東京鬼ごっこ
トンネルを一つまた一つと抜けるたび瀬戸内独特の柔らかな景色が広がっていく。
車窓越しにキラキラひかる海を眺めていると、夢を持っていたあの頃に戻っていくようなそんな錯覚に陥る。そうだったらどんなにいいだろう。
トンネルに入ると車窓に映るのはどんよりとした目を持った中年の冴えない男だ。
仕事だけが生きがいの仕事人間だって?いったい私の何がいけないのだ。
私は自分に問いかけてみた。すぐにまた穏やかな海が視界にひろがる。
「別れて下さい。」
唐突に妻に言われた。二十五年連れ添った妻だ。
「何を言ってるんだ!」
その日ひとり娘を新婚旅行に送り出した私は淋しさと満足感の混ざり合った酒のはいったぐいのみを口から離し妻を見た。
「別れて欲しいんです」
冗談かと思ったが、妻は両手をついて頭をさげている。
「何をばかな事、くだらん事に付き合っていられるか」
妻が頭を上げて私を見た。冷ややかな目だった。
「今更何を言い出す、別れていったいどうするつもりだ」
「私は、自分の人生を送りたいんです」
「自分の人生?何が不満なんだ」
「私は私の生き方で歩いてみたくなっただけ、あなたの添え物ではなくて」
「生意気な、お前自分で歩くってことがどういう事かわかってるのか!」
「あなたにとって私はいつも妻以外の何者でもなかった。私は私なの。あなたの妻で 奈津子の母で…でもひとりの人間だわ。」
「ばかばかしい」
「そうね、仕事の事しか頭にない仕事人間のあなたにはわかりっこないわね」
私は言葉を失った。従順な妻だった。家事も育児もそつなくこなし、職場でも良妻で通った妻だった。
次の日妻は持てるだけの荷物を持って家を出た。
娘達が帰ってくる頃には戻ってくるだろうとたかをくくっていたが、一ヶ月たっても妻は姿をあらわさなかった。
娘には居所を知らせてあるらしく、娘夫婦はさほど心配する様子もなく新婚生活を送っている。
困るのは私だけだ。正直私は参っていた。
食事は外で食べる事ができたが、身の回りの事がさっぱり要領を得ない。
洗濯は週に一度仕事帰りの娘がしてくれた。頭痛がして眠れない夜、「おい!薬」と思わず口に出てしまい、そういう事のすべてが私を打ちのめして行く。
「お父さんって本当にお母さんの事なんにも解っていなかったのね」
洗濯物をたたみながら娘があきれた顔で言う。
「お母さんの焼き物の腕はみんなも認めているというのに…」
妻が陶器に凝っている事は知っていた。
妻が陶芸教室に通い始めた時、日曜日に一人でのんびり出来る事を内心喜んだものだ。だが所詮はお遊びにすぎないと思っていたし、妻の陶器をまともに見た事などなかった。
「お前、母さんの居場所知ってるんだろ?」
「ええ、もちろん知ってるわ」
「いつまで拗ねているつもりなんだ」
「お父さん、私だって二人の離婚を喜んでいる訳じゃないのよ。でもね、お母さんはもうお父さんと一緒の人生ではなく、お母さんの人生を歩き始めているの。女として私は、お母さんの気持ちが良く解るわ」
娘にそう言われて内心私はあせった。
私は離婚など考えてもいなかったし、この年になって一人で暮らせるほど器用な男でもなかった。
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折り悪く仕事の方でも煮詰まってしまい、有望な若手が活躍する企業では定年予備軍の人間などリストラの対象でしかない事を思い知らされた。
今までまったく消化していなかった年次休暇なるものを取る気になったのは上司の
「君も少し休暇でもとってリフレッシュしたらどうかね」
という言葉に反発しての事だった。いらないのなら辞めてやる!心のどこかにそんな思いもあった。
幼い頃良く皆と泳ぎにいった海岸だ…瀬戸内の島々は美しい。
あの町は自分を快く迎えてくれるのだろうか。20年近く帰っていない町だ。
両親が相次いで亡くなった時、すでに東京での結婚生活に入っていた私は 一人っ子である事をいい事に両親の建てた家を売り、まるで古着を脱ぎ捨てるようにこの町を捨てたのだ。
在来線に乗り換える。懐かしさと不安とが交互に私を襲う。
駅に着いたらまず何処か旅館を探さなければ…
唯一今でも年賀状のやり取りをしている幼馴染には今日戻る事は知らせてあったが親戚といっても父方の叔母が住んでいるくらいで、そこもやはり敷居が高かった。景色は一面緑の山に変わり、やがて少しも変わらない故郷の駅に着いた。
改札を出た所で「達夫!」と声を掛けられた。
「え?」
「わしじゃあ!忘れたんか?」
「喜一っちゃん?」
ガキ大将だった大隈喜一は少し太った人の良さそうな中年に様変わりしている。
「どうして?」
「今日達夫が帰ってくるいうて稔に聞いたけぇ。みんな喜んで今夜は宴会じゃけね」
「みんな?」
「ほうよ、町におるもん皆楽しみにしとる。ここを出て行ったもんも盆暮には里帰りしてそのたびに集まっとるが、お前ときたらまったくの音信不通じゃ」
「そんな…もう忘れられてると思っていた。」
「稔が夕方まで仕事の手があかんいうんで、急遽わしがお迎えにあがったっちゅう訳よ!」
軽トラの横に大隈工務店とペイントされた車の助手席に乗り込んで、喜一の横顔を見ていると鼻の奥がジンと痛くなる。人の心の温かさに触れた気がした。
「親戚の家に泊まるんか?」
「いや…旅館を探そうと」
「ほうか、ほんなら丁度いい、今夜は晶子の所で宴会じゃけそこに部屋をとりゃええわ。」
「晶子?」
「峰晶子じゃ、一級下の。今は三矢ちゅう旅館のおかみよ」
喜一は携帯ですぐに連絡をとり部屋の予約を入れてくれた。
「ありがとう、何から何までこんなにしてもらえるなんて思ってなかったよ」
私はみやげ一つ持ってきていない自分を羞じた。
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三矢は子供の頃私達が遊び場所としていた神社のすぐ近くにあり、木造のしっとりとした外観の旅館だった。
「あらぁ!達夫さん!?」
晶子は喜一に連れられて来た私を見るなり、懐かしそうに目を瞬いた。
「どうじゃ?晶子。達夫はちっとも変わっとらんじゃろう。」
「ほんまじゃねぇ…私らが憧れとったままの達夫さんじゃわ」
喜一は笑いながらここの女達は皆達夫のファンだと説明した。
