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結婚は中々に難しい

「結婚!?」

 ハクアが素っ頓狂な声を上げて、酒場の賑わいが一瞬水を打ったように静まる。

 しかし、次の瞬間には賑やかな声が周囲を埋め尽くしていた。

「結婚ごっこ、だよ」

 マリが気まずげな表情で訂正する。

「この先、どっちが死ぬかわからないからさあ。それなら、死ぬ前に未練を残さないようにしてあげるのも人の道かと」

「そっか。ジンってマリさんのこと、好きなんだ」

 ハクアが、納得したように頷いた。

 マリは、むず痒いような気分になった。

「違うよ。ただ、愛着はあるんだと思う。お前、この町にいるのやめろーとか言い出すぐらいには」

「どうしてそこから結婚に行くのか私にはわからないなあ」

 ハクアは酒を一口飲んで、考え込む。

 そして、再び口を開いた。

「まあ、結婚なんて勢いでしたほうが良いって知り合いのおじさんも言ってました。しなかったらぐだぐだのうちに倦怠期に入って別れちゃうって」

「だから、本気での結婚じゃないからね」

 マリは苦笑いを浮かべるしかない。ハクアは、ジンとマリが本気で結婚しようとしていると考えているようだ。

「問題は、私が第二のシホさんになりかねないことだけど……」

 マリは、自分で言っていて、顔から表情が消えていくのを感じた。

「まあ、師匠が私にそこまで思い入れがあるとは思わないから、大丈夫かな」

「どうでしょうねえ。私は、引きずると思うけどな」

「私の理想としては、あっさりと結婚してあっさりと別れること、かな。最後には師匠と私は別の道を行くだろうし」

「本気で結婚する気は本当にないので?」

「……師弟としてならともかく、あの人の横で一生過ごすのは苦労するんだろうなあって思うんだよねえ。多分あの人も私に対して同じ気持ちでいると思うよ」

「仲が良いんだか、悪いんだか」

 呆れたようにハクアは言って、再び酒に口をつける。

「まあ、良いんじゃないですか。結婚して幸せになって、こんなきな臭い町からは離れる。賢明な判断だと思いますよ」

「……放置、できないよ。気がかりも、因縁も多すぎて」

 マリは、窓の外に視線を向ける。

 酒場の明かりに照らされた薄暗い道は、様々なものが隠れていそうに見えた。


「セツナさんが残っていたとは心強いな」

 カミト領剣士隊宿所に新たに用意された部屋で、ジンはセツナと話し合っていた。

 この前のサクマ領剣士隊宿所襲撃事件があってから、戦争で剣士隊の人数が減少しているサクマ領とカミト領は宿所を同じにするように上からお達しがあったのだ。

 あの事件の際、多くの客員剣士が食堂に誘導されて戦力として機能しなかったという。敵がなお身内にいるのか、それとも自然と皆がその行動を取ったのかはジンにはわからない。

「私はカミト家の傍流だからな。本家は僕に戦場でまで活躍されたくないんだよ。だからこんな遺跡の発掘調査などに回されている」

 やや拗ねたような口調でセツナが言う。

「予知眼、ですか」

「ああ。本家の人間が目覚めれば良かったのだがな。この予知眼を巡って、十年前に本家の跡継ぎが失踪したりもしたぐらいだ。かと言って、予知眼を持った僕が家を捨てるわけにもいかんでな」

「大変なんですねえ」

 ジンはどう頭を捻っても、そんな月並みな言葉しか出てこない。

 名門の家系の悩みなどジンには縁遠いものだ。

「風来坊にはわからん悩みだろう」

 意地悪く笑ってセツナは言う。

 戦争に行けなかったことがよほど口惜しいのかもしれない。

「過去ならば、予知眼に目覚めたものが跡を継ぐのがカミト家のしきたりだった。しかし太平の時代も続けば事情も変わってきてな。本家も素直に譲りますとは言いたがらない。その関係でフクノ領との縁談を用意されたりと、結局のところ、ややこしい流れになっている」

