参
ヒュン――と矢が空を斬り裂く。
鋭く真っ直ぐ飛来する矢は見事的の中心に……当たらなかった。土を抉った矢は身悶えして、制止した。
「……」
弓を下ろし、美羽は小さく息を吐いた。
再び美羽は矢をつがえて弓を引き絞る。背筋をぴんと伸ばして、引き分けから会の体勢へ。きりりと弓がしなって軋む。しんと静まり返る弓道場には美羽以外誰もいない。弓のしなる音がより一層緊迫感を漂わせていた。
美羽の、的を見据える切れ長の目は怜悧に映り、彼女の横顔は凛として美しかった。
そして、矢は的の端を射抜いた。
「……」
今日は駄目だ。
美羽は小さく肩をすくめて矢を拾い集めた。んしょ、と腰を下ろして矢を拾っていくとき、ふと苦しくなった胸元に目を下ろした。
「……」
美羽はひそかに眉をひそめて矢を持って戻る。すたすたと早足で矢を回収して、素早く矢筒に返した。
ほっと一息を吐き、己の胸元に手を置く。
他人より豊かなそれ。よく千鶴や瑠璃は羨望の眼差しを注いでいる。訝しむと二人とも目を逸らして言葉を濁して終わる。
「…………」
あまり良いものでもない。
肩は凝るし、胸当てを付けると窮屈だ。おかげで呼吸法の訓練にはなるが、女性の目線はともかく男性は性質が悪い。不快極まりない。
「はぁ……」
考えていると苛立ちを覚え、ため息を吐く。
武芸は静寂な心が必要である。今日はもう弓はやめて、剣術に打ち込もうと片付け始めたとき、弓道場の戸が開いた。
「あれ? 美羽じゃん」
「若様?」
振り返った先には主が立っていた。美羽は上擦った声で答えて思わず身構える。何をされるかわかったものではない。しかし桃太郎はこちらに目を瞬いて、首を捻るだけだった。
「……今日は行かねーの?」
「え? ……あっ」
大事なことを忘れていた。間の抜けた声を上げると桃太郎は端正な顔を綻ばせる。
「ここのところ忙しかったもんな」
「でも、忘れてたなんて」
「ま、親父さんもそんなことで怒んないって」
「そ、そうですね……」
その笑顔に思わず目を逸らす。相変わらず綺麗な笑顔を振りまく彼には心底呆れるし、見せられるこっちの身にもなってほしいものだ。
美羽は小さくため息を吐き、弓道場を後にした。
馬を走らせておよそ一刻。やって来たのは一色家本城から北西にある寺。ここら一帯は昔から雉野家の領地だった。
近年綺麗にされた門を眺めてから、美羽はじろりと目を動かした。
「……どうしてあなたも来るんですか」
「そりゃ、退屈だから」
へらりと笑ってごまかす主。どうしてついて来たのかわからないが、そこまで気になることでもない。美羽は眉をひそめつつも、馬を下りた。
目的は墓参りだ。
父は病弱であった。
しかし武士の誇りを持っていた。いつか戦場に出て、武士として功を上げると言っていた。
その願いは叶ったと言っていい。父は先代の治世で、一度戦に出て、そこで戦死した。最後まで槍を振るう姿は凄まじかったと雉野の古参衆は言う。武士として戦場で散れたことを父は満足だっただろうか。
墓前に手を合わせ、ふとそんなことを思う。
美羽は女であるが、弓を手にし、若殿の側に仕えている。だけど武士という肩書きにこだわっていなし、忠治みたいに家のためとか主従とかあまり考えていない。
ただ、彼を見守っていきたい。
「……どした?」
「べ、別に何にもありませんっ」
いつの間にか、彼の端正な横顔を見つめていた。慌てて視線を外して早口に言う。なんだか頬が熱いが気にせいだろう。
美羽はこほんとわざとらしく咳払いをして、墓に花を飾る。
「最近はいろいろとあって困ってるって思ったんです」
「そうだなぁ。いろいろあったなぁ」
桃太郎はくすくすと笑って、他人事のように言う。
「大概があなたが原因ですけどね」
「オレ?」
心外だ、とでも言いたげに片眉を上げる。
海賊騒動はともかく、鬼退治は桃太郎が始めたことだ。人間とは違う人たちに出会って、桃太郎は彼らを迎えた。あのとき、桃太郎はたくさん怪我をして本当に死ぬのでないかと不安でいっぱいだった。海賊騒動のときだってそうだ。いつも無茶をして、不安にさせて美羽は気が気ではない。
「別にいいじゃん。千哉とは仲良くなったし、今もオレは元気なんだしさ」
「そんなこと言って……あなたもいずれ一国の領主になるんですよ。心配かけないでください」
「忠治みたいにうるさいなぁ」
「あんな小うるさい人と一緒にしないでください!」
「わかってるって」
笑う桃太郎は立ち上がって、澄んだ春の空を見上げた。
柔らかい春風が墓地を吹き抜けて美羽の綺麗な黒髪を揺らす。髪を押さえて桃太郎を見上げると、彼は息を吐いて呟いた。
「がんばらないとな」
「…………」
薄い唇は緩められ、真っ直ぐな鼻梁、切れ長の双眸は柔らかく、濁ることなくどこまでも澄み切っていた。
ぼんやりと彼の横顔を眺めていると、不意に桃太郎がこちらに目を合わせる。反射的に目を泳がせてしまったが、そんなこともお構いなしに桃太郎は爽やかに笑った。
「頼りにしてるよ。美羽」
「えっ、は、はい……」
尻すぼみに頷いた。
もはやその佇まいは至極の業と言うべきか。狙って言うときと、そうでないときの差が激しい。たぶん今のは狙っていない。
やっぱり彼には敵わない。
トクトクと鳴る胸と熱を持つ頬を感じて美羽は父の墓に目を戻した。
墓前で言い合って、父は怒っているだろうか、呆れているだろうか。それとも、娘が主家の若様を連れていることに興味津々だろうか。どれにしても美羽はあまり嬉しくない。
美羽も腰を上げた。
「帰りましょうか」
「もういいの?」
「はい。綺麗にしましたし」
乾ききっていない墓石を指でなぞる。
顔も知らない父親は武士として戦場を駆けることが夢だった。主家のために、文字通り命を懸けて生き抜いた人だ。
私は……。
美羽は墓に向かってお辞儀してから、既に桶を持った桃太郎を促した。
「参りましょう」
「応」
「……?」
すると空っぽの右手が差し出される。意味がわからず彼の竹刀ダコのできた掌を見つめていると、流れるようにあっさりと手を取られた。
「は!?」
「帰ろうぜ」
彼は白い歯を見せてニッと笑う。これはよからぬことを考えているときの表情。狙っているとき、すなわち相手の反応を見て楽しんでいるとき。
そんなことわかっている。何年の付き合いだと思っているのだ。彼の行動など予想がつく。だけど、胸の高鳴りは止まらなかった。
「ばっ、馬鹿なことおっしゃらないで帰りますよっ」
動揺を悟られないよう、素っ気なく手を離すが声は上擦っていた。それをわかっているかいないのか桃太郎は笑顔を崩さず、残念そうに肩をすくめた。
「つれねーなぁ」
ぼやく彼を放っておいて、墓地を後にする。
火照る頬を触れ、美羽は口を尖らせた。
「あなたのそういうところが気に入りません」