続き
残りの蝋燭は二本。
参加者は静かにミステリー作家が語り始めるのを待っている。
期待が緊張感を高めていた。
遠藤も他の告白者と同様にワインで口の中を潤わせる。
そして、満を持して語り始めるのだった。
「みなさんは完全犯罪と聞くと、どんな犯罪を想像しますか? フィクションの世界ならば華麗なトリックがあって、それを元に犯人と探偵、または刑事が対決し、わずかな綻びから犯人の目論見が崩れてしまうというのが、まぁ、一般的に想像しやすい例ですよね。
しかし現実世界の完全犯罪はもっと地味だったりします。埋めた死体が発見されることなく犯人が寿命を全うするとか、それこそ事故や自殺で処理されてしまうとかね。テレビで未解決事件の番組ができればいい方で、大抵の完全犯罪は事件という認識すらされないまま忘れ去られているのではないでしょうか。
そして今から語る完全犯罪もまた、人々の脳裏には犯罪として認識されることなく記憶されているのです。その完全犯罪を成し遂げたのが、この私で、今からその手口を披露しようではありませんか。現職の刑事さんがいたところで、もう既に追及される恐れはありません。なぜなら、それこそが完全犯罪の、完全犯罪たる所以なのですから。
家のしきたりなんてものは、外の世界を知って初めて違いを認識できるわけで、物心ついたばかりの子供にその違いを理解しろなんて要求するのは無理がありますね。そうです、幼い頃の私には、家の中で母が祖父に虐げられていることに疑問を持つことができなかったのです。
うちは曽祖父の代から市会議員を稼業とする家系でした。歴史の浅い北海道では三代続いているだけでも珍しく、少なくとも私の周りには存在しなかった。父は次期市長選での勝利が確実と見られており、祖父は早いうちから隠居を決め込みました。というのも叔父が経営する貿易の仕事が順調で、後は悠々自適に暮らせるという保証があったからでしょうね。
しかし体力の有り余る男が年がら年中、家の中にいても良いことなんて一つもありません。祖母をストレスで若死にさせたように、息子の嫁にも同じことをさせようとするんです。目覚まし時計の音が気に入らないという理由で、時間通りに起こしてもらうところから一日が始まり、着替えを手伝わせて、洗面所は常に乾いた状態じゃないといけないので、水滴一つも見落としてはいけない。料理にもうるさく、味噌汁が冷めているだけで茶碗の中身をぶちまけるような人でした。味にも注文が多く、食事中に作り直しを命じることも珍しくありません。家の掃除も監視付きで、母が休める時間といえば、買い物に出掛けている間くらいしかなかったんじゃないでしょうか。それでも時間通りに戻らないと怒られるので、時間を忘れて世間話に没頭するということもできませんでした。
私が祖父の異常行動に気がついたのは、幼稚園の時の運動会でした。周りの子たちのおじいちゃんが、例外なく優しそうな顔をしているんですよ。これにはショックを覚えました。ある子は膝の上で昼食を食べたり、また違う子はかけっこの結果を笑顔で褒められたりね。そうです、笑顔で話をすることすら、私には奇異に映ったんです。それから母親を虐める祖父を憎むようになりました。ただし、憎むといっても反抗的な態度なんて出来るはずがありません。誰よりも怖い存在でしたから、ちょっと睨んだだけでも張り倒されてしまいます。それでも母を救わなければ、祖母のように死んでしまうと思ったので、何とかしなければならなかった。