「フクノ領の嫁を持った男は、カミトの跡継ぎに相応しくないと?」

「そういうことだ。結局ご破算になったがな」

 セツナは、苦笑いをしてジンの肩に手を置いた。

「まあ、これからはご近所さんだ。襲撃があったら僕とお前で蹴散らしてやろうじゃないか」

「あ、それなんですけどね。俺、多分宿舎から離れて生活すると思います。宿舎付近の家を借りるとは思いますが」

 セツナが、戸惑うような表情になる。

「と言うと?」

「結婚するんで」

「結婚!? 相手は誰だ」

 ジンは、相手が相手なだけに言い淀んだ。

「……マリです」

「ほー……」

 セツナは、興味深げにジンを見た。

「まあ結婚などと言う儀式は早めに済ませておくべきだからな。機を逃すと中々上手く行かないこともある。英断だと僕は思うね」

「いや、本気で結婚するわけじゃないんですけどね。結婚ムードを少し味わって、今一度自分達が何をしたいのか見つめなおそうかと」

「よくわからんな」

「視野狭窄になるのって、良くないと思うんですよ」

「まあ、良いだろう。式はきちんとやるんだろうな」

「ええ、身内だけでひっそりと。セツナさんも来てくれますか?」

「賑やかしなら任せておけ。人数なら揃えてやろう。それじゃあな」

 そう言って、セツナは去っていった。

 今ひとつ、最後の会話が噛み合っていなかった気がしたジンだった。

 しかし、式の人数が増えようと減ろうとジンにとっては大差が無いことだ。

 結局は、結婚したという事実がそこにあれば良い。

 そして、マリを誠心誠意口説いて、この町から追い出せれば作戦は成功だ。

(……何やってるんだろうな、俺)

 思わず、そんなことを思ってしまうジンだった。

 マリに平和の大切さを思い出させ、気持ちの変化を産むためにわざわざ結婚までする。

 自分のやっていることはまるで茶番劇だ。

 それでも、今はそれ以外に手が思いつかないのだから仕方がない。あの弟子は、例え町から出て行かないと縁を切ると言っても、この町に居座るだろう。

 仇討ちの為に。

 それを思うと、ジンは気分が沈むのを感じてしまう。

 開いたままだった扉から人が入ってきたのは、その時だった。

 どこか、見覚えのある顔だった。

 三十路前後の男だろう。顔には無精髭が生えて、眉間には傷痕がある。長い髪の毛を後ろで縛っていた。腰には、剣を帯びている。

「おう、久しぶりだな」

 にこやかに笑って男はいう。

 記憶のどこかにある顔だ。しかし、それが誰の顔だったか思い出せない。

 ジンは、剣の柄をいつでも握れる位置に引き寄せた。

「ああ、セツナさんを結婚式に呼んだか? くれぐれも一人で来るように言わないと厄介事になるから気をつけろよ」

 男はそう言いながら、部屋の奥に入って行ってベッドに腰掛ける。彼がジンの横を通り過ぎた時、そのあまりにもの無防備さにジンは拍子抜けしたほどだ。

「それとも、リッカさんを呼ぶか悩んでる段階かな? いや、そもそももしかして結婚式の話自体がまだないか?」

「お前、なんで結婚式の話なんぞを知っている」

 ジンは、このふてぶてしい乱入者の首に剣を突きつけた。

 男はそれを、いつの間にか抜いていた剣で弾いた。

 一瞬の早業だ。

「やだなあ、刺々しい。自分自身にそんな冷たくすることないだろう?」

「自分自身、だと?」

「そうだよ。俺は未来のお前だ」

 男は、悪戯っぽく微笑んで、堂々と言い放った。

 男の顔に対する既視感の正体に、ジンはようやく思い至った。

 水辺に写った、自分の顔だ。

 ジンは疑わしげに男を見つめつつも、剣を鞘に収めた。

 男も、それに習い剣を鞘に収めた。


「妹の名前は?」

「リン」

「得意とする術は?」

「術ぅ? 魔術か? なら炎だな。不得手は風だ」

「里で隣に家にいた奴は?」

「無愛想なオッサンとその姪っ子が住んでたな。あれどうしてああなったんだろうな。未だに謎だ」

「幼少期にリンと喧嘩して、大怪我させられたよな。理由は何だ」

「大怪我? させられた覚えはないぞ。喧嘩ならしょっちゅうしたが」

 引っ掛け問題だったが、相手は乗って来なかった。

 今のところ、ジンの発した問題に、男は全て正答している。

「二十代半ばの頃の俺ってこんなにピリピリしてたっけ。なんか記憶の中と違うなあ」

 そう言って、男は人の良さげな笑みを浮かべる。

「三十路前後の俺は随分気が緩んでいると見えるな。性根を叩きなおしてやろうか」

「真面目だにゃー。やめとけよ。俺とお前が戦ったら、経験値の分俺が強い。俺は今、肉体と経験のバランスが一番ピークに近い時期だからな。まあ剣士としては下り坂が見え始めた時期でもあるわけだが。お前、今の若さを大事にしろよな」

