続き
「それならば早速お願いしましょうか」
遠藤が猪俣に『犯罪の告白』を促した。
その合図を受けて、猪俣はしばし遠い目をする。
辺りは闇で、窓は反射した四本の蝋燭の明かりしか映さない。
日陰者の猪俣に注目が集まる。
そんな中、老人は静かに語り始めるのだった。
「人は私を様々な職業で呼びます。客室までお客様を案内すればベルマンと呼ばれ、料理を提供すればシェフと呼ばれます。その料理をテーブルまで運べばウェイターで、その格好のままレストランを出れば、支配人と勘違いされるお客様もいました。とかく人は、年齢や見た目の格好で職業を判断しがちですな。若かりし頃は、そう、勇作君が話していた下宿屋時代は、番頭さんと呼ばれることが多かった。雑務を一手に引き受けていましたから、そう呼ばれても特に不思議はないのも事実でございます。それでも私は自分のことを、一介の運転手に過ぎないと思っていて、それは勇作君の祖父が亡くなられた今も、気持ちは変わらないのですよ。先代の社長が亡くなられるまで秘書として仕えていましたが、専務という役職を与えられても、私は一介の運転手に過ぎないと肝に銘じておりました。下宿屋時代は住み込みで仕えていたので、職場だけではなく家庭生活も共有していました。そこでは執事のような役割もさせていただきましたが、やはり自分を運転手以上の肩書では認識することはできませんでした。下宿屋に捨てられた子供でしたから、役職が変わったところで、自分の中身が変わることはないということを理解していたのです。また、変わらぬことが恩義に報いることだとも考えていましたからでしょうな。ご主人様に雇われた従業員は、ご主人様の従業員であって、私の配下の者ではありません。そう考えると、役職によって、私が同じ従業員に対し、あたかも主人のように振る舞うのは間違いだということが、誰の目にもお分かりいだだけるでしょう。そういうわけで、私には出世欲というものはなく、一介の運転手でいることが誇りでもあったのです。
下宿屋を畳み、このホテルが建てられた時には、私もいい年でしたから、それを契機に退職を勧められました。退職金として一軒家も建ててもらい、充分すぎるほどの蓄えもあり、それ以上望んでは罰が当たりそうな程の施しを受けました。齢六十を過ぎて初めての独居暮らしで、食べることに困らず、新しい釣竿を欲しいと思えば手に入れられる生活で、何一つ不満はなかった。そう、不満を感じては罰が当たるような生活でしたな。それが、たまらなく寂しかったのですよ。もう、生きた心地がしなかった。退職祝いの送別会が、まるで葬式のようにも感じられ、翌日には死んで何も残っていないようにも感じられた。どこへ行くにも自由だが、行きたい場所など、どこにもなかった。給料などいらぬから、賑やかな職場へ帰りたいと思いました。そんな時、声を掛けてくれたのが、ここにいる勇作君だった。私は新しい主人を得られて、喜びに沸きましたよ。ただし、先代はあまりいい気分ではないのが分かりました。私は感情を見せないのも仕事の一つだと思っていましたが、先代はそんな私を薄気味悪く感じていたことでしょう。先代の父親に拾われた時、先代はまだ生まれていませんでした。先々代は出生の違いで私と実の息子である先代を分けたりすることはありませんでしたから、私が我慢強くすればするほど、先代は甘えん坊だと叱られてしまうのです。捨てられた子供という意識を忘れなかったので、それが謙虚さを生み、奉公する姿が孝行息子のようにも見えたのでしょう。そんな私と比べられたのですから、先代も大変だったに違いありません。また、先々代も実の息子を特別に可愛がるようなお方なら、先代も私を気にすることもなかったのでしょうが、先々代が息子のように接したのは、私の方でございました。奥様からは年の離れた友人とも呼ばれましたが、それくらい勇作君の祖父から可愛がられたのです。