そこで私が考えたのが、毒を盛るっていうことでした。幼稚園児でしたから、刃物を突き刺すなんて発想はありません。それに失敗したり、見つかったりすることも許されなかった。そう、殺意すら感じさせてはいけないんです。毒については後で説明しますが、とにかく、祖父を殺そうと思ってから、私は毎日少量の毒を、気づかれないように、食事にまぶすことを実行に移しました。最初に振りかけた時の緊張は今でも覚えています。もし異変を感じたら、疑われるのは母ですからね。そうならないように最初は恐る恐るでしたが、祖父が異変を感じないようなので、翌日から味噌汁に一つまみほど入れてやりましたよ。結局、それを私は毎日欠かさず続けることになりました。祖父に毒を盛るため、友達の家に泊まる誘いも断ったこともありました。
毒を盛ってからの私は清々しい気持ちでいっぱいになり、母のためにとても良いことをしていると胸を張ることができました。母は相変わらず従順でしたが、もうしばらくの辛抱だと思っていたので、心を痛めることなく生活することができました。祖父を死に至らしめているという負い目がないわけではありませんから、多少は同情というか、憐れみの気持ちを持つことはありましたが、母を思えば罪悪感を持つことなんてないんです。毒の効果が徐々に効いたのか、癇癪も次第に治まっていきましたし、途中で毒を盛るのは、もうやめようかとも思った時期がありました。しかしそんな心配をする必要もなく、もう五年も前になりますが、祖父は他界しました。
母よりも先に死んでくれたので、正直、私は勝ったと思いましたね。また葬儀に出席した者は、誰も私の完全犯罪を見破る人はいませんでした。毎日毒を盛られていたというのに、他人は気づきもしないのです。まぁ、死んだ祖父ですら気づかないのだから、当然といえば当然でしょうね。その場に名探偵がいたらどうだったでしょうか? それでも事件性を疑うことすら不可能だったでしょう。もし完全犯罪に気がつくことができる存在がいるとしたら、それはもう寿命を知る死神だけではないでしょうか?
最後に完全犯罪のレシピを公開しておかなければなりませんね。そうです、昔から言うでしょう? 亭主を殺すには刃物はいらぬと、一つまみの塩さえあれば、それでいいってね」
そう言って、遠藤は蝋燭を吹き消した。
束の間の沈黙の後、クスクスと笑いを堪えている息が聞こえ始める。
この時もまた、第一声は牛久だった。
「いや、遠藤さん、やっちゃったね」
「ごめん、遠藤さん、笑っていいかな?」
似鳥が腹を抱えて笑った。
「遠藤さん、ふざけたんじゃないですよね?」
問い詰めたのは遥だ。
「いや、そんなつもりは、別に、ないんだけど」
遠藤はしどろもどろだ。
「リラックスさせすぎちゃったかな」
馬渡が反省してしまった。
「いや」
と犬飼は擁護を試みる。
「分かるんですよ、やりたいことは。でも、なんていうか、この場で披露する作品ではないような」
似鳥も同意する。
「そうそう。下手な落語を聞かされちゃった気分だな。それならそれで、もっと笑いも欲しいし、もうひと捻りないと、もの足りんだろ」
「確かにそうだ」
牛久も同調する。
「入りは最高だったんだよな。完全犯罪っていうワードにそそられてさ、一気に期待が高まったもん。それなのにオチがショボくてさ、もう笑うしかなかったね」
「なんで塩を毒って言ったんですか?」
遥がストレートに訊ねた。
「いや、それは、話の展開上、仕方ないわけで」
遠藤が答えを絞り出した。
これにも犬飼が一定の理解を示す。
「そうです。それがミステリーの本質でもありますからね。隠された部分を推理したり、想像したりすることで、その作品を楽しむんです。理詰めで勝負する作家もいれば、想像力で勝負を仕掛けてくる作家もいます。今回の場合は、どのように祖父を殺したかという問題で、途中で塩を入れていることに気がつけば読者の勝利という感じでしょうね。味噌汁に入れて違和感のないものは塩しかないので、超初級問題だったと思います。僕は悪くないと思いましたよ」
「んむ」
と牛久は納得しつつも、首を捻る。