「五月蝿いよオッサン。未来の俺だなんて話、うかつに信じられるか」

「じゃあ、お前に良く似たこの顔はどう説明する? お前の事情を良く知っている理由は? なんでほとんどの人に語ってない結婚式の話を知っている?」

 ジンは、反論できない。

 しかし、時間旅行だなんて話、にわかに信じられるものではない。

「そもそもさあ、お前、うかつだよ。俺がその気になってたら、お前はもう地面に倒れてるぜ」

 揶揄するように男は笑った。

「……やってみなけりゃ、わからんがな」

 ジンは、剣の柄を再び手に引き寄せた。

「やめやめ。冗談だよ。ピリピリしーすーぎー。まあ、時間移動を可能とする魔法陣があってだな。ハクアのお嬢さんとそれを苦心して起動させてここに来たってわけだよ」

「目的はなんだよ」

「歴史を書き換えること、かな」

「詳しく語ってみろ、それ次第で信じる」

「それが、詳しく語ることもできんでな」

 男が困ったように言う。それに対して、ジンは困惑するしかない。

「未来を変えに来たんだろう? なら、語るのが一番手っ取り早い手段じゃないか」

「それがなー。俺が話すことで本来お前が取るべきだった行動を取らなくなる可能性がある。そうなると、未来がどう変化するか俺にも予測できなくなってくるんだ。未来は細かい分岐の積み重なりだからな。一つ違う分岐を歩んだだけで、後の世界ががらっと変わってしまう可能性まである」