「わし、今から一軒仕事があるんで行くわ。達夫今夜は楽しみにしとれよ。懐かしい顔が集まるから」
「ありがとう、楽しみにしとるよ。」
何の打算もない屈託のない笑顔で手を上げて喜一は車に乗った。
「みんな、うれしいのよ。出世頭の達夫さんが戻ってきてくれたんだもの」
部屋に案内しながら晶子が言う。
「そんな、出世頭だなんて…」
「東京の一流大学を出て、一流企業に入って、美人の奥さんを貰って、みんなの自慢!」
その笑顔に頭を振り否定しながら、胸の痛みを感じる。
「荷物を置いたら少し外を歩いたらええわ。懐かしいでしょ?」
「清神社がすぐ隣りなんだね。」
「よく遊んだものねぇ、神社の境内で…」
旅館を出てぶらりと歩いてみる。清神社は小さないながらも、大蛇退治で有名なスサノオノミコトを祭っており、町民達の誇りだ。
毛利元就のゆかりの神社で、すぐ近くに元就一族の墓もある。
旅館の名前の「三矢」も毛利元就の三矢の訓えからとったものだろう。
腰を掛けてボーっとしていると、子供の頃の自分が太い幹の木の陰からふいに飛び出して来るような不思議な気分に襲われる。
この町を出て四十年近くなるが、正直ここを懐かしいと感じた事はあまりなかった。
市内の進学校で有名な私立高校に入学し、寮生活を送っていた時も、ここに帰りたいと思ったことは一度もなかった。
それなのに今感じるこの懐かしさはいったい何だろう。父も母もいなくなっているというのにこの町はこんなに優しい表情で私を迎えてくれている。
私の乾いた心のひび割れがきれいな水で少しずつ潤っていくようなそんな気持だ。
旅館に戻ると晶子が冷たい麦茶を持って来てくれた。
「どう?神社の周りもちっとも変わっていないでしょ?」
「うん。まるで小さい頃に戻ったような感じになったよ、昔のような祭りもあるの?」
「ええ、五月に、子供歌舞伎も昔のままよ。少し前にテレビドラマで毛利元就をやったもんで、一時は観光客が増えたんじゃけど、今はまた静かなもんじゃわ」
「ああ…ドラマ、楽しみに見てたよ」
「あの元就の子供の頃をやった人、達夫さんに良く似てるって私ら寄ると話したものよ」
晶子は思い出したように笑った。
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「もう少ししたら喜一さんも戻るし、声かけるからゆっくりしとってね」
「あの…誰が来るんだろう、今夜」
「ここに残ってる同級生達、もっとも私みたいに一級下って言うのもいるけど、この辺で遊んだ仲間だから、達夫さんにも懐かしい顔ぶれよ。」
しばらくして携帯が鳴った。
「達夫、かえっとる?」
中川稔だ。
「稔?今旅館だよ。」
「ああ、喜一から聞いた。三矢に泊まるって?俺も今から行くわ。」
この町の昔の仲間が私の事を歓迎してくれるはずがない、そんな不安をどうしても消す事が出来ないでいた私は稔の声を聞いてようやく少し落ち着いた。
「達夫さん、みんな集まっとるよ」
晶子が呼びに来た。
期待と不安で胸が痛くなる。
襖を開けると十数人の顔がいっせいに私に向いた。
「たっちゃん!!」
どの顔も穏やかに笑っている。
「久しぶりじゃねぇ」
「元気にしとったんかい」
よく喧嘩した光男に小学校でクラス委員を一緒にやった友子…
ふたりで図書室に入り浸った健一。
よく見ると確かに懐かしい顔ばかりだ。
「どうも…ごぶさたしてまして…」
「ほんまに、えらいごぶさたじゃ!」
「近況報告してもらわんにゃあいけんね。」
仕事の事、娘の結婚の事を簡単に話す。
「この不況で東京での生活は大変じゃろうに、ようがんばっとるね。達夫の所は大企業じゃけ、不況やら関係ないか」
喜一がビールをつぎながら言う。
「うちらぁみたいな下請けの下請けはそりゃあもう大変よ。この町じゃけぇやっていけとるんよ、ありがたいことじゃ」
稔が横から口をはさむ
「喜一ん所は奥さんがしっかりもんじゃからじゃろ…達夫、喜一は真理ちゃんを嫁にもろうた事話したかいね」
「真理ちゃん?」
「ほうよ、三つ年下の可愛い子がおったろうね。」
「山根さんとこの真理ちゃん?」
「そうそう…あの可愛い真理ちゃんをちゃっかり嫁さんにしたんじゃけぇね。ほんまによう出来た奥さんで。」
喜一は笑いながら汗を拭いている。
「そういやぁ、今日ラジオで昔の遊びの事話しとったけど、懐かしい名前がでてきて、昔みんなで遊んだ事思い出したよ、東京鬼ごっこ、覚えとるか」
「東京鬼ごっこか、ここでよう遊んだのぉ」
「あの頃はなんでも東京っちゅうのがつきゃあハイカラじゃったもん、鬼ごっこでもハイカラな鬼ごっこいう意味じゃったんじゃろうね」
「東京鬼ごっこ…」
突然私の目の前を茶色のおかっぱ頭の少女が横切った。
「えッ?!」
それは一瞬の出来事で瞬きの瞬間脳裏を横切ったと言う方が正しいかもしれない。私は思わず頭を振った。
「達夫さん、どうしたん、まさかこれくらいで酔っ払ったなんて事ないでしょうね」
晶子が覗き込む。
「大丈夫、最近あんまり飲む事がなかったんで早く回りそうだけどね」
「酔っ払ったら、私らでちゃんと介抱してあげるけぇ安心して飲みんさい。ねぇ友ちゃん」
「ほうよ、たっちゃんじゃったらどんな事でもしてあげるわ」
「ほぉ~どんな事でも…すごい事言うのぉ友子は」
「あらぁ!たっちゃんは紳士なんじゃけ、喜一ちゃんのような下心はないわいね」
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久しぶりで心から笑えた。懐かしさとほろ苦い思い出の中で私は心地よい酔いに身体をあずけていた。
小さな手が私に向かって差し出される。私は一生懸命その手を掴もうと手をのばすがどうしても掴めない。
蝉の声が耳鳴りのように響いている。待ってくれ!私はその後姿に声をかけた。
白いワンピースの後ろで結んだリボンが少しゆれてゆっくりとおかっぱ頭が振り返った。
身体中から汗がふきだしている「夢?」
私はあたりをゆっくりと見回した。
ああ、昨夜はしたたかに飲んでそのまま寝入ってしまったのか。
「八時半か…」
カーテンを開けると朝の日差しが目に眩しい。
顔を洗い部屋を出ると部屋係と廊下ですれ違った。
