はじめての、そと。【其之二】
一色政春と鬼柳千哉の会談が終わった。
これからは金の採掘に関して話されている。人手の徴集や鬼柳への報酬などが議題に上がり、千哉は一族のために可能な限りの利権を求めていた。
……難しいことはわからない。
与えられた客間は寂しい。文机と行燈がひとつ、布団が一人分だけしかない小さな部屋である。
鬼柳千鶴はほっとため息を吐いた。
いろいろなことがたくさん起こって、困惑していた。
千鶴は鬼であるが、里の外には出たことはないし、鬼と人間のいさかいもあまり考えたこともなかった。この年まで里の中でずっと兄と一緒に平穏に幸せに暮らしてきた。
でも、外の世界に出たことはすごく嬉しかった。
兄が手綱を握る馬の上から見る町並みは物珍しいもので溢れていた。こんなに大きなお屋敷は初めて見たし、正面から見たお城は石垣も城門もすごく大きかった。ちょっと残念だったのはもっときらびやかなところだと思っていたのだが……。お城にもいろいろとあるみたいだ。そして城下の町にはたくさんの人が往来を行き、たくさんの店が並んでいる。甘味処や呉服屋。甘い餡蜜の香り、綺麗な織物や可愛らしい簪や櫛、千鶴にとってはとても楽しかった。
そんなことを言ってしまえば、兄や他の鬼たちに怒られてしまうだろう。だからこれは千鶴だけの思い出。どちらにしろ、二度とこっちへは来ないと思ったから。千鶴はそっと胸元に手を置いて、くすっと笑った。
「失礼。入っていいかしら」
「えっ、あ、はいっ」
すると障子の向こうに影が落ちる。すらりとした背筋と、高い位置で結ばれた髪が揺れた。
千鶴は居ずまいを正し、じっと障子を見つめた。
入ってきたのは端麗な女性。切れ長の目と筋の通った鼻梁。袴姿の彼女はにっこりと笑っている。確か、一色家の若殿の従者の人……。
「そんじゃあ、お邪魔しま~す」
と、彼女の背後には二人の男性。茶目っ気のある瞳をした中肉中背の人と、小柄できちんと髪を結った真面目そうな人。
三人とも、若殿の従者であった。あの草原で見た覚えがある上、さきほどの広間にも居た。相手は人間である。千鶴は自然と身を竦めてしまう。
縮こまる彼女を見て、女性は微笑む。
「そう警戒しなくても私たちは何もしないわ」
コト、と持っていたお盆を畳に置き、彼女は自身の豊かな胸元に手を置いた。……本当に大きい人である。
「改めてまして自己紹介。私は雉野美羽と言うの、よろしくね? こっちは犬養忠治と猿田五右衛門。一応覚えておいてね」
「美羽、お前……」
「一応ってなんだよ。一応って」
ぞんざいに紹介されて男性ふたりは不満の様子。しかし雉野美羽は素知らぬ顔で千鶴に訊ねた。
「名前は教えてもらったかもしれないけど、もう一度教えてもらえる?」
「え、あ……鬼柳千鶴と申します」
「千鶴さん、お腹空いてないかしら? 間食には早いけど、よかったら……どう?」
お盆に載せられているのは急須と湯呑が四つ。そして醤油だれのかかった団子が串に刺さって並んでいた。みたらしの香ばしく甘い香りが鼻を刺激する。千鶴は目を輝かせた。
「町で買ってきたものだけど、こういうのは嫌いかしら」
「いっ、いいえ! すごく大好きですっ、いただいていいんですか?」
「もちろん、そのために持ってきたもの」
優しく笑む彼女に悪意はまったく感じられなかった。千鶴は小さな手をお盆に伸ばそうとして、やめた。
脳裏によぎったのは兄の怖い顔。
――人間は忌むべき存在だ。
里の皆はそう言う。それについてはよくわからない。でも皆がそう言うのなら正しいのかもしれない……。
するとこちらの顔色に気づいた美羽は苦笑を浮かべた。
「毒なんて入ってないわ。五右衛門、ほら食べて」
「さらっとおれに毒見させるのやめてくんない? ……まぁ美羽は毒とかそういうの調合できねーしな」
「ムカつく言い方ね」
「私ももらう。信用はこちらから得るべきだ」
渋々と言った風に五右衛門が串に手を伸ばすと忠治も一緒に団子を手に取った。二人して同じような動作で、串に刺さる団子を頬張り、特に五右衛門は美味しそうな表情をした。美羽は笑顔を崩さず小皿に団子一本を分けて、千鶴に差し出した。
「どうぞ、千鶴さん」
「あ、ありがとうございます。雉野さん」
「美羽で良いわよ」