「……なら、結局お前は何しにこの時代にやって来たんだよ?」

「……まあ、最後にはわかるってな。ところでお前、剣士隊の宿舎出るんだよな?」

「ああ、そのつもりだが」

「じゃあしばらくこの部屋は俺に使わせてくれよ。未来の俺はこの国の通貨をほとんど所持していないんだ」

 ジンは、胡散臭げに男を眺める。

 なんだかこの男が、詭弁を使った物乞いに見えてきてしまったジンだった。

 しかし、それにしては、この男はジンに似すぎているのだ。

「ところで、俺とマリは未来じゃどうなってるんだ?」

「お? 何? 興味ある? マリちゃんのこと大好きだもんねー」

「斬り殺すぞ、貴様」

 ジンは剣を鞘から半ば抜いた。

 男も咄嗟に、自らの剣の柄を手で掴んでいる。

 素早い反応だった。先ほどの攻防からも知れたことだが、男の腕が一流であるとジンには理解できた。

「いやあ平和なもんだよ。平凡な一軒家に子供が二人。お父さんは出稼ぎの狩人で家はお母さんが守っている」

 ジンはその一言で、頭が真っ白になるのを感じた。

 この男は今、何を言っただろう。

 自分がマリと結婚して、子供を作り、平凡な家庭を築き上げているとは言わなかったか。

「……やっぱ俺、結婚辞めるわ」

 ジンは、剣を鞘に収めて肩を落とした。

「あ、そうくる? 俺としては安心させようとして言ったつもりだったんだけどな」

 男は苦笑いを浮かべて、剣の柄から手を離し、ベッドに両手を置いて体重を預けた。

「こんな所で未来を書き換えるのは辞めてくれよ。書き換えるならもっと後にしてくれ。繰り返し言うが、お前の行動次第で未来がどう変化するかわからないんだからな」

「……未来からお前がやってきたってことは、この時代で俺達の身に何か不都合が起こるって認識で良いんだな?」

 男の言い分を完全に信じきったわけではない。未来の自分と言われても、実感が沸かないのが今の気持ちだ。

 しかし、男のロジックに合わせて会話をするだけの能力はジンにはあった。

「……ご想像にお任せするよ」

 男は、そう言って肩をすくめた。

 どうやら、情報は引き出せなそうだ。ジンはこの男との会話を打ち切ることにした。

「どうでも良いけど、今日はこの部屋俺が使うからな。お前、部屋出てけよな」

「げっ。そう言うなよ。俺金ないって言ったじゃん」

「食費ぐらいは分けてやるからさっさと出て行け」

「ありがとうなー。やっぱ持つべきものは金持ちの過去の自分だな。ありがたやありがたや」

 男は金を受け取ると、軽い足取りで部屋を出て行った。

 ジンはベッドに腰掛けて、考え込む。

「ええっと、なんだっけ」

 新たに得た情報の数々に、どれから整理をつけたものかジンは戸惑った。それはさながら、荷物が多すぎて散らかった部屋をどう片付けるか悩んでいるかのようだった。

「そういやあいつ、セツナさんを呼ぶなら単独で呼べって言ってたな……」

 しかし、セツナは既に人を集めてくると言っていた。

 時既に遅し、だ。

 だが、それが自分の身に何か大きな影響を与えるとは、ジンには思えなかった。


「まあ、何やってるんだろうなー自分って思わない部分はないでもないね」

 窓からは日光が差し込んでいる。

 教会の控え室で、花嫁衣裳に身を包み、マリはそう呟いた。その頭には、花冠が乗っている。

 遺跡の水を再度飲んだ影響で、胸は大きく膨らんでいる。前回よりも飲む量を減らしたので、元に戻るタイミングも早くなるだろう。

「何って、結婚でしょう?」

 ハクアが、呆れたように言う。

「なんで師匠と結婚するんだろうって今になって冷静になって思ったんだよね」

「ジンにはジンの考えがあるんでしょう」

 それに、とハクアは言葉を付け加えた。

「嫌いな相手となら、結婚ごっこだってできないはずでは? マリさん。じゃなくて、今はエリィさんでしたね」

 ハクアの言うことももっともなので、マリは黙り込む。

 どんどん心音が高鳴ってきた。

 これから自分達は、大勢の観客の前で一芝居を打つのだ。

 なんて馬鹿らしいことをやっているのだろう、とマリは思う。

 けれども、それでジンが納得するなら良いか、という諦めに似た思いもマリの中にはある。

 控え室から出て、マリは講堂に出る。

 傍に控えていた少女が、ブーケをマリに差し出した。マリはブーケを受け取ろうとするのだが、少女は離さない。

 顔を見ると、リコだった。

「マリ先生、ですよね……」

 涙に潤んだ目で、リコが言う。

「あー、その、うん?」

 マリは戸惑い、思考が上手く回らなくなってしまった。

 その隙に、リコは行動を起こしていた。

 リコの唇が、マリの唇に触れていた。

「さよなら、先生」

 そう言って、リコはブーケを残すと、泣きながら教会を飛び出ていった。

 観客の唖然とした視線を感じて、マリは何事もなかったように背筋を伸ばして、牧師の前へと歩き始める。

 牧師の前には、既にジンが立っていた。

 優しく微笑むジンは、今まで見たどの表情よりも魅力的に見えた。

 マリは、心音がさらに早まるのを感じた。

(……師匠、こんな時に限って優しく微笑むのやめて。いつもの呆れたような目で見て。なんか空気に流されるから)