「お目覚めですか?朝食の時間をお聞きするように言われてますが」
「あ、少し散歩してくるから、おかみさんに又声をかけると伝えて下さい。」
神社までの道をゆっくり散策しながら、私は今朝方の夢を思い出していた。
あの手…おかっぱ頭…白いワンピース…どれにも強い気持が働く。
漠然としているが重大な事を忘れているような、そんな思いがだんだん強くなっていく
誰なんだ…思い出そうとすると全身を得たいの知れない恐怖が襲う。
白い小さな手だ。小学1年生くらいだろうか。私は思い出せる限りの女の子を思い浮かべた。あの頃はほとんどの女の子がおかっぱ頭にしていたように思えるが、なぜこんなに気になるのだろう。
旅館に帰るとちょうど晶子が迎えてくれた。
「あら、お帰りなさい。良く休めた?」
「おはよう。昨夜いつ眠ったのかも記憶がない」
「朝食、どうしましょう?お部屋で?」
「ああ。そうだな、悪いね遅くなっちゃって。」
部屋の中はきちんと整頓されている。
朝食が用意され、終る頃を見計らって晶子がコーヒーを持ってやってきた。
「ありがとう、おいしかったよ。」
「良かった!達夫さん、ゆっくりして行けるんでしょ?」
「特に決めてないんだ。久しぶりだから少しのんびりとは思ってるけど」
「それがええわ、都会ではゆったりとした時間なんてなかなか持てないもんね」
私は思い切って尋ねてみた。
「変な事聞くけど、茶色の髪でおかっぱ頭、目も茶色っぽい…そんな子に覚えはないかな」
「え?茶色のおかっぱ頭?」
「うん、晶ちゃんと同じ年くらいで…」
「誰じゃろう。子供の頃はみんなおかっぱ頭しとったから…どしたん、達夫さんの初恋?」
「まさか、初恋じゃったら忘れたりせんじゃろう。」
「ほんまよね…あら、達夫さん広島弁!」
自分でも不思議なくらい素直に自分の言葉で話せる。
思えばこの町を捨てた頃からこのあたりの言葉は極力話さないようにしていた。
方言を嫌っていた訳ではないがその方が自分らしいと思っていたしそれと同時に広島弁に対してある種の恐れの様なものを感じていたのだ。
忘れた物を思い出してしまいそうなそんな恐れだ。
「そういえば、皆で写した写真があるわ、この辺の子供みんなで」
「写真?そうか、僕のところには一枚もないな。」
晶子は少し古びた表紙のアルバムを大切そうに抱えてきた。
「これ、いつだったか子供会のメンバーで遊園地に行った写真。その子、写ってるかしら」
この町にあった小さな遊園地。そういえば何かと言えば子供達はこの遊園地へ集まったものだ。大人が二三人でも充分監視できる唯一の場所がここだった。
その写真には見覚えのある懐かしい顔が並んでいたが、あの少女はいないようだ。
「名前でもわかればねぇ」
「ああ、ごめん、雲を掴むような話だよね。本当にいたのかどうかもわからないし」
「ううん、いいのよ、また何か思い出したら言って」
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窓辺に座って外の景色を見ていると心の刺が一つずつ取れて行く様なそんな気がする
自分が今まで一番必要だと思っていた事がさほど重要な事ではないと思えてくる。
どうしてもっと早く妻や子供を連れてここに帰ってこなかったのだろう。
時の流れが本当はこんなに緩やかでその中にいると人間は優しい気持に戻れるのだと気付かされる。
不意に妻の事が脳裏に浮かぶ。結婚して25年、自分は妻の事を真っ直ぐに見つめた事があっただろうか。妻を一人の人間として認めた事があっただろうか。
娘の事にしてもそうだ。娘の何をわかっていたのだ。学校の事恋愛の事、すべて妻に任せっぱなしだったじゃないか。
だが…と別の自分の声がする。自分は精一杯働いてきたのだ。妻子に不自由な思いをさせたくない、ただそう思って働いてきた。それがいけないというのか。
「達夫さん、もし退屈してるのなら一緒にいかない?」
晶子は近くの窯元へ行くのだと言う。
「焼き物するの?」
「ええ、でもほんとに土いじりなんよ。土をさわってると気持が落ち着くけんね」
「ふうん。そんなもんかな」
「達夫さんもやってみたらええわ、嫌な事忘れるのにはいちばんよ。」
窯元と言ってもセンスのいいログキャビンで入口では一匹のコーギーが愛嬌を振りまいて迎えてくれる。シンプルな木製ボードには「安芸野」と書いてある。
中に入るとジーンズ姿の女性がろくろを回している所だ。長い髪を無造作に一つにまとめ 一心に土に向かい合っている。
「先生こんにちは」
晶子に先生と呼ばれた女性は顔をあげ、あら、と一瞬私を見た。
「今日はお友達を連れて来たの。土さわらせてあげてもいい?」
「どうぞ、お好きなだけ土に触れればいいわ。ここでは何を作っても自由だから」
晶子に促されて土をこねる。かなり力のいる作業だ。 私はいつしかその単純な作業にのめりこんで行った。
見よう見まねで一枚の皿を作った。繊細さはないが自分ではいい感じの中皿だ。
土の捏ね具合によって焼き物の出来もまったく違ってくると晶子は言った。
力を込めて土を捏ねていた妻の姿を思い出す。
こんな物の何がおもしろいのだ…いつもその背中に向かって思っていた。
「不思議でしょ?なんでもない土の塊がいろいろ姿を変えるって、ご一緒に焼き物やりません?」
先ほどの女性がコーヒーを入れてくれ、私の皿を見ながら言った。
「こちらは新宮香絵さん、このあたりでは有名な陶芸家なのよ。先生この人は私達の昔のアイドルだった山村達夫さん。ね、先生なかなかいいセンスじゃない?このお皿」
「ええ、やっぱり男の人のは力があるわ…焼くとまた感じが違ってもっと良くなるはずよ」
「新宮?新宮さんって言われましたか?」
「はい。」
「かな」
「達夫さん、新宮さんがどうかしたの?」
「香絵さんとおっしゃいましたよね。もしかしてお姉さんがいらっしゃらないですか?」
とつぜん頭の中にあのおかっぱの女の子の名前が浮かんだ。
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かな…そうだあの子は「しんぐうかな」という名前だった
「いいえ、家は兄と私の二人兄弟ですが」
「そうですか、ご親戚にかなさんと言われる人はいませんか?」
「かなさん?さあ…聞いたことありませんねぇ」
