第二幕 第一場 オリンピックホテル フロント
午後十一時。
フロントの横にソファを並べたロビーがあり、宿泊客が休憩や待ち合わせできるようになっている。そこで似鳥はウイスキーを片手に、電源が切られた自動ドアの前に立ち尽くし、外の様子を見つめていた。優子はソファに腰掛け、具合が悪くなった牛久を介抱している。遥はレストランのトイレから戻った後、ハンカチを握ったままソファから動かなかった。洋子は健太の様子を見に行って、戻ってからは客人に熱いお茶を用意した。遠藤はレストラン内を歩き回った後、犬飼や猪俣と一緒にロビーに姿を現した。通報した犬飼に注目が集まる。
「結論から言いますと、警察は来ません。早くても明日の夕方以降になると言っていました。ただ、まだ雪が止んでいないので、実際は明後日まで車で来るのは無理でしょうね」
「薬物で死んだのに、随分と悠長なんだな」
牛久が感想を漏らした。
犬飼が慎重に答える。
「それは電話する時に、いろいろ考えまして、それでホテル内で自殺者が出たと報告したんです。他意はありません。実際に服毒自殺だと思われたので、そのまま伝えることにしたんです」
似鳥が納得する。
「まぁ、そうだろうな。一人客だし、それ以外に考えられないわな」
「しかし毒なんて、そんな簡単に手に入りますかね?」
牛久が疑問を口にした。
「馬渡さんは宿泊カードに医学生って書いていましたけど」
説明したのは犬飼だ。
遠藤が思い出したように口を開く。
「そういえば馬渡君の告白によると、彼の実家は病院っていうことになっていましたね。だとしたら毒を手に入れられないわけじゃない」
似鳥が笑う。
「しかし、あの学生さんが話したのは父親殺しだからなぁ。どこまで信じていいのか分からんよ」
牛久も同調する。
「そうそう。びっくりさせるのはいいけど、あまりにも荒唐無稽だと、少しも驚きを感じなくなるんだよな。いや、死んでから感想を言うのも、なんだか気の毒だけど」
「でも、馬渡君が話したことは本当だと思いますよ」
と言ったものの、優子は特に根拠を示さなかった。
似鳥が思い出す。
「ああ、確かニュースを見れば分かるって言ってたな。といっても肝心のテレビがねぇけど」
犬飼がすまなそうにする。
「すいません。売れる物は全て売ってしまったので、ご用意できませんでした。ちなみに車も手放してしまったので、ここには一台もありませんからラジオもありませんね」
「立派なカメラはあるのにね、それは残念だな」
似鳥は天井を見上げてガッカリした。
「そうだ」
と遠藤が閃く。
「後で写真を撮った方がいいかもしれませんね。救急車が来ないとなると、遺体もどこか別の場所に移した方がいいでしょう。さすがにレストランに放置するのは可哀想だ。いや、それとも動かさない方がいいのかな?」
「そうですね」
答えたのは犬飼だ。
牛久が眉間に皺を寄せる。
「毒を飲んだっていうけど、あいつ他の食べ物や飲み物に混ぜなかったろうな。そんな理由で子供が死んだら、やり切れんでしょう」
そこで遠藤が思案する。
「そうですね。話し終えたタイミングで呻き声が聞こえたので、その時にジュースを飲んだのは間違いないでしょうし、そうなると自分で入れたのは間違いないと思います。ということは、他に毒物が混入している可能性はないと断言してもいいんじゃないですか?」
似鳥が怪訝な表情を浮かべる。
「そこまで信用していいのかね? 俺はもう酒があれば別に食い物なんかいらねぇけど、みなさんはそういうわけにもいかないでしょう」
犬飼が説明する。
「一応、テーブルの上の果物やお菓子やワインはそのままにしておきましたが、みなさんも手を触れぬようにお願いします。馬渡さんが厨房へいらしたことはありませんので、食事に関しては問題ないと思いますが、食料品の中には缶詰もございますので、心配な人は申し付けて下さい。あと、レストランでの食事に抵抗があれば部屋までお持ちしますので、そちらも気兼ねなく仰っていただいて構いません」
「しかし毒で死ぬなら、部屋で死ねばよかったのにな」
似鳥が吐き捨てるように言った。
「いやいや、部屋もダメですよ」
配慮したのは遠藤だ。
似鳥がムキになる。
「どうせなら部屋で死ねってことだよ。何もレストランで死ぬこたぁないだろう。部屋なら、もう使われることがないんだし、そのまま放置しても良かっただろう? この期に及んで、いちいち気を遣ってしゃべる必要があるのかい?」
牛久も納得顔だ。
「いや、まったくもって、その通りですよ。部屋で死んでくれていたら『他にも薬物が混入しているかもしれない』なんて心配する必要はありませんでしたからね。せめてどんな薬物を使用したのか、それくらいは教えておいて欲しかったな」
一転して、遠藤が同意する。