 そう思うのだが、ジンは優しく微笑むのをやめない。


「ああ、セツナさんに人集めさせちまったか。そりゃー駄目だ」

 未来のジンは、結婚式の朝に、そう言って大笑いした。

 ジンは戸惑うしかない。

「ああ、あと、リコちゃんが問題起こすけど、大目に見てやってくれや」

 未来のジンは、そう付け加えるように言った。

 そして、事実、問題は起きたのだった。

 未だに未来の自分がやってきたという事実に実感が沸かないが、彼を認める方向に意識が傾き始めたジンだった。

「っていうか、なんですか、この来客の数」

 マリが小声で呆れたように言う。

 教会は、フクノ領剣士隊の服とカミト領剣士隊の服で溢れかえっている。

「いや、セツナさんとリッカさんを呼んだんだがな。片方が人数を集めるならばともう片方も張り切っちゃったみたいでな」

「これじゃあカミト領とフクノ領の式ですよ。私の知り合いとかサクマ領の人とか式場の外に追い出されてるじゃないですか。しかもなんか強面揃いなんですけれど」

 フクノ領の剣士も、カミト領の剣士も、歴戦の勇士と言った顔立ちの面々だ。これからここで王が演説をしても何の違和感もないだろう。

「……まあ、今更お帰り願うわけにもいくまい」

 ジンは、苦笑する。

 マリも、柔らかく微笑んだ。

「……仕方ないですねえ。ごっこ、ですからね」

 牧師が小さく咳をして、説法を始めた。

「夫婦というのは、互いに助け合い、一つの家庭を支え……」

 牧師の説法が続いていく。

 ジンはなんとなく、マリの手を掴もうとした。

 マリの手は、するりと逃げていく。

 ジンは意地になって、マリの手を掴もうとする。

 マリの手は、やはりするりと逃げた。

 その逃げた先の手を、ジンは掴んだ。

 二人の手が絡み合う。

 マリは俯いて、一言も発しなくなった。

「それでは両者、誓いの接吻を」

 牧師の声で、ジンとマリは向かい合う。

 マリは緊張で目を見開いている。

 ジンはそれを見て、苦笑した。

「一度済ませたんだ。緊張することもないだろ」

「緊張しますよ、そんなの。ああ、なんで結婚して良いなんて言ったんだろ」

「諦めろよ」

 しばらく黙り込んでいたマリだったが、目を瞑ると、ジンの頬にキスをした。

 牧師が、戸惑ったような表情になる。

 それはそうだろう。唇と唇を触れ合わせるのが本来の作法なのだから。

 しかし、これはこれで初々しいと思ったのかもしれない。彼は苦笑すると、口を開いた。

「ここに、二人を夫婦として認めます。」

 縋るように牧師を見ていたマリは、安堵したのか胸を撫で下ろした。

 拍手が教会に響き渡った。

 二人が、外へ向って手を繋いで歩いて行く。

 その前に、立ち塞がる男がいた。

 彼は懐に手を伸ばし、ジンに向って駆けて行く。

 咄嗟にマリを庇い、懐の短剣に手を伸ばしたジンだったが、その必要はなかった。

 球状の炎が、空中に幾重にも浮かび上がり、男を襲ったのだ。

 炎の魔術。しかも、手馴れた人間の技だった。

 醜く焼け爛れて、呻きながら、男は倒れた。

「その男の懐、調べてくれる~?」

「おい、その男を調べろ」

 リッカとセツナが同時に言う。

 フクノとカミトの集団が、焼け焦げた男に群がる。

 そのうち、短剣を掲げる腕があった。

「この男、武器を持ち込んでいました」

「なら、今リッカが下した処刑は正解だな」

 セツナが言う。

「この物騒なご時勢に、紛らわしい事をした時点で悪だよね~」

 リッカも言う。

「残念なことにうちの領の人間だね。さっさと遺体を運んで~」

 リッカが指示を出しながら、ジンとマリの前に歩み寄ってくる。

「ごめんね~。式に水差して。さ~、ぱ~っとブーケトスと行こうじゃない」

「もうリッカさんは式に呼びません」

 マリが微笑顔で言う。

「嫌われた……」

 リッカは肩を落としていた。

 外に出ると、待ち構えていたサクマ領の人々や、町の人々が、微笑んでジンとマリを迎え入れた。

「おめでとうー」

「幸せになれよー」

 祝う声の中で、マリが、ブーケを放り投げる。

「こういうのも、良いですね」

 マリが、小声で言った。

 マリが少しでもそう思うなら、それで良かったとジンは思った。

 日光を受けて、輝きながらブーケは飛んでいく。

 それは、大柄な男の腕に収まった。

 受け取ったのは、クロウだった。

 クロウは慌てて、隣にいた娘にブーケを手渡す。娘は頬を赤らめて、クロウに何やら話しかけ始めた。

「私、思わぬキューピット?」

 マリが、呟くように言った。

 ジンは、穏やかに微笑んでいた。


 式が終わり、着替えが済むと、二人は用意してもらった家の台所で向かい合って座った。

 カミト領の剣士隊宿舎付近の家だ。比較的安全に過ごせるだろう。

「何しましょうね」

「何しような」

 いつもならば、話題がなければ黙って各々のことができた二人だが、今日ばかりは何か話題を見つけなければという強迫観念のようなものに襲われていた。

 耐え難い沈黙が、二人の間を漂う。

「そう言えば、式にも刺客が送られてましたねー。いよいよ物騒になったものです」

「本当なら、お前には早く町を出て欲しい」

 ジンが言う。

 マリは、困るしかない。

「その話はやめましょう。水掛け論にしかならないから」

「……そうだな」

 気まずい沈黙が場に流れた。

(あれ? 私、今まで師匠とどうやって二人で過ごしてたっけ)

 戸惑ってしまうマリだった。

 今までは、二人の自然な関係というものがあったはずだ。それが、夫婦という囲いに覆われたとたんに見えなくなってしまった。

 話の種が、いくら知恵を絞っても出てこない。

 気まずい結論に落ち着きそうな話題の種ならいくつでも出てくるのだが、それは心の農園に埋めておくことにした。

 マリはなんとなく気まずくて、その場を去ることにした。

「師匠。私、料理でも作りましょうか」

「師匠はやめろ」

 ジンは、優しく微笑んで言う。

 その優しい微笑が、マリの中の違和感をますます大きくさせる。

「ジンで良い」

「じゃあ、その、ジン」

「ああ、なんだ」

「料理を作るから、食材の調達に出てきますね」

「付き合うよ」

「いえいえ、ジンは座ってれば良いので」

「そう言うな。護衛にもなるだろう」

 そう言って、ジンは剣を腰に差して立ち上がる。

「ハクアに付き合ってもらうし、昼間だから、大丈夫ですよう」

 そう言って、マリは会話を一方的に打ち切って、部屋から逃げ出した。


(あれ? なんか泥沼に陥ってない? 避けられてない?)