「こうして説明されると、もっともらしく聞こえるけど、やっぱり無理があるんだよな。結局、その爺さんは長生きしたわけだろう? だったら振りかけた塩は丁度いい塩梅だったわけじゃないか。真相が語られて振り返った時、ずっこけるようでは『悪くない』なんて言えないんじゃないか?」
似鳥も同意する。
「だな。味にうるさい爺様が毎日しょっぱい味噌汁を飲んでいたんだから、爺様にとっては最高の味噌汁だったんだよ。もう、その時点で笑っちまうじゃないか」
優子が思いついたまま口にする。
「これ、ひょっとしたら母親の視点で語られると面白かったかもよ。ある時、子供が塩を入れてることに気がつくの。それを最後のオチにしても良いんじゃない? それを告発するか黙っているかの葛藤があって、無邪気な子供の正義感も描かれるわけでしょう? その方が絶対おもしろくなると思う。ドラマ化すれば子役の演技が話題になって、ヒットするんじゃない?」
「子供の無邪気な正義感が殺意を生むわけか、悪くないね」
牛久が感心した。
「段々、良く思えてきましたね」
犬飼のお世辞か本音か分からない言葉だった。
遠藤が自嘲する。
「それはもう、僕の作品じゃないけどね」
「とりあえず、遠藤さんを最後にしなくて良かったでしょ?」
そう言って、馬渡が自慢げな顔をした。
「もう、その辺で勘弁してくれよ」
遠藤が降参のポーズを決めた。
そこで仕切り直すように馬渡が会話をリードする。
「そうですね。この辺にしておきましょうか。みなさんにも、そろそろ切り替えてもらわないといけませんからね。次は本日のクライマックスです。心して聞いて下さい」
一本の蝋燭の明かりだけが辺りを照らしている。
既に互いの細かい表情を読み取るには光量が不足している状況だった。
そんな中、馬渡だけが静寂を楽しんでいた。
この瞬間だけ、世界は彼のものだからた。
「どこから話しましょうか? 動機、そう、動機を語るべきなんだ。でも、その動機というのが、一体どっから始まったというのか、さっぱり分からないんだよな。いや、話すことは決まっているんですよ。ただ、始まりがね。
そうだ、足に痣があるんです。いや、正しくは火傷の痕なんですが、物心ついた時には古傷になっていたので、痛みなんてものはありませんでしたが、今もはっきりと残っています。
それが太ももの内側に大きく残っているものだから、幼稚園や学校で短パン姿になると目立つんですよ。ちょうどオシッコを漏らしたみたいに見えるから、からかう奴もいて、でもそんなことはどうでも良かった。
問題は、なぜそんな大火傷をしたかということなんだ。家が火事になったわけじゃないのに、赤ん坊が大火傷をしたわけですからね、そんなの不注意で済まされるはずないでしょう。
原因ははっきりしているんだ。酔っぱらって母親を殴った時、ストーブの上のヤカンがひっくり返ったのを見て、コイツが犯人だって分かったよ。俺に大火傷を負わせたのは親父だったんだ。
親父は地元で評判の外科医で、祖父の病院を継いだ、いわゆるエリートって奴ですよ。ただのエリートならば尊敬されて然るべきでしょうけど、親父は年に一回か二回、どうしようもなく手がつけられなくなる時があったんだ。
普段は家にいても自室に引きこもることが多いんだけど、半年に一度の割合で酒が深くなり、変な酔い方をしちゃうんだよな。あれは、なんなんでしょうね? 毎日お酒を飲んでいるのに、変な症状が現れるのは半年に一度なんだ。
目が血走って、暴力を振るい、相手を口汚く罵り、物を壊し、壁に穴をあけ、目を合わせると追いかけてくる。子供の頃は本当に怖かったですよ。一度は包丁を持って追い掛けられましたからね。そんな経験をしてしまうと、オバケなんて怖くなくなるんだよな。
ただ暴力に怯えるのは十五くらいまでで、そこまで成長すると、酔っぱらった中年をいなすのは難しくなかった。親父も酔いが醒めた時に痛感したのか、もう暴力を吹っかけてくることはなくなりました。