運転手、または執事でも構いませんが、私のような人生を送る人間など、小説では脇役と相場が決まっているものです。誰もが『日の名残り』というわけにもいきません。私自身も、ご主人様に仕えることに喜びを感じ、感謝を捧げていたので、分不相応の想像などしたことすらありませんでした。それが、あの、道の真ん中で、飛べずに、死にそうになっている、鳥を見るまでは。その鳥を見てしまったばっかりに、私の人生だけではなく、このホテル、それだけではなく、テーマパークや、いや、もっとだ。市の観光事業の行き末まで変えてしまったのでございます。主役になるべきではない私の元に、その鳥がやってこなければ、周りを不幸にすることはなかったでしょうな。考えすぎだと思われるかもしれないが、それを機に状況が一変したのだから、私の元に主役の座が回って来たと考える方が自然なのですよ。そう、主役の座は巡るもの。必ず巡ってくるとは限らないが、私のような日陰者に巡ってしまうと、周りを不幸にしてしまうのです。
ホテルが開業して二年、テーマパークの客足も順調に伸びていました。私も勇作君も大忙しで、家に帰る暇もないくらい仕事に追われていましたな。本当はいけないことですが、一か月で休日を一日も取らない時もあり、それを苦に感じるどころか、下宿屋時代を思い出して、嬉しくさえ感じておりました。しかし寄る年波には勝てないということか、ある日、生涯を通して、生まれて初めて朝寝坊というものをしてしまいました。私は運転手という仕事に誇りを抱いていたのは、それがご主人様を定刻通りに行動させるためでもあったので、自分が時間を守れないことにひどい絶望感を味わったのですよ。目が覚めて、時計を見た時、人生でこれ以上ないほどの罪悪感を抱きました。それでも、まだ遅刻は免れるかもしれないと思い、急いで歯を磨きました。服装や髪形をセットして、後は車に乗り込むだけです。他の者にしてみたら、たかが遅刻で大袈裟だと思われるかもしれませんな。特に北海道では時間通りにバスが来ないことは珍しくない。それでも、私はバスが遅れることを見越して行動してきた人間なので、それを先々代のご主人様にも評価されたわけで、どうしても遅刻だけは自分を許すことができなかった。
車に乗った時点で、普段使わない山道を急げば間に合うことが分かりました。舗装されていない一本道ですので、冬場は使えないが、それ以外ならば問題はありません。ところが、道の真ん中に、その鳥はいたんですな。急いでいたので、悠長に観察している暇などありませんでした。見えたのは、血を流して赤くなっていたか、それが乾いて黒くなっていたか、それを朝日が照らして青くなっていたか、元々はどんな鳥だったのか、今となっては思い出すことができないのですよ。ただ、その鳥の前に車を止めた時、こちらを見て目が合っているのが分かるのです。言葉は通じないはずなのに、助けを求めているのが本能的に理解でき、私が助けに応じないと分かると、今度は恨みのような念を送ってくるのですよ。熊や鹿を殺したことはあったが、動物に感情を送られたというのは、その時が初めてでしたな。人間が恨めしい顔をすれば察しがつくでしょうけど、表情のない鳥から念が送られるわけですから、そこに神様の存在を感じてしまうのも無理ない話ではありませんか。どの国や、どの宗教にもあるでしょう? 動物が神の使者として描かれることがね。その瀕死の鳥を見殺しにした時、私はすぐに神からの使者を連想してしまいました。社則である遅刻は免れたが、もっと大きな、人間としての誤りを犯してしまったような気がしたのです。それから後悔しました。たった一度の遅刻より、鳥を見捨てた自分の判断力に、なんて自分は冷たいことをしてしまったのだろうと、心底軽蔑してしまうのです。年老いた私が遅刻したからといって、今さらホテルの営業に影響はありません。それよりも鳥を手当てできないことで、生命の営みに影響を与えたかもしれないと考えられたわけですよ。特に、それが森の守り神のように感じられたら尚更だ。ホテルもテーマパークも右肩上がりでしたが、それを機に傾いていったのは、今でも偶然じゃないと信じております。
新しくできるはずの国道の話が立ち消えたのを契機に、新規の事業者は撤退し、テーマパークの負債が市の財政を圧迫するようになり、このホテル事業も急落していきました。ゴルフ場は予定通りオープンしましたが、北海道なら交通の便がいいところなら幾らでもありますから、客は他のゴルフ場を選びます。国道の開通を見込んでオープンさせたので、先代の思惑は見事に外れたということです。しかし、その国道として開通させる予定の道が、私が鳥を見殺しにした道であることは、今日の、この瞬間まで誰にも話せなかった。声を掛けて頂かなかったら、誰も知らずに墓場まで持っていくところでした。