 そうと気がついたのは、マリが一人で買出しに出て行った直後のことだった。

 今までは、二人の間には自然な関係があった。しかし、今はそれがとてもぎこちない。

 夫婦の真似事をしよう。そうしようとすればするほど、二人の間の関係はぎこちなくなって行くような予感があった。

「そりゃあそうだ」

 未来のジンは、そう言って笑った。

 彼はマリがいなくなるのを見計らって、家に訪ねてきたのだ。

「長年師匠と弟子をやってたのがいきなり夫婦だ。しかもマリは初恋もまだだろう。器用にやるほうが難しい」

「……あんたはどうやったんだよ」

 ジンは疑わしげに未来のジンを見る。結婚式で起こったことを二つも言い当てられたことで、ジンはこの男を信頼しつつあった。

「適度な距離を保ちつつ、近寄るところはぐいと近寄る。まあ細かいこと考えても無理だろ。お前、女性の扱い方なんてまるで知らないもんな」

「恋人がいたことぐらいある」

「子供の頃にな。カウントに入んねーよ」

「けど、安心したよ」

 ジンが言う。

「これじゃどう転んでも結婚して子供が二人なんてザマにはなりそうにはない」

「……まあ、そうだな」

 未来のジンは、どうしてかそこは否定しなかった。

「……なあ。この先、俺はどうなるんだ? 生き延びたってことは、逆さバベルの塔とやらは発動せずに終わるのか」

「ノーコメント、だな」

「闘争心が失われたなら、未来の俺がわざわざ過去に戻る方法を探すわけがない」

「こうも考えられるぞ。遺跡の中にいる人間にだけは逆さバベルの効果はなかった、と」

「……結局、何も答える気はなし、か。いよいよ、何をしに来たんだ、お前」

「……まあ、お前を冷やかしに来たってのも理由の一つだがな。初々しいマリが楽しそうにしてるのを見るのも、まあ悪くない」

「そんなくだらんことの為に魔方陣を探し当てて過去に潜るかね」

 未来のジンは、黙り込む。

「あんたは何かをしに来た。それだけは確かだ」

「……結婚生活も、俺の目的も、あんま急ぐな。急いでも、良いことはない」


 二人で夕食を終えると、ジンが皿を洗い始めた。

「料理を作ったのがマリなら、皿を洗うのは俺だ」

 とのことだ。

 役割分担のつもりらしい。

 彼の背中を見ながら、マリはぼんやりと考える。本当に夫婦みたいだな、と。

 そう考えると、マリはなんだかくすぐったいような気持ちに襲われる。

 くすぐったすぎて、逃げたくなりそうだ。

 皿を洗い終えて、ジンはマリの向かいに座った。

 二人の間に、沈黙が漂う。

 話の種が、なかった。

 元々、お互い四六時中顔を突き合わせて会話をするような関係でもなかったのだ。

 必要があれば会話をする。そうでなければ各々のことをする。それが、今では何か一緒にしなければならないという強迫観念に襲われている。かと言って、都合の良い話の種はどこからも転がってこない。