でも暴力が収まったと思ったら、今度は成績表を持ち出して罵るようになりました。それがもう、酒を飲んでいない時でも変わらないんですよ。先生からは、どこで聞いたのか、家庭内暴力を起こしている子供だと思われていましたし、母親なんか、僕の味方なんかしちゃくれません。
祖父母には落第生として扱われ、まぁ、実際に出来が悪いから仕方ないんですけどね。それでも一人くらい理解してくれそうな人がいてもいいじゃないですか? それが誰もいないんだよな。
頭がおかしいのは親父の方ですよね? だって家の中を見れば分かるじゃないですか。壁に穴が開いてるんですよ? いくら隠したって、穴が開いている事実まで塞ぐことはできないんだ。それなのに暴れてるのは僕の方? おかしいのは僕の方だと思ってるんだ。
冗談じゃない。もう耐えられない。これ以上親父の世話にはならない。そう思って、今日、親父を殺してきました。世間体を気にして、お金にしか興味がない母親にとっても、いい薬になったでしょう。
口うるさい人間の口を塞ぎ、世間体を気にする人間の顔に泥を塗る。僕が親父を殺したことで、少しでも教訓として知ってもらえれば、それだけで僕が、この世に生まれた意味があったということになります。
これ、たぶん地方のニュースじゃ収まり切れないでしょうね。明日の朝刊には全国紙に載るんじゃないですか? テレビなら深夜のニュース番組で流れるかもしれない。今頃、僕は重要参考人として指名手配されているでしょうね。まぁ、捕まえられるはずないですけど」
そう言って、馬渡が最後の蝋燭を吹き消した。
その瞬間、辺りは闇に包まれる。
窓の外から光が差し込むということもない。
静寂しかなかった。
「そうか、最後の火だから、こうなるよな」
「私が明かりをつけに行くので、待っててください」
「勇作君、私が行きますよ」
「すいません」
「いま気がついたけど、誰もタバコ吸わないんだな」
「ああ、そういえばそうですね」
「なるほど。ライターがあればよかったですね」
「禁煙が流行りだからね」
「そのうち犯罪になったりして」
「ハハッ、それで『むかしタバコを吸ってました』って告白するのかい?」
「そういうのも時代を映すんでしょうね」
「ジュースに」
「アメリカでは禁酒法時代があったんだから、おかしくないだろう?」
「確かにそうですね」
「ンン、アッ、ウッ、アァ……」
「ん?」
「どうかした?」
椅子が倒れる音が響く。
「大丈夫?」
「いきが……」
「え?」
室内に明かりが灯る。
遥が悲鳴を上げる。
見ると、馬渡が泡を吹いて床に倒れていた。
すでに意識を失っているようだ。
その場にいる者が一斉に立ち上がる。
その中で、いち早く動いたのは犬飼だった。
「みなさん、離れて」
犬飼は全員を馬渡から離れた場所に誘導させる。
「息は?」
遠藤が訊ねた。
犬飼が口元を手で押える。
犬飼は馬渡に触れられずにいた。
そこで遠藤が馬渡の脈を取った。
そして、首を横に振る。
「ごめんなさい。トイレに行かせてください」
そう言って、遥がその場からいなくなる。
「薬物です。かなり吐いたみたいだけど、相当な量だったんじゃないかな」
説明した遠藤も口元を押さえた。
「人工呼吸は止した方がいいね」
そう言って、遠藤は犬飼の方を見る。
「犬飼さんは、とりあえず救急車を呼んでください。いや、もう手遅れかな? それよりも警察が先か」
若干の間を置いて犬飼が頷く。
そして、その足で厨房へと向かうのだった。
「なんでこんなことに」
優子が茫然自失だ。
「ごめん、僕も胃酸の匂いが苦手なんだ」
そう言って、牛久がトイレに行った。
「全員で、一旦ここを離れましょうか」
遠藤の提案に、全員が頷く。
「それと現場を保存しないといけませんからね」
遠藤の口調は冷静そのものだった。