少し晴れかけた霧がまた濃くなったようなもどかしい思いだ。
「達夫さんの探している女の子は新宮という名前なの?」
「ああ・・しんぐうかな・・かなって呼んでた」
「この町の子に間違いないの?」
新宮香絵を紹介された時彼女の目になぜかその少女の眼差しを見た。どことなく似ている。
「すみません、突然失礼な事を。あの…これから焼き物の勉強をするのは遅すぎますか?」
「え?あ、いいえ、遅すぎるなんて事ありませんよ」
「そうよ、達夫さん、一緒にやりましょうよ」
自分の気持をこんなに素直に口に出すなんて、本当に何年ぶりだろう。少年のようなワクワクする思いと、すぐ目の前まで現れかけているおかっぱ頭の少女を探し出したい思いで私の胸は高鳴った。
「新宮かなさんね。誰か知らないか聞いてみるけん」
帰り道晶子が私を励ますように言った。
「まちがいなく実在していたはずなのに、どうして皆覚えていないのかな。僕だけが幻を見ていたのだろうか?」
「どんな風に会っていたの?」
「どんなって、僕が一人でいる時いつも何処からか…かなもいつも一人だったんだ。」
「何だかミステリーって感じ。ちょっと怖いけどすごく興味が湧いてきた。ねえ 何か覚えとらん?家がどこだったかとか」
「だめだ…思い出そうとするとかえって霧が濃くなってくる。」
「そうか、無理に思い出そうとしないほうがええよ。」
部屋に戻るとさっそく晶子が「焼き物入門」という本とやはり陶芸関係の本を何冊か持ってきてくれた。
「ここにいる間だけでなく、ずっと続けてね、きっと陶芸に出会って良かったと思えるから」
土をこねる感覚がまだ手の平に残っている。それは子供の頃泥をこねていくつもの泥饅頭を 作った時のかすかな思い出と重なりなつかしく柔らかな風を胸の中に吹き込んでくれる。
妻の気持が少しわかった気がした。
晶子が貸してくれた本には私とほとんど同年代の陶芸作家が紹介されていてそれぞれに 個性ある作品を創り出している。
こういう世界もあるんだ…素晴らしいと思った。自分も何か残してみたい 仕事だけで終るのではなく、こういう形になる物を残したい。素直にそう思った。
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「新宮香絵さんの作品を使った店を香絵さんのお兄さんがやってらっしゃるの、明日行ってみましょう」
私は晶子の優しさに感謝しながら頷いた。
翌日は喜一も稔も午後は時間が取れるからと、一緒に食事でもしようという事になった。
晶子が話したらしく「新宮かな」なる人物について二人とも少なからず興味を持っていた。
新宮香絵の兄がやっている店はこの町でも少し奥まった場所にあり、梅と桜の時期をはずせば さほど人が集まらないのでは、と思えるような店だった。
しかも人通りのなさの上に言われないと素通りしてしまいそうな佇まいだ。
「しんぐう」という名前だけが飾り気のない店の引き戸の横に立てかけてある 一見客は寄せ付けないぞ、と言うような雰囲気に私は少し後悔した。こんな店は苦手だ。
晶子が先頭に立って引き戸を開ける。
「いらっしゃい!」
思いがけず明るい声が迎えてくれた。店の中は少し暗いが心地よいトーンの照明がテーブルごとにあり内装もかなり落ち着いた雰囲気でいいムードだ。先ほど感じた印象がまったく別のものになった。
私より少し若い店主は髪を一つに束ねてまるで侍のようだが人懐っこい笑顔が人柄を 表しており、晶子や喜一達とも馴染みのようだ。
「史朗さん、今日は大切なお客様をお連れしたから、うんと美味しいものお願いね!」
「妹から聞きました。焼き物始められるそうで」
「あ、はじめまして。まだどうなる事か…よろしくお願いします。」
「達夫さん、ここにはメニューがないの、その日取れた一番良い素材を使うので全部 おまかせ。それでいい?」
「少し気の張るお客のときにはいつもここでお世話になっとるんよ」
「この町にはない感じの店じゃからね」
喜一も稔もこの店が気に入っているらしい。
店の隅に飾棚があって和食器が並んでいる。
「香絵さんの作品ですか?」
「はい。妹の作品を目当てのお客様も多いので」
ゆっくり寛いで下さい。と史朗は厨房に消え私達はしばし香絵の作品に見入った。
「ところで、新宮かなと言う女の子の事じゃが、あれは、その…幽霊とかそういうのじゃないんか?」
お茶を飲みながら喜一が言う。
「幽霊…まさか?」
私は笑ったが、稔も少し気味が悪そうに頷いている。
「誰に聞いても新宮かななんて名前の女の子知らん言うとるよ。」
「でも何か事情があって達夫さんの前にしか姿を表せなかったとか、じゃないの?」
「それがおかしいって言うんじゃ。幽霊でもなきゃそんな事できんじゃろ」
「ちがうちがう、かなはちゃんと普通の女の子じゃったよ。色白で少し茶色がかった目の」
「そういえば、香絵さんも史朗さんも、同じ様な茶色っぽい目の色よね。」
「やっぱり新宮って名前じゃから親戚かな?」
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そんな事を話している内に史朗が料理を運んできた。
派手ではないが素朴な料理があまり主張をしない白っぽい器に盛られている
「これ、粉引、どんな料理にも合うでしょう?」
晶子が教えてくれる。
「粉引?」
「香絵の焼く粉引は女性らしい線とシンプルさがいいですね。」
「史朗さんは焼き物はしないんですか?」
「やりますよ、僕は焼締が好きですね、土本来の味が出るから。」
「ほら、この筑前煮のお皿が焼締よ。」
「料理も全部一人で?」
「仕込みは妻も手伝いますが、お客様の数も限られているのでほとんど僕が作ります」
「味は確かじゃ。」
喜一はさっそく料理に箸をつけている。
私達は器と見事に調和した料理の数々を堪能した。
どの味も素朴だがしっかり素材を活かしてあり、私は心から満足した。
「器も販売されてるんですか?」
「時々お客様に頼まれて焼く事はありますよ。それに、気に入ったからどうしてもと言われると、つい断りきれなくて…」
「そうでしょうね、僕みたいに全然詳しくない者でも、ほらこれなんか欲しいなと思うから」
私は刺身の盛ってあった平皿を示して言った。
