第一幕 第一場 オリンピックホテル フロント
午後二時。
この日、一組目の客となった女はタクシーから降りるなり寒そうに身震いした。薄手の軽装はいかにも都会から来たという様相で、タクシーへの支払いを済ませてから降りてきた同乗の男も同じような出で立ちだった。
「いらっしゃいませ」
フロントで二人の客を出迎えたのは三十歳前後の男が一人で、胸には漢字で犬飼と記されたネームプレートをぶら下げている。犬飼勇作は短髪で、パリッとしたシャツを身にまとい、制服はクリーニングに出したばかりで清潔だ。顔つきが真面目に見えるのは若白毛のためか、それでも年齢より老けた印象はなかった。ホテルの営業が最後となるこの日も、いつもと変わらぬ笑顔で接客をしていた。
「予約した牛久です」
犬飼が頭を下げる。
「二名様でのご予約ですね。遠いところ、ようこそお越し下さいました」
牛久隆雄が笑う。
「いや、本当に遠いからびっくりしましたよ。千歳から三時間。駅からタクシーで三十分。おまけに大雪まで降るとは思いませんでしたからね」
犬飼が畏まる。
「それは足元が悪い中、申し訳ありませんでした。大雪警報が発令されたので、早めに来ていただいてよかったです」
牛久の連れの女が不安そうに訊ねる。
「警報って、今もこんなに積もっているのに、まだ降るんですか?」
犬飼が心配そうに答える。
「そうですね。今年は特に雪が多いですね。除雪作業もままならないので、後から来るお客様も早めに来て下さるといいんですが」
「へぇ」と言って、牛久は宿泊カードに記入を始めた。連れの女は根津優子という名前なので夫婦ではなさそうだ。
犬飼は二人の関係を詮索することはなかったが、カードに書かれた情報にはしっかり目を通していた。牛久の住所は東京で、職業は会社員とある。会社員にしては髪の毛が長く見えたが、それは単にボリュームがあるからそう見えるだけなのかもしれない。それでも犬飼の住む北海道の田舎にはいないタイプの会社員だった。二人が不倫カップルかどうかは、指輪の有無だけでは確認できない。なにしろ優子のような洗練された美しさを持つタイプは、北海道の田舎ではお目にかかれないので、外見だけでは人妻と判断できないからだ。綺麗で真っ直ぐな黒髪というだけでも珍しく、犬飼の住む地方では年齢を重ねてもそれを維持できるのは皆無といっても過言ではなかった。二人とも三十代の半ばで、犬飼よりも年が上であったが、見た目ははるかに若々しい印象を与えた。
「どのくらい積もりますかね?」
都会から来た牛久が訊ねた。
犬飼は思案しながら答える。
「この様子だと、明日の朝にはタクシーを呼んでも来てくれませんし、バスも大幅に遅れが出る可能性がありますね」
優子が目を見開く。
「えっ? そんなことがあるんですか? そうなったらどうするんですか?」
犬飼が冷静に説明する。
「そうなったら除雪車が作業を終えるまで待つしかありません。なにしろ市の財政も悪化しましたので、除雪車の数まで減ってしまったんです。ですからこの辺は市内の除雪作業が片付くまではどうすることもできませんね」
「それはすごいところに来たもんだ」
牛久は笑うしかないといった感じだ。
それに対して犬飼は心配顔になる。
「明日以降のご予定とか、大丈夫ですか?」
優子が代わりに答える。
「私たち明日は小樽に行って、明後日には函館に移って、そこでゆっくり年を越そうと思っているんです」
「それは無茶ですよ」
犬飼が忠告する。
「なにしろ小樽から函館ですと、東京駅から札幌駅までの方が早く着くくらいですから。飛行機を利用してもそれくらい遠いんです」
「それは参ったな」
牛久がニコニコしながら頭をかいた。
「ほんとね」
優子も笑った。
「わざわざお越し下さったのに、ご不便お掛けして申し訳ありません」
犬飼が頭を下げた。
牛久が急に真顔になる。
「いや貴方が謝ることないですよ。天候のことを考えなかった私たちの方が悪いんです。それにね、一番の目的はこのホテルに泊まることなんですから。ホテルの最後の客になるなんて滅多にない経験ですからね。ここに来られただけで、もう目的は果たしたようなもんです」
犬飼はほっと息を漏らす。