「え……?」
千鶴は困惑する。同年代の女性とこのように接するのは初めてであった。ゆっくりとした動作で小皿を受け取り、おずおずと尋ねた。
「その……美羽さんも、戦う人なんですか?」
「えっ? んーっと……」
そんな質問されるとは思ってもみなかったのだろう。美羽は切れ長の目を丸くして、白い指を顎に当てて答えた。
「そう聞かれると私は武家の女よ。あなたの仲間とも戦ったわ」
戦った――そう淡々と告げられ、胸が痛くなった。
「父が早く亡くなって後継ぎがいないの。私は女だから今すぐ後を継ぐことはできないけど……。私の取柄は弓だけだから」
「弓だけとか言って腕はピカイチだもんな」
「お世辞はいらない。男の人には負けるもの」
「だが、私たちの世代なら美羽の右に立つ者はいない」
「忠治まで……っ」
五右衛門と忠治の同意に美羽は狼狽え、恥ずかしそうにうつむいて膝の上で両指を絡めた。凛とした彼女が動揺を示すのを見て、千鶴は少し驚いた。
「はいはいっ。おれからも質問!」
五右衛門が元気よく手を上げて千鶴に言う。はむっと団子を咥えたまま首を傾げると、彼は楽しそうにニッと笑った。
「モモ様のことはどう思ってる?」
「どうって……」
「ほら、カッコイイとか寛大なお心をお持ちで臣下にすっごく慕われてるとかさっ!」
目を輝かせて身を乗り出す五右衛門。びっくりして身を引くと、忠治が五右衛門の襟首を掴んで引き上げる。
「えっと……」
思い浮かべる。
確かにすごく綺麗な顔をしていた。はっと息を飲むような美貌に、物腰が柔らかくて話しやすいお方だと思った。想像していた人間と全く違っていて、恐らくあんな綺麗な双眸は一生忘れられないだろう。そこまで考えて、頬に手を当てた。少し熱っぽい。千鶴は恥ずかしくて、顔をうつむかせた。
「そうですね……。すごく格好いいお方で……忘れられません……」
熱い息を零し呟くと、五右衛門はニヤァッと悪い笑みを浮かべた。
「だってよ。美羽」
「な、なんで私に言うのよっ」
「素直じゃねーなぁ。こういうときは若様は私の……いてぇッ!」
無言の拳骨を側頭部に受け、五右衛門は悶絶する。忠治が呆れたようにため息を吐き、湯呑を傾けた。すると彼はふと思い出したように呟く。視線に気づいた千鶴は顔を上げた。
「あなたも『鬼』ならば、角が生えるのだろうか?」
「え……」
「ちょっと忠治、失礼でしょっ」
「む。私は純粋に疑問に思っただけで……」
「それを口にして良いかどうかぐらい考えなさい。馬鹿じゃないの」
「…………」
また、困った。
普段『鬼』は人間と酷似した姿をしている。これは仮の姿と言っていいだろう。本来の『鬼』の姿は角の生え、金色の瞳を持った異形のかたち。それを人前で曝すことを、鬼の一族は良しとしていない。先日千哉が、桃太郎たちに真の姿を曝してまで里を守ろうとした。そのことを聞いた千鶴はたいそう驚いた。
柳眉をひそめる美羽にたじろぐ忠治。しかし美羽も気になっている様子である。当然だろう、千哉の“変化”を目の前で目撃しているのだから。
そんな空気がひしひしと伝わって、千鶴は肩をすくめた。そして乾いた唇を動かす。
「わたしは、よくわかりません」
「……」
答えたことに三人は目を丸くする。千鶴は団子を小皿に置いて、ぽつぽつと言葉にした。
「生まれた頃はみんな小さな角があります。でも五つぐらいになれば角は無くなって……。鬼が力を使うことなんてありませんし……たぶん兄は、鬼柳で数百年ぶりに力を使ったと言われます。それも、人間の前で」
千鶴は三人の顔を見渡して、淡く微笑む。
「わたしは薙刀が少しできますが、普通の人間と変わらないと思います」
「千哉殿のように力は無い、と?」
「さぁ、どうでしょう。だた、これぐらいのことなら……」
千鶴は左目に手をかざし、瞬きを数度した。すると大きな黒目がほんの一瞬だけ金色に変わったのだ。
忠治と美羽は息を飲み、五右衛門は喉の詰まったような悲鳴を上げた。
それに千鶴は眉尻を下げた。
――やっぱり、この人たちとわたしは違うんだ。
少し悲しく思う。
同じ容姿をしているけど、中身は違う。伝聞通り、人間は鬼を恐れる。三人とも強張った表情をしていて、そんな顔を向けられるのは初めてで……。