「ああ、これは僕も好きな皿です。料理を盛る事で皿にも命が入るのか、使うほどにいい色になっていくんですよ」
「なるほどなぁ、どんなに高価な食器も使って初めてその役割をはたすんですね」
史朗は嬉しそうに笑って頷いた。
「史朗さん、じつはこの達夫は、新宮かな、なる人物を探しているんだけど、なにか心当たりはないじゃろうか」
突然に喜一が言う。
「かな…?このあたりに新宮姓は家のほかには2軒ほどありますが、どちらも叔父夫婦 の家で、かなさんと言う人はいません。その人がなにか?」
「いや、どうしてだか急に思い出して、でも名前以外なんにも思い出せない・・とても 大事な事を忘れてしまっているような、そんな気がして気になってしかたないんです」
「いくつぐらいの人ですか?」
「たぶん、僕より二、三才下だと思う。小学校一年かそのへんかな・・・その頃いつも一緒に遊んだのに、顔や洋服は覚えているのに、いったいその子がどうしたのか、まったく思い出せない おかしな話なんだけど」
「史朗さんには、その…お姉さんがいたとか、そんな事はないですよね」
稔が言いにくそうに聞く。
「いや、そんな事は聞いてないなぁ。でも、そう言えば…」
「そう言えば?」
「小さい頃誰かに遊んでもらった、かすかな記憶が、いつだったか祖母に尋ねた事がありました。昔遊んでくれていたお姉さんはどこにいったの?と」
「お祖母さんは何て?」
「誰の事言ってるんかって、お前にはお姉さんはおらんって言いました。僕も深くは考えないでそれっきりになりましたが。」
「何だか、ますますミステリーめいて来たわね」
「叔父が何か知っているかもしれない・・・今度聞いてみます」
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私達は礼を言い店を出た。黙って車に乗り込んだ。少し肌寒い風が皆を無口にしていた。
翌日から私は香絵のログキャビンに通い始めた。土に触れていると何故か気持が落ち着いた。
夜になると仕事の事を思い出さない訳ではなかった。1ヶ月の休暇届を出しているとはいえ 休暇を終えて帰っても自分の居場所などなくなっているのでは、と不安も感じていた。
だが、たとえそうでもいい、自分には戻れる場所があるじゃないか。 此処でならもっと人間らしいゆったりとした自分に戻れるような気がする。
もう一度妻と、妻を理解しながら暮らして行けるのでは、そんな思いが広がっていた。
「達夫さん」
「あ、すみません。ぜんぜん気が付かなくて」
「ずいぶん熱心に作ってらっしゃるから」
香絵は笑いながら覗き込んだ。
「あら…いいですね。」
「そうでしょうか。実はこんな感じのものを妻が作っていたもので…」
「奥様も焼き物を?」
「ええ」
「素敵ね、ご夫婦で同じ趣味を持つ事が出来るなんて」
同じ趣味・・と言われて私はとまどった。自分は妻の作品を何一つきちんと見てはいなかった。
それどころか焼き物にのめりこんで行く妻を半ば苦々しい思いで見ていたではないか。
どうして歩み寄れなかったのだろう。どうして妻の作品の一つ一つを素直に見つめてやれなかったのだろう。後悔が胸を襲う。
「そういえば、かなさんって言いましたっけ、叔父に確かめて見ましたが…」
「叔父さんもわからないって?」
「ええ。でも、ちょっと変なんです。」
「変?」
「かなって名前を聞いた時の叔父は一瞬驚いた目で私を見たんですよ。すぐに知らないって言いましたけど…何か隠してるんじゃないかしら」
「かな、の存在は叔父さん達にとって何か不都合な事なのでしょうか?」
「家の両親でも生きていればもっと突っ込んで聞けたのでしょうけど…」
「いいんですよ、香絵さん。すみません、嫌な思いさせたのではないですか?」
「そんな事はありません、それに、私も大いに気になってきました。もう少し調べてみたくなっちゃった。」
香絵は少女の様に笑った。
また一瞬おかっぱ頭の「かな」が脳裏を横切った。部屋に戻って私はもう一度頭の中を整理した。
なぜ「かな」は少女のままの姿で私の頭の中にあらわれるのか、 なぜこの町の人々は「かな」の存在すら知らないのか…
答えは二つある。一つは「かな」そのものが単に私の空想の中の人物だったという事。
そして、あと一つは「かな」があの少女の時から成長をしていない、つまり、あのままで姿を消してしまっている、という事だ。
最後に「かな」に会ったのはいつだったのだろう。私が思い出そうとすると 頭の奥で何かもやのようなものがそれを打ち消すように広がって行く。
「また考えてるの?」
晶子がお茶を持ってやってきた。
「ああ、なんだかすっきりしなくて。」
「みんな、それとなく探してくれているから、きっと何か情報が入るわよ。あんまり考え込まないで。」
「そうだね…それから、一度家へ帰ってこようと思うんだ。」
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此処にきて約一週間が経とうとしている。家の事もまったく気にかからない訳ではなかった。
当初はほんの軽い気持で出かけたので着替えもさほど持たないで来ていたし、正直これほど 故郷が居心地の良い所だとは思ってもいなかったのだ。
「あら・・・そうなの?でも、また戻ってくるんでしょ?今度は奥様も連れてくればええじゃない」
私は思わず晶子に妻との事や仕事の事を話したい衝動にかられた。
「実は…」
晶子はだまって聞いていたが、静かに言った。
「会わなきゃだめよ。一度会ってゆっくり話してごらんなさい。素直になる事よ」
そうかもしれない。今の自分なら素直な気持で妻と向き合えるかもわからない。
「妻の所へ行ってみるよ、仕事の事もゆっくり考えてみる。それから、またここに戻ってきていいかな?」
「もちろんよ、待っとるから」
喜一、稔にも電話でひとまず帰って来る事を告げ、私はその日の内に列車に乗った。
会社には一ヶ月の長期休暇を申し出ていた。何かあれば携帯に電話があるだろうと思っていたが。一週間の間誰からも連絡一つなかった。
この事で私は自分の居場所の不確かさを思い知った。自分がいなければ困る事があるのではないか、とひたすら休みも取らずに働いてきた。 何より仕事を優先にしてきた。だが、それは自分の思い上がりに過ぎなかったのだ。