「そう言っていただけると、この日を迎えるために準備してきて良かったと思えます。従業員は妻と古くからの使用人しかおりませんが、精一杯サービスさせていただきますので、本日はごゆっくりなさって下さい。鍵はこちらです」
そう言って、牛久に部屋番号210の鍵を手渡した。
「二階ですか?」
牛久は多少残念がる様子で言葉を漏らした。
犬飼はすまなそうに説明する。
「申し訳ございません。予約が思ったほどなかったので、三階から六階まで封鎖してしまったんです。最上階をご用意しようと思ったんですが、エレベーターも現在は使用できない状況なので、安全面を配慮して宿泊用の客室を二階に集中させました。一階のレストランや大浴場へお越しの際は、エレベーターの手前にある階段をご利用下さい」
牛久がため息をつく。
「そうですか。それなら仕方ないですね。最上階のスイート・ルームって、最盛期にはたくさんの有名人が泊まりに来たんでしょう?」
犬飼は懐かしむように語る。
「はい。外国の賓客から、映画の撮影で訪れた俳優まで、それはもうたくさんいました。それが今や何もない空っぽの部屋なんですから、寂しいものですね」
「それは、さぞお辛いでしょう。わがままを言って申し訳ない」
牛久は軽く頭を下げた。
犬飼が笑顔を取り繕う。
「いえいえ、こちらこそ、しんみりさせてしまって申し訳ありませんでした」
優子も笑顔を返す。
「いいんですよ。そういう思い出に触れたくて来たんですから」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
犬飼が安堵した。
「もっとお話ししたいところなんですが」
と牛久が断りを入れてから続ける。
「お昼を食べ損ねてしまいまして、チェックインしてから食べようと思ってたんですが、でも、ここら辺で外食できそうなお店が見当たらなくて、どうしたらいいですかね?」
犬飼はホテルマンの口調に戻る。
「それでしたらホテルのレストランをご利用下さい。夕食や明日の朝食以外にも軽食をご用意しております。お酒もございますのでお気軽にご注文下さい」
優子が気を遣いつつ訊ねる。
「またしんみりさせてしまうかもしれないけど、昔は外食できるお店もたくさんあったんですか?」
犬飼は気にするでもなく答える。
「はい。トム・ソーヤの町が賑わっていた頃は千台収容の駐車場が満車でしたし、レストランには行列ができて、売店はお祭りのように人で溢れていました。それでも最盛期と呼べるのは一年間だけで、それも夏休みの間だけでしたね。事業者の計画では最盛期の夏休みが十二カ月続かないと赤字になるって分かってたんですから、それだけでいかに計画が杜撰だったかということが分かりますよね。まぁ、そんなことホテル経営者の息子が言うことじゃないんでしょうけど」
牛久は真剣な眼差しで語る。
「でもね、私には分かるんですよ。その夢っていうのかな? 僕も『トム・ソーヤの冒険』が大好きでしたから。ハックの住んでいた家とか見てみたいじゃないですか。トムがペンキ塗りをさせた塀とかね。学校もあるんでしたっけ? 筏にも乗れるんですよね? そういうのを子供の頃に体験できたら最高だと思うんですよ。男のロマンじゃないですけど、トム・ソーヤの町を作った人たちのことを悪く思うことなんてできないな」
優子が口を尖らせる。
「そう言って、一度も来なかったくせに」
牛久が言い訳する。
「だから最後に来ようって。いや、本当に、僕みたいに来ようと思って来なかった人も悪いんでしょうね。市の観光事業だから地元の人にとっては他人事じゃ済まないだろうし、男のロマンなんて言ったら女性の怒りも収まらなくなる」
犬飼が笑う。
「ははっ、そうですね、今の話は私の妻の前ではしない方が良さそうです。それと、僕が笑ったことも内緒にして下さい」
牛久が頷きながら笑った。
「私は奥さんと気が合いそうね」
と言って、優子が微笑む。
牛久がおどける。
「ああ、こりゃ今晩は男同士で酒を飲むことになりそうだ」
「業務に差支えがない程度にお付き合いしますよ」
犬飼が牛久のジョークに応えた。
「ありがとう」
牛久は敬礼のポーズを決めて階段を二階へと上がって行った。
優子はジョークを楽しんだことを示すように、お辞儀をして後について行く。