ここに来て、初めてなことばかりだ。見る景色も心に抱く思いも。
あの人は言っていた。鬼も人も同じように守る、と。
そんなことは可能なのだろうか。
「千鶴! 何をした!」
そのとき怒声ととも障子が開け放たれる。部屋の仕切りには息を切らして険しい顔つきをした千哉が立っていた。彼は妹の様子を瞬時に察し、忠治たちを押しのけ割り込む。
「何をしてるんだお前は! 勝手に力を使うなど……!」
強く両肩を掴まれ、千鶴は顔をしかめた。
「申し訳ありません、お兄様……」
「貴様ら、千鶴に何をした?」
謝るが千哉の目線は既に忠治たちに向けられていた。怒気の含んだ鋭い視線に三人は狼狽を見せた。
「い、いや、おれたちは……」
「千鶴に何かあったら俺は容赦なく貴様らを潰すぞ」
「落ち着けって千哉。オレの従者が客人の妹に失礼なことするかよ」
明るく心地の良い声に千鶴は顔を上げる。
千哉を制するのは噂の青年。均整の取れた顔立ち、すらりと高い背筋、障子に手をついて雅やかに立つ姿は、たいへん様になっていた。
彼の登場に千鶴は自然と息を飲んだ。
従者三人が座礼する中、桃太郎は千哉の隣に座って千鶴に挨拶をする。
「千鶴だったよな? オレは一色桃太郎って言うんだ。これからもよろしくな」
「……」
綺麗な微笑。千鶴はじっとその笑顔を見つめていた。すると桃太郎はついっと目を離して、忠治たちに言う。
「で、何したの。おまえら?」
「あ、いえ……。千鶴殿にも千哉殿のような力があるのかと窺いまして……」
忠治が畳に頭を下げたまま答えた。桃太郎はふーん、と唸っただけ。その横顔は怖いぐらいに冷え切っていて、そう感じたからこそ千鶴は口を挟んだ。
「みなさんは悪くありません。話し相手がほしくて答えてしまったわたしが悪いんです。力を見せたのもわたしが自分で……」
「何!? 千鶴、お前は何もしなくていいんだ。俺がすべてを懸けて守り抜く。お前には決して、怖い思いはさせない。お前は誰にも渡さない、誰にも触れさせんぞ。もし何かあったら俺を頼れ。どんなところにいても兄はお前とともにある」
「お兄様?」
「千哉、おまえ……」
兄は必死の形相でまくし立て、千鶴の両手をぎゅっと包む。隣で桃太郎が奇人でも見るかのような目つきで千哉を眺めていた。が、すぐにこちらへ向き直った。
「まぁ忠治たちと交流を深めてるならそれはそれでいいや。じゃあ次は、オレと仲良くしてくれるか? 千鶴」
「え」
「な、貴様……!」
千鶴の驚きの声と千哉の罵声が重なる。しかし桃太郎は再び爽やかな微笑みを浮かべて、自然な動きで千鶴の手を取った。
「一緒に、城下を回ろう?」
思わぬ誘いである。千鶴は恥ずかしさも忘れて彼の顔を凝視してしまう。桃太郎の表情に嘘は無い。ただ純粋に交流を深めたいだけだと言っている。耳元に甘い声が落とされる。
「この前言っただろ? 町を案内するって。約束通り連れて行ってやるよ、おまえの知らない世界に」
「え……あ、……えっと」
かぁっと熱くなる顔。彼の顔を直視できなくて目を泳がせて答えあぐねていると。
「駄目だ! 絶対に許さんぞ」
千哉が怒鳴る。
「千鶴に万が一のことがあったらどうするつもりだ、貴様は! もし千鶴に傷一つでも付けてみろ、今度こそ貴様の息の根を止めてやるぞ」
「ちょ、千哉……おまえ、やっぱおかしい……」
血走った目で桃太郎に人差し指を突きつける兄を見て、千鶴は兄の袖を引っぱった。
「あ、あの、お兄様」
「そうだ千鶴。行かなくていいぞ。こんな顔だけが良い阿呆は必ず裏があるのだから……」
「行っては、駄目ですか?」
「……………………な、に!?」
両目をひん剥く千哉。頭痛を眩暈に耐えるように額に手をやり、「ぐぬぬ」と唸り始めた。
やがてがばっと顔を上げ、桃太郎に振り返った。
「無論俺がきちんと見張るからな。いいか貴様、千鶴に指一本でも触れてみろ、腕が吹き飛ぶと思え」
「お、おう……」
物凄い剣幕に押されて、桃太郎は即座に頷いた。
千鶴はほっと息を吐き、頬を緩める。
このまま里に帰る予定が城下町を回ることができる。嬉しくて楽しみで仕方がなかった。さっき、そっと胸に押し込んだ気持ちが一気に溢れ出した。
千鶴は忠治たちと話す桃太郎を見つめた。
胸の高鳴りを覚えながら……。