自分一人いなくてもそれは会社組織にとってなんら影響などない。休暇明けに帰ってみると 自分の席が無くなっていた、などという事が笑い話ではなく存在するように思えた。
娘に電話をしてみる。
「あら、お父さん?どうだったの広島は」
「ああ…何か変わった事はなかったか?」
「べつに…もっとゆっくりして来るのかと思ってたわ」
娘にとっても、ましてや妻にとっては私という存在などあってもなくてもさほどの問題など ない、という事なのだろう。私が1週間ほど家にいなくても誰も困らないし、何の問題も無い。
私は激しい疎外感に襲われた。
「母さんの、居場所を教えてもらえないか?」
「えっ、どうして?」
「どうしてって、このままにしておく訳にはいかないだろう。どちらにしても一度話がしたいんだ」
「そうね、じゃあ、お母さんから一度連絡してもらうように話してみる。」
リビングのソファに座って部屋を見渡した。
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たった一週間空けただけだというのに、その空気の冷たさに私は少し身震いした。
この家を買った時、うれしそうに何度も「夢みたいね・・・」と言っていた妻を思い出した。
結婚して三年、がむしゃらに働いて、誰よりも早く手に入れたマイホームだった。 あの頃は自信に満ちていた…妻も子供も幸せなんだと思い込んでいた。
翌日まだ早い内に妻からの電話があった。
淡々とした声だった。夕方なら時間があると言う。私は何度か行った事のある店の名を告げ 待ち合わせる事にした。
久しぶりに会う妻は、まるで別人の様に生き生きとして見える。
髪を一つに束ね、まるでキャリアウーマンのように私の前の椅子に座った妻の その耳朶に小さな蒼い石のイヤリングを見た時、私はうろたえた。今まで目にした事のない妻の顔を見た気がした。
「元気そうだな」
「ええ」
「そうか、それならいい…」
「話って?」
「ああ…そうだな。お前の申し出を受けようと思って…」
一瞬妻は驚いたような目をしたが、すぐにその目をそらせて、「そう…」 と言った。
「あの家を出るよ、あそこはお前のものだ。不要なら売ればいいし誰かに貸してもいい。 結局何もしてやれなかったが、お前の好きなようにすればいい」
妻に会うまで私は頭の中でいろいろな言葉を用意していた。もう一度やり直せないか? 最終的にはそう懇願するつもりだった。素直に自分の非は認めた上で離婚を考え直して 欲しいと言うつもりだった。
だが、あの耳朶のイヤリングを見た瞬間、用意もしていなかったこの言葉が口をついて出た。 そして、それは嘘ではなかった。話しながら私は私の中で一つの決意を固めて行った。
「家を出るって…なぜ?私は家なんていらないわ。何にもいらない」
「いらなければ売ろう、早紀達に譲ってもいい。もう私には必要のないものだ。」
実際に家族がいてこその家なんだと身に沁みて感じていた。
「そうやってまた、困らせるつもりなんですか。」
私は驚いて妻を見た。そうではないんだ、そんなつもりではないんだ。言いたい言葉が 上手く出てこない。
「仕事を辞めて広島に帰ろうと思うんだ…だから…」
「まさか…」
あなたにそんな事できるはずがない。妻の目がそう言っていた。
「離婚届はいつでも用意してくれ、私は荷物の整理が出来次第家を出るから」
それだけ言って席を立った。当然の事だが妻は追ってもこないし一言の言葉もかけては来ない。だが、意外なほど私は冷静に自分のこれからに答えを出していた。
その足でまっすぐ会社に向かった。
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「辞めるって?」
部長は驚いた目で私を見た。
「辞めていったいどうするつもりなんだ。」
「田舎へ帰ろうと思ってます。」
「田舎?君の所はもうご両親共に亡くなられてるだろう、帰って何をする?」
「やりたい事ができました。もう一度自分の夢を追いかけたくなりました。」
「青臭い事を言うな。甘い事を…」
「私の後は田代君が…彼なら何の問題もなくやって行けます。休暇が終わり次第出社してきちんと引継ぎはさせていただきます」
部長の唖然とした顔に一礼して私は社を後にした。
これは成り行きなんかじゃないんだ。 私は自分に問いかけていた。 自分に出来る事はいったい何なんだ…やりたい事なんかあるのか…
とにかく、もう一度自分の気持を整理したい。 家に帰って着替えと何冊かの本を持ち、私は再び新幹線に乗った。
ほんの何日か前に見たものと同じ景色が車窓に広がっているが、あの時と今では海の色や 山の緑が少しだけ違って見える。自分の中の何かが確実に違っているのを感じる。
まだ少し時間がある。いいじゃないか…ゆっくりと考えれば、自分一人食べて行くのなら 何をしたっていい。開き直るつもりではないが、守るものがなくなった男は弱くも強くも なれるものだ…私は苦笑いした。
いったん「三矢」に荷物を降ろし、喜一に連絡をとる。手短に事の成り行きを話すと 喜一はまるで自分の事のように私のこれからを気にしてくれる。
「わしの所がもっと手広くやっとれば、うちに来てもらうんじゃが」
「ああ、そんな迷惑はかけられんよ、仕事は何とか探すつもりだ。アルバイトでもなんでもするよ」
「まあ、そういうなよ。わしもどこかに当ってみるわ。給料は保証できんが…」
「ありがとう、迷惑かけるね。」
晶子はいつまでも三矢にいていいと言ってくれたが、小さなアパートを探すと言うと、知り合いの不動産屋に格安の良い物件がないか探す様手配してくれた。
私は今更ながらに人情と言うもののありがたさを痛感していた。
(たっちゃん…)その夜うとうとした私の耳元で誰かが囁いた。
(たっちゃん…)遠ざかりかけていた意識が急速に後戻りして私は飛び起きた。
「誰なんだ?」
それは「しんぐうかな」の声に違いないと確信しながら、私ははじめて「かな」の存在に 恐怖のようなものを感じている。
「いったい君は誰なんだ・・・」
眠れない夜を過ごした私は翌朝散歩がてら「安芸野」に立ち寄ってみた。
あいかわらず元気のいいコーギーが迎えてくれ、ちょうど香絵が庭の花に水を遣っている。
