はじめての、そと。【其之一】
三月も終わり。桃の木もその綺麗な花弁を散らしつつある頃――。
一色の本城、当主政春の居城に北地からある者が訪れた。
一色の北方は未だに未開の地であった。開墾も進まず田畑は荒れ放題で、住んでいる者は流れ者の類しかおらず、一色の領民が踏み入ることはない。
その理由はたったひとつ――噂である。
遠い昔から、北地には“人ならざる者”が棲んでいると云われ、その者らは災厄をもたらし民を恐怖に陥れる。たったそれだけの噂だけで人が寄りつかなくなった。加えて、北地は高山の峰々がそびえ立つだけで、産業的価値が無いのも理由にあった。
しかしこの三月――。
一色家棟梁、一色政春は北地の山々に手を伸ばした。金脈が見つかったそうだ。
産業の拡大を目指す政春は無論食いついたのであった。
本城の広間に彼はいた。
冷たい板張りの床に腰を落とし、鋭い目つきを広間全体に投げかける。結わえていない黒髪は襟足でばっさりと切られており、長身で鍛え上げられた体躯が着物の上からでもわかった。
殺気じみた異様な空気を放つ彼はおもむろに口を開いた。
「貴様の父親はまだか」
右手に投げかけた言葉。それに答えるのは上座の方に座る青年である。
眉目秀麗――その一言で片付けられる容姿をする彼。ぞんざいに括られた亜麻色の髪と明るい色の着流し姿の彼は、何度見ても一国の跡取りとは思えなかった。
彼は端正な顔を綻ばせて言う。
「仕方ないだろ、親父だって忙しいんだから」
「約束の時はとっくに過ぎているぞ」
「もうちょっとだけ待ってくれって。千哉」
「……」
馴れ馴れしく名前で呼ばれて、千哉は閉口した。名前で呼ばれるのは慣れていない。今まで誰にだって頭領、千哉様と呼ばれてきた。それは鬼柳一族の長として、上に立つ者として当たり前であり、皆に慕われている証だった。
だから、こう普通に親しく名前を呼ばれるのはむずがゆい。
「千哉様になんたる無礼。我らはお前たちのために出向いたというのに」
そしてそれを快く思わないのは鬼柳一族として当然。左手に座るのは鬼柳の者たち。今回千哉は五人連れてやってきた。一人はおまけに等しいが。険しい顔で睨みを利かせる仲間を見て、千哉は息を吐く。
「……もういい。騒がしいのは嫌いだ」
「千哉様」
不服そうに声を上げるが彼は引き下がってくれた。
千哉は小さく肩をすくめて、格子窓の向こう側を眺めた。
一色の本城は領地のちょうど真ん中ぐらいにある。一色本家の居城はさすがと言ったところか、それなりの規模である。城を挟むように東西には大きな川が流れ、その水流を利用して堀や櫓、町を築いていた。自然を駆使した城塞であり、まさにそれは『人間』たちが戦うために造ったものであった。
こんな大きな城と町を作る『人間』を、鬼柳は理解できない。いや理解しようとも思わない。
なぜなら、鬼柳は『人間』ではないのだから――。
「遅くなった」
声とともに襖が開かれた。千哉は思考を止め、目を上げた。
現れたのは五十前後の男。茶色い小袖と、なんとも質素な装いをしているが、その両目は揺るぎない輝きを放ち、貫禄のある佇まいであった。千哉は目を細めてその『人間』を観察した。彼の伴をする男もいたが、千哉の目はそれを捉えていなかった。
「……すまんな。近頃はいろいろとあってな」
男はニヤニヤと笑いながら上座に坐す。
「桃太郎、傷はもういいのか」
「うん、治ったよ」
「身体だけは頑丈だな、おまえは」
「どういう意味だよ、それ」
笑い合う父子。これが一国の主である。父子ともども、どこか抜けている気がした。千哉はますます眉をひそめる。
「お前が、一色政春……」
「ん? あぁ……そうだったな。今日は客人がいたな」
政春は笑みを崩さずこちらへ目を向けた。顎髭を撫でながら言う。
「鬼柳と言ったか。一色が治めて長く経つが北はまだまだ手つかずじゃ。が、だからと言っておぬしのような輩がいるとは思いもよらなかったぞ」
気味の悪い笑みを浮かべる男だ。こちらを見下したようなそれに千哉たちは殺気立つ。しかし政春は動じることもなく、脇息に身を傾け物珍しそうに千哉を凝視した。
「『鬼』、か……。面白きものよ」
そう、鬼柳一族は『鬼』である。
昔から人ならざる者が巣食うとされる一色領。それを“鬼”と称するのは言い得て妙だろう。人間というものは他人を羨み、蔑む生き物なのだから。
千哉たちは『鬼』である。人間よりも強大な能力を持つ『鬼』は、人間からの差別と利用されることを恐れた。欲深い人間から自身を守るため、人里から離れてひっそりと人間社会に溶け込み生きてきた。それが『鬼』の在り方、人間とは相容れない存在であった。