「そう考えると、確かにそうですね。考えられるのは、容器に入っているか、それともカプセルに小分けして携帯したかのどちらかしかないと思いますが、見たところ空の容器も、カプセルを吐き出した様子もないんですよね。容器が見つからないとしたら、カプセルを飲み込んで、そのまま溶けて吐き出さなかったことになりますが、そういうのは解剖してみないと分かりませんよね。もし溶けたカプセルの成分が胃から見つからなかったとしたら、薬物を裸のまま持っていたことになりますし、分からないことが多いですよ。僕も専門家ではないので、見当はずれのことを言っているのかもしれませんし、難しい問題です」
犬飼が困惑している。
「よりによって医大生の方が亡くなられましたからね。まだ若いので、どこまで専門知識があったか分かりませんが、生きていたら、少しは参考にできたかもしれないですよね。本当に、なぜよりによって、という感じです」
似鳥がイラつく。
「くどいようだけど、本当に医大生かどうかなんて分からないって。さっきの『犯罪の告白』でも落第生って言ってなかったか?」
「馬渡君の話は本当だと思う」
優子が突然、口を挟んだ。
「根拠は?」
似鳥が問い詰める。
「なんとなく」
そう言うと、優子は目を伏せてしまった。
その答えに、似鳥は首を振って酒を飲むのだった。
遠藤がその場にいる者の反応を窺うように話す。
「抵抗はありますが、馬渡君の部屋の荷物を調べれば何か分かるかもしれませんけどね。ただ、これも警察の仕事なので、余計なことはしない方がいいでしょう。すぐには来ないといっても、少なくとも明後日には来るんですから」
「あれ?」
と牛久が思い出す。
「そういえば似鳥さん、あなた警察の人じゃないんですか? 告白内容を答え合わせするようで申し訳ないですけど、本物の警察官ならば、この状況で名乗り出ないのはおかしいですよ」
似鳥がウイスキーを一気に飲み干す。
「悪い。話した内容は本当の出来事だが、警察はとっくの昔に辞めている。だから今の俺に他人の部屋を嗅ぎまわる権利はねぇんだ。ただ、おたくらが調べたいっていうなら止めはしないけどな。俺は報告を聞ければそれでいいや。ということで、猪俣さん、お代わりください。ボトルごとお願いしますよ」
その言葉に、猪俣は一礼してレストランの厨房へ向かうのだった。
「まぁ、そんなことじゃないかと思ってましたよ」
牛久は失望した様子もない。
その言葉に似鳥が豪快に笑うのだった。
その姿に遠藤が落胆する。
「そういうことなら勝手に部屋に入るような真似はやめておきましょう。そこまでする必要もありませんしね。それに馬渡君の告白ですが、まったくのデタラメということでもなさそうなんですよ。根拠といえるかどうか分かりませんが、さっき太ももの内側に火傷の痕を確認しました。ただ、オシッコを漏らしたように見えるというのは大袈裟で、グーですね。そう、握った拳くらいの大きさでした。まぁ、火傷の痕があったから本当だとは言えませんが、完全な嘘でもなさそうです」
「ちょっと待って」
と遥が嫌悪感を露わにする。
「それって死んだ馬渡君の身体を調べたってことですか? いや、そういうことですよね? 穿いていたズボンを脱がせたってこと? え? どうして? 遠藤さんは何のためにそんなことをしたんですか?」
遠藤が戸惑う。
「いや、それは、つまり、その、色々と調べているうちに、どうしても確認しておきたいと思って。いや、間違いでした。そんなこと、してはいけなかった。どうか、許してください」
遥が拒絶する。
「私に謝っても仕方ないじゃないですか」
犬飼が申し訳なさそうにする。
「私もそばにいたので、そこは止めるべきでした。これは遠藤さんだけが悪いわけじゃありません」
牛久も呆れる。
「真っ先に現場保存とか言ってたのに」
似鳥は笑顔だ。
「遠藤さんよ。これが殺しなら、あんた真っ先に疑われるよ。容器がどうのこうのって言ってたけど、あんたが隠したって思われても仕方ねぇもん。まぁ、今さら調べたりしねぇけどよ。気をつけた方がいいよ」
「すいません」
遠藤がうなだれた。
遥が立ち上がる。
「ごめんなさい。私、やっぱり気分が悪いので部屋に帰ります。朝はちゃんと起きられるか分からないので、朝食は結構です」
他の者は呼び止めることなく、階段に向かう遥を見送った。
「私も失礼していいですか?」
優子が周りに了承を求めた。
犬飼が代表して答える。
「どうぞ、もう報告はすべて済みましたから、お部屋に戻られて結構ですよ」
「あなたは?」
優子が牛久に訊ねた。
牛久が返事をする前に、似鳥が懇願する。
「牛久さんよ、もうちょっとだけ付き合ってくれよ」
牛久は断り切れない様子だ。
「ごめん、もう少しだけ、ここにいるよ」
「じゃあ、先に休んでる」
優子が一人で立ち去った。
タイミングを逃すまいと、犬飼が洋子に目で合図を送る。
洋子は犬飼に促されるように断りを入れる。
「それでは私も子供が心配なので、これで失礼します」
と言って、階段へ向かった。
洋子と入れ替わるように、猪俣がウイスキーを持ってやって来る。
「よし、それじゃあ、牛久さんにもう少しだけ付き合ってもらうか」
似鳥がソファにドカッと腰を下ろした。