「あら、いらっしゃい。ずいぶん早いんですね。」
「おはようございます。散歩していたら足が向いてしまって…実はこちらにずっと住もうかと考えています。そうなったら、初歩から焼き物を教えていただけませんか?」
「まあ!そうなんですか。どうぞ、感じられるままに土弄りなさって下さい。焼き物の楽しさを知る事が初めの一歩。達夫さんはセンスありますもの、きっと良いものが出来るわ」
私は一つの目標を見つけたような気がした。今からでは遅すぎるかもわからないが、ずっと昔 に忘れてしまったはずの夢をもう一度追いかけてみてもいいかな。そんな思いが広がり、少しずつ身体の中に力の様なものが湧いてくる感じだ。
「帰って来てるな。」
三矢でコーヒーを飲んでいると稔が顔を出した。
「こっちに帰ってくるんじゃって?」
「うん、そのつもりだ。」
「それがいい、仕事の事は何とかなるよ、少しのんびりすりゃあええよ。どうね、今夜飲みに 行かんね?」
「ああ、いいよ。稔さえ良ければ」
「じゃあ、喜一にも声かけるわ。」
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稔の気遣いも心に沁みる。
昔好きだった画家の展示会があると新聞の催し欄でみかけ、昼からは市内の美術館へ向かった。
もう何十年も行った事のなかった美術館はすっかり現代建物に様変わりしており、そのロビーから見下ろす隣りの縮景園の緑が美しい。
何年もこんな感情からは遠ざかった生活だった。自分が芸術や美術に関心があった事さえも 日々の慌ただしさの中で忘れてしまっていたのだろうか。
一枚一枚ゆっくりと時間をかけて鑑賞する、私は贅沢な時間を満喫した。
ついでにと立ち寄った小さなギャラリーでは新進陶芸家の個展が開かれており、その淡い 色使いと斬新な形のアンバランスさに私は目を奪われた。
しかも、普段使いになるような気負いのない温かさまで感じられる。作家のプロフィールを読むとさすがに私よりも10歳ほど年は若いがやはり脱サラ組であるとうかがえる。何よりも目をみはったのはティーカップ類の 面白さだ。
形も色も今までにない個性的なものから、淡い花びらを散らした繊細なものまで 実にさまざまなカップとソーサーが並んでいる。
それらを見ながら私は 自分の中で一つの夢が確かなものとして徐々に形を現してくるのを感じていた。
その夜、喜一と稔に妻の事を話した。
「一人になった妻が前よりもいきいきとした顔をしているのを見た途端、自分はいったい何をしてきたのだろう、と思ったんだ。今までやってきた事は何だったのだろうって」
「うーーん。わしの所なんかは、女房がおらんと成り立たない仕事じゃけえ、女房のためと言うより、まあようやってくれとると、がらにもないが、感謝しとるんよ」
喜一が杯を口に運びながら言う。
「うちのもパート勤めで家計を助けてくれてるからなぁ、子供に金がかかっていた時には本当に夫婦して目いっぱい働いたよ。今はヤレ女性大学じゃ、ヤレ何とかの講義じゃとかで、空いた時間には出歩いているようじゃが、それはそれでええ、思うとる。達夫は自分が自分がと思いすぎたんじゃないか。」
稔の言葉が身にしみる。
確かに私は自分はこんなに一生懸命働いている。自分が家族の面倒を見てやっていると すべて自分一人が家族の犠牲になったかの様な気持でいた。
「女房であっても達夫の一部ではなくて、独立した人間じゃと、認めることよ。認められた人間は自由な世界を持ったとしても、けっして箍がはずれた様な事はせん。女が…とか しょせん女房に…とか認めようとせんから、手の届かん所へ行ってしまうんじゃ。」
私は不意に泣きたい気分になった。
一流企業の第一線で働き、世界を相手に仕事をしていると自負していた自分よりも、田舎町で細々と食べて行くだけの仕事をしているこの二人の男の方が、何と大きい人間に見える事か。
自分が人間の心を持たない機械の様に思えてくる。だが、今まで休む事なくがむしゃらに走り続けた自分を否定することもできずにいる。
「笑わないでくれよ、今から焼き物を勉強しようと思うんだ。もう遅いかもわからんが、市内で陶芸家の展示を見て、どうしてもやってみたくなった。もちろん、仕事の事も考えている。今までの仕事を基にして、ネットで図面を書く仕事が貰えないか知り合いに頼んでみようと思うんだ。」
「へぇ、陶芸か。いいじゃないか、ちっとも遅くはないと思うよ」
「焼き物はええよ。なんと言っても土はええ。それに、図面ったあどんな物を書くんね」
「建物の設計もやるし、パーツも…何でもやるよ」
「ほんなら、わしらの仕事の内装の図面やらも書けるんね」
「ああ、もちろんやらせてもらえるものなら、何でも書くよ」
「ほうか、じゃあわしにも手伝えるかもわからん、ほしたら達夫の第二の人生がここで始まるんじゃね。」
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喜一達には言わなかったが、もう少し年を取ったら自分で焼いたカップで美味いコーヒーを 飲ませる店をやりたいと思っていた。商売をやった事のない者がそんな甘い事…と 思われるだろう。当分この夢は自分の胸の中にしまっておく事にして、それでも徐々に新しい人生の設計図が出来つつあった。
「そういえば」
と稔が思い出したように言う。
「例の“新宮かな”の事じゃけど、酒屋の一郎を覚えとるか?あいつと、この前久しぶりに出会って話したんじゃが、その子かどうかわからんが、達夫と女の子が話しているのを見た事がある、と言うとった。何しろ四十年も前の話じゃからはっきりとはせんが、その子がその頃では珍しい、真っ白な洋服を着とったので今でも何とのう覚えとるらしいんじゃ。」
「白い服?」
間違いない、かなは白い服を着ていた。後ろで蝶々結びのリボンがゆれている白いワンピースだ。
「どこで見かけたんだろう。」
「それが…一郎が思い出したのは、家の社で作っているミニコミ誌を見ている時で、昭和の遊びを特集していたんじゃが、ほれ、前にも話に出た“東京鬼ごっこ”を懐かしいという話になった後じゃった。」
「東京鬼ごっこ…」
「一郎がお前らを見たのは、みんなで東京鬼ごっこをしとる時じゃったんじゃないか、と言うんよ、たっちゃんも隠れているはずなのに、どうしたんだろう…そう思ったと」