信じてほしいといった感情はありませんが、勇作君がホテルの売却に反対したから不幸を招いたというのは大きな間違いだ。先代が生きている間、売ろうとしても売れなかったのですよ。もしもあの時、鳥を保護できていたら、どうなっていたでしょうな? 国道が開通し、テーマパークは下火になったとしても、ゴルフ場とホテルがあれば、年間を通して質の高いサービスを維持できていたに違いありません。道東から道南へ移る貴重な中継地にもなっていたでしょうし、テーマパークから人が消えることもなかったでしょうに。すべては、あの鳥なんですよ。あの鳥が、私ではなく、もっと心の優しい人間の元に現れていれば、この地域の未来は変わっていた。死を前にして、それだけが悔やまれるのです」
語り終えた猪俣が蝋燭の火を消した。
第一声は牛久だった。
「いやぁ、鳥の話で、ここまで話が大きくなるとは思いませんでした。猪俣さんも仰っていましたが、信じるか信じないかということではなく、どこに罪の意識があったかということが重要なんでしょうね。そういう意味では、とても面白い話でしたよ。話を聞く前にケチをつけて申し訳ありませんでした」
遠藤が小刻みに頷く。
「そうそう。同じ内容の話を若い人がすると説得力に欠けるんですよね。だからといって、とても信じられる話ではありませんが、猪俣さん自身が信じて疑っていないような、そんな切迫した思いが感じられました」
似鳥がワインを注ぎ足す。
「結構じゃないか。ホテルに魅入られた男と、神様からの使者である鳥と出会った男が一緒に働いているんだろう? それくらいイカレてなきゃ、ホテルの葬式なんか思い付きもしないだろうさ。お次は奥さんだけど、どんな話をしてくれるか、俄然楽しみになってきたな」
「私は普通の話です」
洋子は慌てて口を開いた。
「いいね」
似鳥が称える。
「自分を普通だと思うことが狂人の条件だからね。普通? 結構じゃないか」
洋子が困惑する。
「いえ、そんなんじゃないんですよ」
遠藤が諌める。
「まぁまぁ、似鳥さん。そんなに追い詰めるような言い方をしては、プレッシャーになってしまいますよ。それでは緊張して言葉が出てこなくなってしまいます」
そこで洋子に声を掛ける。
「普通という言葉には特に意味が込められているわけじゃないでしょうし、気楽に話してください」
「ありがとうございます」
洋子は緊張を解くため、ワインを口にする。
「そりゃ、悪かった。ちょっとばかり悪乗りが過ぎたかな?」
似鳥もワインを呷った。
遠藤が『犯罪の告白』を促す。
「それでは、落ち着いたら、いつ始めてもいいですからね」
その言葉に、洋子が大きく頷く。
「実は、ついさっきまで、何を話そうか、まだ迷っていたんです。迷っていたというより、何も思いつかなくて、困っていたんです。それで猪俣さんが鳥を見捨てたという話をされて、やっと話すことが見つかりました」
洋子がワインで口を湿らす。
「私も見捨てたことがあるんです。でも、それは鳥のような動物ではなく、私の場合は人間の子供です。見捨てたというのも分かりにくいですよね。正しくは何もしてあげることができなかったと言ったらいいんでしょうか? とにかく、その子や、その子のお母さんに、私は優しくできなかったんですよね。
札幌から越してきたその子のお母さんは、最初は自然に囲まれた土地で暮らせることに喜んでいたんですよ。子供を身ごもった時も、こんなに素晴らしい環境で子育てができるなんて最高だと話していました。私も同郷だったので、その気持ちがよく分かったんです。その時は、本当に表情も柔らかく、口にする言葉も、ありのままなんだろうなと感じられました。
最初に異変を感じたのは病院でした。大きくない町なので、病院を選ぶということはありません。たまたま同じ時期に妊娠できたということもあり、私もその子のお母さんと一緒の病院に通うようになったんですが、どうにも様子がおかしいんですよね。これは微妙な雰囲気なので、言葉にするのがとても難しいんです。私たちに対して、周りの人が、何か言いたげな、それでいて、一切口を利いてやらないと言わんばかりの態度というか、とにかくおかしな雰囲気なんです。