 二人の間に、沈黙は漂い続ける。

「トランプでもするか」

 ふいに、ジンが言った。

「素早さを競うゲームでも、記憶力を競うゲームでも、呪法解放しない限り師匠が勝ちますよ」

「ジン、だ」

「はい、ジン」

 マリはなんだか照れ臭くなって、俯いてしまう。

「なら、運を競えば良かろう」

 そう言って、ジンはトランプを配り始めた。

「なんか、変な感じですね」

 トランプを五枚受け取って、その中身を見ながらマリが言う。

「なにがだ?」

「夜にししょ……ジンと二人っきりで遊んでるなんて。ジンは良く、飲みに出かけてたじゃないですか。すぐに寝ちゃったり」

「可愛い嫁さんがいるからな。夜遊びは程々にすることにしたんだ」

 マリは心の中がもやもやとするのを感じた。

 それは結婚式の時に生まれ、徐々にマリの中で大きくなって行く。

 その感情の正体が照れだと言うことに、マリは気付きつつあった。

「明日は用事があるか?」

 ジンがカードを交換しながら問う。

「いえ、特に」

「じゃあ、二人で海でも眺めに行かないか」

「……二人で行動するの、なんか照れ臭いです」

「慣れろ。一応この町じゃ、俺達は夫婦だからな」

「からかわれそう」

「良いんじゃないか、別に。俺達は俺達で幸せにやってれば良い」

「幸せ、なんでしょうかねえ」

「俺は幸せだよ。可愛い嫁さんがいるからな」

 マリの中で、照れが膨れ上がる。それは、今にも爆発しそうだった。

 照れは、平常心を奪う。

 話の種にも乏しく、一緒にいて落ち着かない今の師といるのは、マリにとって苦痛とも言えた。

「師匠、そういうの、やめてくれませんか」

「そういうのって、どんなのだよ」

「幸せそうに、可愛い嫁さんがいるって。嘘の結婚なんですよ。結婚ごっこなんですよ」

「ごっこならごっこで真剣にやろうな」

 そう言って、ジンは五枚のトランプを場に伏せる。

「コール」

「降ります」

「役無しだがな」

「あ、しまった……」

「お前らしくないぞ。ゲームに集中してねーな」

「と、言われましても……」

 マリの頭の中は、まるで台風に荒らされているかのように思考がまとまらなかった。

 沈黙が二人の間に漂う。

「んじゃ、やることもないし、寝るか」

 ジンが言う。

「は、はい」

 マリが身を竦める。

「この家、ベッド二つ並んでるんだよな」

「初めからその気だったんですね……?」

 マリが疑わしげにジンを見る。

「手出しはしねえよ。ごっこだ、ごっこ」

 マリは胸を撫で下ろす。初夜だと意気込まれていたら、全身全霊をかけて逃げていたところだ。

「けど、並んで寝るぐらいは問題あるまい」

「あーりーまーすー」

「何言ってんだ、お前。今までだって旅の道中で傍で寝起きしてたろ」

 呆れたようにジンが言う。

 言われて見れば、確かにそうだった。けれども、改めて傍で寝ると言われると、なんだか胸のもやもやが大きくなるのを感じるのだ。

「良いから一緒に寝るぞ。俺が護衛として起きててやるから、お前は安心して寝ろ」

「その代わり、師匠の睡眠時間は私が守ります」

「……ジン、だ。いい加減にしないと説教するぞ」

「はい、ジン」

 今のは、少しだけいつものやり取りのようだった。マリは少しだけ、安堵感を覚えた。


「新婚さんだってのに、一緒にいなくて良いんですか?」

 翌日の昼、一緒に町を歩いていたハクアがそんなことを訊ねた。

 マリは、苦笑顔でそれに答える。

「あんまり一緒にいると、息が詰まりそうって言うか。なんか、いつもと雰囲気が違うって言うか」

「雰囲気が違う、って言うと?」

「師匠ったら、人のことを可愛い嫁さんだとか、良い嫁がいて幸せだとか、やたら言うんだよね。逃げたくなるんだよ。それに、会話しなければいけない状況で四六時中一緒にいたことなんてないから、話の種なんてすぐに尽きちゃうしさ」

「ぶっきらぼうなようで、愛情表現豊かな人だったわけだ。まあ、けど、態度も変わりますよ」

「そうかな?」

「今までは弟子で、今は奥さんでしょう? 結婚ごっこをするなら、態度も改めますよね」

「……そこまでごっこに真剣になられても私は困るよ」

「マリさんも承諾済みで結婚したのでは? 結婚って、結構大ごとですよ」

「いつも通りの関係でいられると思ってたんだよ。なんかあんまりにも優しくて、一緒にいる時間も長くなって、戸惑うって言うか」

「大事にされてるんですよ」

 苦笑交じりに、ハクアが言う。

「そっかー。これが大事にされてるって奴かー……。いかに今まで大事にされてこなかったかだよね」

「弟子との距離感と奥さんとの距離感はやっぱり違うでしょう。まあしかし、今回の件はジンらしからぬ態度と言って良いでしょうね」

「らしくない、よね」

「それほど、マリさんがぐっさぐさ刺されたのがショックだったんでしょうね」

 マリは黙り込む。

 ジンにジンらしからぬ態度を取らせてしまうほどに、ジンの中でマリの存在は大きくなっているのだろう。

 そんなジンを愛しく思うマリもいるが、同時に、困ると思うマリもいる。

 マリはいつでも死ぬ覚悟はできている。生きることで師に呪いという枷を背負わせているのだから、生きていて申し訳ないと思っているほどだ。

 だから、ジンにも、いつでもマリが死ぬ覚悟を持っていてもらわなければ、困るのだった。


 マリが家に帰ると、夕刻だった。

 ジンはマリの手を取ると、外を歩き始めた。

 手を繋いで歩いている。その事実が、マリを落ち着かなくさせる。

 今までだって、戦地で手に手を取って駆けたことはあったはずだ。やっていることは同じなのに、味わう感情はまるで違っている。

 海に辿り着くころには、少し空は薄暗くなっていた。

 二人は、その場に座り込む。

「夕焼けの空と海の組み合わせは見られなかったな」

 やや残念そうにジンは言う。

「なんでいきなり夕焼け空を?」

「なんとなくだよ。なんとなく、綺麗なものをマリと見たくなった」

 マリは照れ臭くなってしまう。

 この男は一体誰だろう、とマリは思う。

 綺麗なものなんてどうでも良い、面倒臭いからそんなものの為に外出などしたくない。それがジンという男のはずだった。

 それが、マリと綺麗なものを見たいと言うだけの為に家から海まで歩いたのだという。

「帰るか」

 立ち上がるジンに引き上げられ、マリは立ち上がる。

 そして、再び手を繋いで歩き出した。

「最近、口数が少ないな」

 ジンが、悪戯っぽく笑って言う。

「ししょ……ジンが、柄にも無いことをやっているからです」

 マリは、苦笑してそう言うしかない。

「柄にも無いことをやろうってお誘いだったじゃねえか。お前もいい加減吹っ切れよなー」

「それもそうなんですけど……それに、何の目的もなしに、二人きりで四六時中一緒にいるなんて今までなかったじゃないですか。次の目的地へ向って旅をしているとか、敵を襲撃する計画を立てているとかならともかく。話題も尽きて枯れ果てますよ。昔の師匠の嫌味、あれで結構会話持ってた部分があるのかなあ」

「お前、口煩い俺のが好きなの?」

 ジンは、興味深げにマリを覗き込んでくる。

 この人はこんな状況でもこんな優しい表情ができるのだな、とマリは感心してしまった。

「……そっちのが、慣れてはいます」

「以前のままじゃ家庭崩壊しちまいそうだな。俺は家庭崩壊は嫌だぞ」

 ジンは、冗談めかして言う。

 彼は、あくまでも結婚ごっこを崩さないつもりらしかった。

「それに、俺が黙ってても勝手に喋ってるのがお前だと思っていたがな。意識しすぎじゃないのか」

 ジンの言い分にも一理ある。そして、彼は助け船を出すように話を振ってきた。

「今日は、ハクアと一緒にいたのか?」

「はい」

「何してた?」

「シズクさんの家で、最近調理を習ってたんですけどね。最近はシズクさんはハクアさんの神術に付きっ切りで、私は二人の昼食係みたいになっちゃってて。料理の腕を上げたいものですね」

