風呂場に行った』と仰いましたけど、深層心理というのかな? その、心のどこかで、酔っ払ったまま入浴する似鳥さんが心配になったわけですよ。だから後から追いかける形で風呂場に行ったんじゃないですかね。それが胸騒ぎというか、第六感にもちゃんとした根拠がある理由だと思うんです」
遠藤が同意する。
「今回の場合はそうかもしれないですね」
似鳥が他人事のように笑う。
「だとしたらガキが風呂場に現れたのは超能力かもしれんな。いや、ガキじゃねぇや。坊ちゃんね」
「だとしたら超能力一家ということになる」
遠藤が話に乗っかった。
「なんですか、それ?」
犬飼が胡散臭いものを見るように訊ねた。
似鳥が思い出す。
「ああ、あったな。昨日の話だよ。犬飼のダンナが自分で言ったんじゃねぇかよ。おまじないで人が死んだって話をよ。ただ、犬飼のダンナは人を殺して、息子の方は俺を助けたわけだから、全然違うけどな」
「僕が殺したわけじゃありませんよ」
犬飼は真面目に否定するのだった。
それを見て、似鳥と遠藤が笑う。
そこで突然、似鳥が大きな深呼吸を始めた。
それを遠藤と犬飼が心配そうに見つめるのだった。
似鳥が珍しく真顔になる。
「助けてもらってこんなことを言うのもアレだけど、あのまま溺れて死んでた方が、楽だったような気もするな。いや、おたくら若い人にこんなこと言っても分からないだろうけどよ。こう、身体の中が調子悪いと、そんなことばっかり考えちまうんだな。まぁ、若くても気持ちが分かる奴もいるんだろうけど、所詮は他人のことだからどうでもいいんだろうけどよ」
「そんなことを言うと、助けた僕が悪いみたいじゃないですか」
遠藤の言葉を似鳥が否定する。
「それは別なんだよ。先生には感謝してる。それだけは間違いない。ただ、死に様ってのは考えちまうよなぁって話だ。そういう話なら分からなくもないだろうよ。いや、それどころか、年を取ったら嫌でも考えなきゃいけないもんじゃないのか? 若い頃でも一回くらいダチと理想の死に方について話したことあるだろう? お二人さんは、そういうのないか?」
「あるにはありますね」
遠藤が真っ先に答えた。
続いて犬飼も答える。
「僕は一人の時に考えることが多いです」
似鳥が満足そうに頷く。
「こういうのは年齢に限った話じゃないのかもしれんな。特に昨日から、こうも立て続けに人が死ぬと、考えないわけにもいかんだろう。考えるなって言われて考えない方が無理のある話ってもんだ。それにあの若い兄ちゃんの苦しそうな顔を見るとな、あんなのを目の前で見ちまうと、風呂で意識をなくした方が、よっぽどマシって思っちまうじゃねぇか。まぁ、神様は俺に理想の死に方を与えてくれなかったわけだわな。だからといって恨むわけじゃねぇんだけどよ、そういう運命ではなかったってことよ」
遠藤が複雑な表情を浮かべる。
「やっぱり余計なことをしたみたいじゃないですか」
似鳥はきっぱりと否定する。
「あんたは先生だけど、神様じゃねぇんだ。そこんところを履き違えてなきゃ、そんなセリフは出てこないはずだぞ」
「まぁ、小説家は作品世界の創造の神ですからね。勘違いしてもおかしくないです」
犬飼の指摘に遠藤が頭をかく。
「犬飼さんまで止めて下さいよ」
それを見て、似鳥と犬飼が笑うのだった。
レストランから猪俣がビールとツマミを持って出てくる。
それを見て遠藤が呆れる。
「また飲むんですか?」
似鳥が豪快に笑う。
「医者じゃないんだから余計な忠告はいらんぞ」
猪俣が似鳥の前にビールとツマミを並べる。
「お待たせしました」
「すいませんね」
似鳥が嬉しそうに礼を述べた。
猪俣が似鳥と遠藤に尋ねる。
「昼食は十二時からでよろしいですか?」
「私は結構。これで充分です」
似鳥は断った。
「僕はお願いします。朝と一緒で、こちらでいただきます」
遠藤の答えを聞いて、猪俣が一礼する。
「承知しました」
似鳥が階段へ向かう猪俣を引き止める。
「あの、猪俣さん。一つだけ訊ねてもいいですか?」
猪俣が振り返って静止する。
似鳥が試すように訊ねる。
「猪俣さんにとって、理想の死に方とはなんですか?」
全員が猪俣に注視する。
しばらく間ができた。
猪俣が無表情で答える。
「理想の死に方は特にございません。強いて言えば、抗うことなく、自然に身を任せるということでしょうか」
誰も口を開く者はいなかった。
そこでも、しばらく間ができた。
猪俣は頭を下げて、階段を上がって行った。
姿が見えなくなってから似鳥が呟く。
「今の本当かね?」
「猪俣さんらしい答えだと思いますけど」
犬飼が感想を述べた。
「犬飼さんがそう言うのなら、そういうことなんでしょうね」
遠藤が結論付けた。
似鳥が不服そうに言う。
「だけどよ、そんな物分かりのいい答え方をされたんじゃ、自分が惨めになるよな」
「生き様が表れる質問ではありますね」
遠藤の分析だ。
似鳥が笑う。
「バカにしやがって」
遠藤が慌てて弁解する。
「いや、そんなつもりで言ったんじゃなくて、いい質問だと思ったんです」
似鳥はニヤッとする。
「ほう。だったら大先生の理想の死に方も聞きたいね」
「僕ですか?」
遠藤が思案する。
「いや、ぱっとは浮かばないですね。というより、傑作を書くまで死ぬことなんて考えられませんよ。とにかく自分でも震えるくらいの作品を書いてみたいんです。それまでは、おそらく考えることもないでしょう」
犬飼が笑う。
「だったら長生きできそうですね」
その答えに似鳥が大笑いする。
「それはどういう意味かな?」
遠藤はすっとぼけることしかできなかった。