こういう些細な問題っていうのは、男の人は聞き入ってくれません。その子のお母さんの旦那さんもそうでした。実害がなければ、気のせいだろうで済まされちゃうんです。実際は妊娠した途端、スーパーで挨拶をしていた人が、急に挨拶をしなくなったり、明らかに私たちを見ながら噂話を始めたり、陰湿な印象を感じるようになっていくんですよね。ただ、こちらから話し掛けると普通に接してくれるので、傍から見ると、やっぱり考えすぎだと思われちゃうんです。具体的に、例えば暴力沙汰があれば分かりやすいんでしょうけど、特にエスカレートすることなく仲間外れになるだけなので、見方によっては、打ち解けない私たちに非があると思われたりもします。不平を言えば被害妄想が激しいと誤解されますし、打開する努力も鬱陶しく感じてしまうんですよね。こんなことを言うと、やっぱり被害妄想だと思われるかもしれませんが、どうもみんなで私たちを孤立させて、妊娠中に過度なストレスを与えているようにしか感じられなかったんです。子供が無事に産まれても、将来、その子たちの親と一緒の学校へ通わせないといけないと思ったら、もう、どうしようもなく怖くなって仕方がありませんでした。
結局、幼稚園に通わせる年齢になっても、子供が周囲に馴染めず。ええ、それも母親一人の責任になるんですけど、その子は幼稚園に通うこともできなくなり、小学校にも行きたくないって言うようになったらしいんですよね。私も私で自分の子供のことで精一杯でしたから、何もしてあげることができませんでした。せめて一緒の幼稚園に通うことができたら良かったんですが、経済的にそういうわけにもいかず、最後は消息不明のまま別れてしまいました。郷里に帰ったという噂すら聞きませんし、今はどこで何をしているかも分かりません。
私も子供を幼稚園に通わせて分かったんですが、ここら辺の子供は親が同じ学校出身で、その親の親まで同じ学校出身だったりするんです。地元の女はみんな身内でも、余所者の女は他人なんですよね。それでも景気が良い時は愛想もいいんです。けれど景気が悪くなると、町に災いをもたらしたなんて、本気で思い込む人も少なくないんですよ。特にこういう田舎ではね。余所者の子供が馴染めないからといって、心を痛める人はいませんし、それどころか、悪いことが起こるたびに、余所者が原因だって考えるんですよ。心を閉ざした子供を見ては病気を疑う始末です。期待しちゃいけないんですよ。こういう田舎にはね。可哀想にしていれば、誰かが優しくしてくれる、なんて思ってはいけないんです。随分と酷い言葉を並べてしまいましたが、私もあと四十年も住み続ければ、この辺の人と同じようになってしまうかもしれません。同郷の彼女を救えなかった私に、この先、一体なにができるというのでしょうか。結局は同じになるんです。今はそれが、とても恐ろしくて仕方ありません。その子を助けられなかった時点で、私も同罪なんですよね。見捨てたというのは、そういうことでもあるんです。本当にごめんなさい」
そう言って、洋子は蝋燭を吹き消した。
またしても第一声は牛久だ。
「かなり辛辣な言葉でしたが、鈍感な男を代表して謝っておきましょう。とりあえず、この場に地元の女性の方がいなかったのは助かった。いや、それとも直接聞かせてやった方が良かったのかな? いずれにせよ、ところどころ耳が痛い話でしたね」
「すいません」
夫である犬飼が代わりに謝った。
牛久がニヤッとする。
「それは誰に対して謝っているのかな?」
「いや、それは、その……」
犬飼は言葉を濁すのだった。
「ほら、余計な詮索はしない約束ですよ」
遠藤が釘を刺した。
牛久が謝る。
「そうでした。それはすまない。次は遠藤さんの番でしたね。また余計なことを言って、機嫌を損ねないように気をつけなくちゃね」
遠藤が一息つく。
「正直、余興を思いついた段階では、みなさんがこれほど饒舌だとは思ってもみませんでした。最初は質問を挟みながら、上手に話を引き出してやろうと思っていたんですが、まったく必要なかったですね。今は余計なことをしなくて本当に良かったと思っています」
「遠藤さん」
と馬渡が呼び止める。
「まとめるのはまだ早いですよ。せめて自分の番を終わらせてからにしましょうよ。僕だって最後に残ってるんだし、真打は僕が務めるんですから、遠藤さんは気楽に話してくれれば、それでいいんです」
「こりゃ、どっちが本職かわからんね」
似鳥の呟きだ。
遠藤は反論しない。
「そうだね。ここで時間を引き伸ばしても良くないし、さっさと腹を括った方が良さそうだ」