――しかし先日、それが覆されようとしている。
「言っておくが」
意地悪い笑みを浮かべる政春に、千哉は堪らず口を挟んだ。
「俺たちは貴様らの軍門に下るつもりはない。里は、あの山は鬼柳のものだ。貴様らが奪うつもりなら、俺はどんな手も厭わない」
それに応えるように鬼柳の鬼たちが自らの得物を手にした。
鍔鳴りの音に驚く桃太郎と従者たち。政春の付き人も右手の刀を持ち上げ、鯉口を切った。
「貴様らッ……」
「忠行、やめろ」
怒る付き人を制し、政春は桃太郎を一瞥した。
「おまえ、こやつらと何を契った? 面倒なことじゃないだろうな」
非難するような視線に桃太郎は気まずそうに髪を掻く。
「オレは別に……。ただ、千哉たちも一色領に住んでるんだし、領民として扱っても良いんじゃないかって思ったんだよ。千哉たちにもっと、オレたちこと知ってもらいたいしさ」
「うむ確かに。わしも金は欲しいからな」
未開の北方に政春が手を出した理由は金脈の発見が発端だった。しかし北地に棲まう“鬼”を恐れ、金堀り衆たちが躊躇いを見せていた。そんなとき、一色家嗣子の桃太郎が鬼退治と称し、山へ入ったのだった。
「おぬしたちが、鬼という存在であるか否かこの際どうでもよい。わしの目的は金の採掘じゃ。おぬしたちを山から追い出そうとは思わん」
「ならば、どうする」
「言ったろ。わしは金が欲しい、桃太郎はおぬしたちを認めると言った。互いに利はある」
彼の心が読めない。千哉は警戒を深め、政春を睨み続けた。
「そう恐い顔をするな……。だが、対価は払ってもらうぞ」
「対価だと……」
「その娘は、どうだ?」
政春が指差した先は鬼柳の面々が座る左側。その隅っこで座るのは少女であった。示された少女はびっくりしたように大きな漆黒の目を瞬き、固まった。薄桜色の小袖を着る彼女は千鶴。千哉の妹だ。
「それだけは絶対に許さん!!」
床が抜ける勢いで叩きつけられる拳。広間全体が軋んだ気がした。鬼たちは血走った目で千鶴を背に庇い、得物から手を離さなかった。
「親父っ」
そのとき桃太郎が切羽詰まったような声を上げ、父親に言い募る。
「千哉たちはオレたちに何もしねーよ。いくらこいつらを知らないからってそんな選択……」
「冗談だ。例え話に殺気立つな、みっともない……」
千哉たちの言動を予想していたように、政春は愉快げに肩を揺らす。今にも誰かが飛び出し、己の首を掻っ切るかもしれないというのに政春は笑っているのだった。
千哉はこの男が理解できなかった。
「そう焦るな、対価など他にもある。わしは平和的に解決したい性質でな。そうだな……鬼柳には、金を掘ってもらおう」
「なんだと?」
ぴんと来ない。眉を上げると政春は身を乗り出して尊大に告げた。
「穴を掘るのは骨が要る。要は人手が欲しいんだ。無論管理はわしがやる」
「それが鬼柳を追い払わない代わりの、対価だと」
「不満か? 食も銭もきちんと出してやる。さすがに禄はやれんぞ、そこまで面倒見る気は無い。……あとは桃太郎になんとかしてもらえ」
「えっ?」
名指しされて桃太郎は目を剥いた。
「おまえが連れてきたんだろ? 死ぬまで面倒見てやれ」
「いいのかよ、勝手に決めて……まだみんなに話してないんだろ?」
「だからこそ、おまえにやる。鬼柳の存在を知るのはここにおる者だけに止める」
「秘密にするってことか」
桃太郎は髪をガシガシと掻き回してから、こちらを見つめた。
「……まぁ、これ以上人間と付き合う理由もないもんな千哉は。それでいい?」
「千鶴は……」
「そんなこと、オレがさせない」
力強く断言する。桃太郎はゆるゆると首を振って、微笑を浮かべた。その微笑みは初めて出会った時と同じ微笑みで、気高くとても暖かく感じだ。
「オレは、おまえと友達になりたいから。鬼がどんな存在だろうと、千哉はここにいて、鬼はこうしてある。目に映ってるのに無視するなんてこと、オレはできないしな」
こんなに人間と話すことは初めてだ。
人間がどんな存在か、千哉もあまりよく知らない。欲深く下賤で、我ら『鬼』を軽蔑することしかできない。そう教えられてきたが……。
知識だけでは現実は計り知れないだろう。
――いずれすべてオレの物になる。そのときオレは人も鬼も背負ってやる、ぜんぶ守ってやるよ!
千哉は、この男に賭けてみたくなった。
彼がどんな生涯を生き、どんな想いを抱えていくのだろうか。その中で鬼柳はどんな振る舞いをすればいいのだろうか。
この男について行けば、俺はどんなことを知るのだろうか……。
「……いいだろう」
千哉は政春に向き直った。
「金坑は勝手に掘ればいい。代わりに、鬼柳の自由は認めてもらう」
答えると、政春と桃太郎は楽しそうに大きく笑った。