いったい、どういう事なんだ。
東京鬼ごっこ…懐かしいはずのこの遊びが私には何故か恐ろしいものに思える。
何かがあったのだ。あの「東京鬼ごっこ」の日、何かがかなに起こったのだ。
やはり「新宮かな」は実在していた。
「そうか、かなについては一度新宮さんに聞きに行ってみようと思うんだ」
「そうじゃね、新宮さんじゃったら悪い人じゃないけえ、訳を話してみるといいよ」
稔もうなずく。
さっそく翌日「安芸野」へ行き香絵に訳を話すと、香枝は快く叔父への連絡を取る事を承諾してくれた。
「かな」への強い思いと少しの怖れが胸の中を交差する。週末私は香絵と一緒に香絵の叔父の家を訪れた。 香絵の叔父、新宮宗次は穏やかな雰囲気の老人で、二人をにこやかに迎えてくれた。
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「いらっしゃい、あなたが山村さんの所の…えろう立派になられて」
開口一番に宗次は思いがけない事を言った。
「家をご存知なのですか?」
「あなたのお父さんとは親しくさせてもらっとりました。どちらかと言えば兄の方が深く…そうですな、親友と言って良い付き合いをしとりましたなぁ」
父は代々この土地の人間なのだから、そういった付き合いがあっても不思議はないはずなのだが、私は戸惑った。
十五歳の時にここを出て以来、父や母の若い頃の事はおろか、亡くなるまでの両親の人生など親身に考えていなかった気がする。戸惑いと共に猛烈な罪悪感に胸が痛くなる。
「そうですか、私は親不孝な息子で、両親も呆れていた事でしょう」
「いやいや山村さんのご自慢でしたよ、良く出来た息子じゃと」
香絵の叔母真知子が紅茶を入れて来た。
「お持たせですが、達夫さんに頂いたケーキ頂戴しましょう」
真知子にとっても達夫は初対面ではなく、懐かしい存在であるようだ。
「私もこちらにお邪魔した事がありましたでしょうか?」
「そうですね、小学校にあがる頃だったかしら、何度か見えましたよ。お父様の影に隠れる様な恥ずかしがり屋さんだったですけど」
「そうそう、山村さんは本家の方は敷居が高いとか言って、兄と良く我が家で話しとりんさったなぁ」
頭の中で過去の引き出しを開けようとするのだが、どうしても思い出せない。
「あの…かなさんは、かなさんもこちらに?」
宗次と真知子は驚きの目で顔を見合わせた。
「加奈を覚えていらっしゃるのか」
驚きの目を私に向け宗次はうめくように言った。真知子もうろたえたように香絵を見る。
「あ、私の事なら大丈夫よ、叔父さんも叔母さんも知っている事は話してあげて」
宗次は遠くを見るように話し始めた。
「あれはまだ、香絵の母親が嫁に来る前の事じゃったが…」
宗次の話は概ね次のようなものだった。
宗次の兄の宗一郎は、そのころ新宮家に住み込みで働いていた女中の八重を愛するようになり、一緒になりたいと両親に頼み込んだが、どうしても叶えられなかった。
両親はそんな宗一郎を八重から遠ざけようと、あちらこちらから縁談を持ち込んだが、宗一郎はすべてを拒否した。八重は暇を出されたが、その時すでに宗一郎の子供を身ごもっていた。月満ちて生まれたのが加奈である。
八重は女手ひとつで加奈を育てることを決意したのだが、加奈が三歳になった時突然亡くなってしまったという。
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「八重さんも気の毒なことじゃった。兄はどうしても加奈を連れてくるという。両親も宗一郎の子なら孫ということになる。香絵の母親との縁談を飲むのを条件にそれを許したんじゃ」
「叔父さん、それなら加奈さんは私のお姉さんってことじゃない?でも…そんな話聞いたことがないわ」
「ああ、加奈は両親の末の子として本家に入ったんじゃ。養女としてな」
宗一郎と香絵の母美和子との縁談が調い、美和子が嫁に入ったのはそれから一年後のことであった。加奈は別棟に部屋を与えられ、女中の梅子という女が養育にあたっていた。
まもなく宗一郎と美和子の間に長男の史朗が生まれた。宗一郎の母の淑子は史朗を溺愛し、しだいに加奈を疎ましく思うようになった。加奈は一日中離れの部屋で過ごすことの多い子であったが、ことあるごとに、宗一郎は親友であった私の父山村達文の手を借りて加奈を外に連れ出したのだ。
「それで、私は加奈さんを覚えていたのですね。一緒に遊んだ記憶が残っている」
「兄としても加奈は不憫な子じゃ、そのぶん可愛かったんじゃろう。じゃけど、美和子さんのことも大切に思っとった。香絵、それは本当じゃ」
香絵は目に涙を溜めながら頷く。
「あの…加奈さんは今どこに…?」
「それが、わからんのじゃ…」
「わからないって?」
加奈に対する淑子の冷たい仕打ちは宗次たちの目にも触れるようになった。直接手をかける虐待ではないが、ことあるごとに浴びせられる、心ない言葉に幼い加奈の胸はどれほど傷ついたことだろうか。
「母にしてもそれほど加奈を憎む理由はありゃあせん。それは母自身もようわかっとった。それでも、どうしても加奈に辛くあたってしまうんじゃ。いつかは加奈にこれ以上の仕打ちをしてしまうのでは母も悩んどった」
淑子は梅子に加奈を自分の目の届かない所へ連れて行くように言った。
「梅子さんはどうされたのでしょう?」
「母は梅子に養育費に値するだけの金を持たせて郷へ帰らせたんじゃが、その後のことは…」
「そんな…梅子さんの郷はどこですか?」
梅子の家は三次の農家だったが、梅子が加奈を連れてその家に戻ったかどうかも定かではない。ただ、梅子が加奈と一緒に新宮家を出たことは確かだ。
私はそう遠くない過去だというのに、人がまるで物のように扱われていたことに驚愕したが、加奈が突然に消えてしまったのではないという事実に対しては、救われる思いだった。
「祖母がそんなことをしただなんて…信じられません…」
宗次の家を出て、しばらく無言で歩いたふたりだが香絵がぽつりと言う。
それにしてもその後加奈は元気に暮らしたのだろうか、私の中にあるこのもやもやとした怖れはいったい何なのだろう。半ばほっとしながらもそのことが胸に釈然としない思いとなって広がっていく。
続く