二人を見送ると、すぐに犬飼はホテルマンの顔つきに戻るのだった。
それから間もなくしてやってきたのは、高そうな白いラム革のレザーコートを着た若い男だった。縁がシルバーのメガネを掛けており、腕時計はロレックスで間違いない。それだけの高級品を身に着けながら野暮ったく見えるのは、若すぎる年齢のせいだろうか。年の頃は二十歳前後、というより学生服の方がよく似合いそうな肌質をしていた。ぶら提げているカバンはボストンバッグで、学生が使い古したかのようにくたびれており、それも服装とマッチしていなかったので、全体がちぐはぐとした印象を与えているのだろう。
「いらっしゃいませ」
犬飼が客の目を見て頭を下げた。
「予約した馬渡です」
馬渡は目を合わせずに答えた。
「一名様ですね。足元が悪い中、ようこそお越し下さいました。こちらにご記入ください」
犬飼が宿泊カードを差し出した。
若い男は宿泊カードに馬渡俊介と書き、住所は札幌で、職業欄には学生ではなく、わざわざ医学生と書き記していた。本来ならば学生が一人で泊まりに来るような場所ではないのだが、最後のホテル営業日ということもあり、どのような客が来るのか、ホテルマンの犬飼にも分からない様子だった。
このオリンピックホテルは市の観光事業である『トム・ソーヤの町』という名のテーマパークが閉園した秋に一度閉館していたが、その時は再開の道を模索していたので休館という形で営業が停止されていた。それが札幌地方裁判所から自己破産の手続き開始を受けたため撤退を余儀なくされたわけだ。炭鉱の町として有名で、人口は多い時で十万は超えていたが、閉山後は五分の一以下に減少し、そこで市が第三セクターを立ち上げ観光事業に乗り出したわけだが、国道から外れた場所にあるという立地条件が悪く、開園後七年で閉園を迎えることになった。開園直後は地方局のテレビでコマーシャルが流れていたこともあり集客はそれなりにあったのだが、それでも三年目の冬には集客が見込めないということで冬季は閉園に追い込まれていた。負債は五十億を超え、テーマパークを無料の市民公園にしても、維持費だけで年間一億円の赤字になるということで破産宣告を受けたわけである。ホテル事業はゴルフ場の併営で凌いでいたが、テーマパークの閉園後はわずかな観光客の客足も止まり、足並みを揃える形で自己破産した。売却の目途が立たず、取り壊す予定もないまま、ホテルの調度品を売り払ってまで最後の営業に拘ったのは、犬飼にとって、それがホテルマンとしての最後の務めを果たしたかったからなのか、男としてのケジメなのか、それは犬飼本人にしか知る由もないところだった。
犬飼は目の前の男が学生の一人客だろうと、特に関心はない様子だった。
「あの」
馬渡が部屋番号206の鍵を見つめたまま小声で尋ねる。
「スイートは泊まれないんですか? 僕、むかし家族で来たことがあって、スイートに泊まったことがあるんですよ。それで、もう一度泊まりたくて」
犬飼が頭を下げる。
「申し訳ありません。本日は三階から最上階まで封鎖しておりまして、スイートはご用意できないんです」
馬渡はあっさりした様子で納得する。
「そうですか。前に来た時はすごく楽しくて、それまでの人生で一番楽しかったって記憶があるんですよ。父親と一緒に筏に乗ったり、母親と一緒に手を繋いで洞窟に入ったり、なんであんなに楽しかったのかな? 今でも洞窟に入れるんですか?」
犬飼は首を振る。
「テーマパークが閉園してしまったので、もう中には入れないんです。筏もありませんし、ハックの家も立ち入り禁止で、下から鑑賞するだけです」
馬渡は無感情に返事をする。
「そうか、それは残念だな。遊園地より、うんと楽しいのにな。なんで終わったんだろう?」
「もう少し交通の便が良ければと、お客様に言われますね」
犬飼はどこかで見聞きした話をそのまま答えた。
「温泉は今でもありますか?」
馬渡は初めて犬飼と目を合わせた。
犬飼は嬉しそうに答える。
「はい、ございますよ。一階の奥が大浴場になっています。それは昔から変わりません。二十四時間入れるようになっていますから、いつでもおくつろぎ下さいませ」
「それはよかった」
頬をゆるめて、馬渡は階段を二階へと上がって行った。