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第三部 第三場 オリンピックホテル レストラン

 午前十時。

 テーブル席でコーヒーを飲む洋子。

 その視線は床に横たわる馬渡の遺体に注がれている。

 ただ、その表情からは何を考えているのか分からない様子だった。

 そこへ厨房から空のアイスペールを持って犬飼が入ってくる。

「随分と楽しそうね」

 洋子が無表情で呟いた。

「酒の付き合いだよ」

 犬飼もぶっきら棒に返した。

「嫌そうには見えないけど」

 洋子は犬飼の方を見ようともしない。

 犬飼は言い返すのを止める。

「遺書は?」

「いや」

 犬飼は短く返すだけだ。

「書いてないの?」

「ああ」

 犬飼の言葉はため息か返事か分からない感じだ。

 洋子は微笑む。

「どうでもいいものね」

「そうなんだよな」

 犬飼も微笑む。

「牛久さんたちも同じかもしれないわね」

 犬飼は馬渡の遺体を見ながら語る。

「どうだろうな? そういうのは、結局は本人しか分からないものだろう? 他人が無理に理解することでもないと思うんだ。丁寧に説明しても、理解してもらえるとは思えないんだよ。だから牛久さんたちも黙って死んだんじゃないのかな? いや、理解できないと言いつつ、何とか理解しようとする自分がいるのも、他人が聞いたらおかしいと思うだろうな」

 洋子はコーヒーを飲む。

「理解なんてするもんじゃないわ。理解した気になるのもダメね。理解してもらおうって思うのも良くないし、願ったらダメなのよ。勝手に理解したと思って、結局は見当はずれかもしれないんだから、恥ずかしいことを喋ってるかもしれないのよ? だったら喋らないか、考えないようにした方がいいの。死んだらお星さまになるっていう言葉、素敵だと思わない? 何も語らず、何も思わず、何も考えず、ただそこにあるだけっていうね。大きな星だけど、とても小さく見える、ただの石ころ。そう、人間はただの石ころなのかもしれないわね」

 そう言って、じっとシーツに覆われた馬渡の遺体を見つめるのだった。

 犬飼が思い出したように語る。

「そういえば、なぜだか、根津さんの遺体がやけに綺麗に感じたな。そんな感想を抱いていいのかどうか分からないけど、馬渡君や牛久さんとは違って、とても同じような死に方をしたとは思えなかったよ。本当に毒で死んだのかな? 見ると、眠っているようにしか見えなかった。でも脈をとると、ちゃんと冷たくなってるんだ。だけどそれが魔法で冷たくなっているだけのような気がして。いや、キレイな仰向けだったからそう見えただけかもしれないな。牛久さんの方はうつ伏せでさ、根津さんの身体にすがるようで、苦しそうな顔をしていたんだ。せめて根津さんのように、目だけは閉じてあげたかったけど、触んない方がいいんだよな?」

 洋子が答える。

「やめましょうよ。そんなことをして、なんの意味があるの? そういう気遣いができるなら、生きているうちにやってあげれば良かったじゃない。死んでから優しくするのは、自分のためなんじゃないの?」

「そうかもしれないな」

 犬飼が素直に認める。

「しかし自分に置き換えてしまうのも分かるだろう? 二人が同じ日に死んで、いや、同じ時間だったかもしれないが、女は安らかな顔をして、男は苦悶の表情を浮かべているんだ。死んでいるのに感情移入というのもおかしな話だけど、それでは余りに男の方が切ないじゃないか。せめて同じ気持ちで死んでいてほしいというのが、どうしても思ってしまうんだよ」

 洋子がコーヒーをすする。

「だったら今度は、根津さんの方に感情移入してみたら? おそろしく見え方が変わるんじゃない? 部屋の中で何が起こったかなんて、もう誰にも分かることはないんだし、試しにやってみればいいのよ。ひょっとしたら、一緒に死のうなんて誓い合ったわけじゃないかもしれないんだから。毒を飲む一瞬まで、自分が殺されるなんて思わなかったかもしれないのよ? その逆もあって、根津さんが心中するように牛久さんをそそのかしたのかもしれないとも考えられるの。何も分からない状況があって、そんな状況で遺体と向き合うなんて、私にはできないわ。悲しみを抱くことすら警戒してしまう自分がいるからね」

 犬飼が頑固に反論する。

「でもな、もし二人が望んだ結末だとしたら、どうなんだ? これ以上ない幸せを感じるようなら、他人の言葉なんて耳に入らないわけだろう? どんなに厳しく批判されたって、最上の幸福感を抱くことができるなら、そのために死を選ぶ二人を止めるのは難しい。また、他人が少しでもその価値観を共有できるなら、死んだ二人に悲しみを抱くことはないだろうな。こう、人が目の前で死んでも、悲しみがやって来ないのは、それはそれで様々な理由があるんだろうね。だから僕はやっぱりね、牛久さんと根津さんは今でも幸せだと思いたいんだ。悲しい気持ちなんて持ったら失礼だと思ってしまう。誰に何と言われようと、そんな風に感じてしまうことを否定できないんだ」

 洋子が夫に対し、子供を見るように微笑む。

「私が死んでも身体の上に覆い被さるようなことはしないでね。そんなことされると、なんだか息が詰まりそうだから」

 犬飼が笑う。


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