「向上心のある奴だな。俺は未だに焼くぐらいしかできん」

「斬りもしませんからねえ、ジンは」

 おや、とマリは思った。

 昨日と違って、会話が続く。微笑みながら、話し続けることができる。

 たまに、師の言葉に照れ臭さを感じることもあるが、会話のネタを探しに苦心する必要もない。

 そう言えば、昨日は師と長時間一緒に行動していたが、今日は師と別行動をしていた。

 それは、話の種も出てくると言うものだ。

 なるほど、結婚ごっこには適度な距離感も必要なのだ、とマリは実感した。

 その日のマリは、比較的普段と変わらぬ状態でジンと会話することが出来た。

 師にする一日の報告は、楽しかった。繋いでいる手も、照れ臭かったが我慢できた。

 マリは自分の中で、いかに師の存在が大きくなっているかを思い知った。

 そう言えば、これまでの数年、師のおかげで話し相手に困ったことはなかったのだ。 師だって、それは同じなのかもしれない。

(互いに、失いたくないよね……?)

 マリは、心の中でジンに訊ねていた。答えは、必要としていなかった。マリの決意は、既に固まっているからだ。

(ごめんね)

 罪悪感が、胸に沸いて、照れをその色に染め替えてしまった。

 照れてばかりではなく、もう少し結婚ごっこに協力してあげよう。マリは、そんなことを思った。


「明日からは昼は別行動しましょう」

 マリの提案に、ジンは苦い顔をした。

 場所は、二人の家の居間だ。

「結婚してる意味なくないか?」

「けど、四六時中一緒にいたら話題が尽きちゃいますよう。私達、元々別行動してる時間が長かったじゃないですか」

「新婚夫婦はなんの話題がなくても四六時中話してそうなイメージだけどな」

「それでも、旦那は働く時間は外に出ているものですよ。そうして、夜にお互いの一日を報告しあうんです。そうすれば、話の種も尽きないでしょう」

「それもそうか」

 ジンも納得したように頷く。

「昼時ならソウフウ隊も町を見回っているから、問題ないかなあ」

 ジンは、自分の言い聞かせるように言う。

「それに、新婚夫婦には会話にできる将来があるけれど、私達には話すべき先なんてありませんから」

 マリは、淡々と言う。

 それは、自分の意思は覆らないという宣言のようなものだった。

 ジンは、苦いものでも飲み込んだような顔で、中空に視線を向けた。

 それは苦い顔にもなるだろう。お前のやっていることは無駄だと、言外に言われているようなものだ。

 マリもそれを無意識のうちに行なっていたのだろう。全てに気がついたのか、少し気まずげな表情になった。

 そのうかつさがマリらしい、とジンは苦笑いでも浮かべたい気分になる。

「寝ましょうか、ジン」

「……おう」

 複雑な感情を抱えながら、ジンは頷いた。

 二人で並んだベッドに入り込む。

 ジンは横になって、マリは座り込んだ。

「今日はお前が先に起きてるのか?」

 ジンの問いに、マリは優しく微笑んで頷く。

 二人の枕元には、鞘に収まった剣がある。

 マリは座ると、自分の膝を軽く二回叩いた。

「膝枕、してみましょうか」

「きっと寝辛いよ」

 ジンは苦笑顔で言う。

「けど、やってみましょうよ。結婚ごっこなんでしょう?」

 おや、とジンは思った。今まで受け身だったマリが、結婚ごっこに乗り気になっている。

 普通に話せるようになって、緊張が解けて、余裕が出てきたのかもしれない。

「……そうだな。やってみるか」

 ジンは、マリの膝に頭をのせた。

 その頭を、マリが優しく撫でる。

 ジンはゆっくりと、目を閉じた。

「新婚夫婦って、どんな会話をするんでしょうね、師匠」

「師匠って言うのはやめろって言った」

「背伸びするの、やめましょうよ。ぎこちなくなる。ねえ、どんな会話をするんでしょう」

 ジンは渋々、師匠呼びを許容することにした。

「そうだな。どっちが家の財布を握るかとか、料理の味の感想だとか」

「今日の料理はどうでした?」

「塩加減が丁度良かった」

「良かった。後は子供ができたらどうしよう、とかも話すんでしょうね」

 マリは遠い目をして言う。

 ジンは一瞬、返事に戸惑った。が、すぐに苦笑して、言葉を紡いだ。

「お前の子供だからな。どうせお転婆になるのは目に見えてる」

「私、村にいた時代は大人の言うことを良く聞くお嬢さんで通ってたんですけどね?」

「本当かー?」

「本当ですよー。師匠の子供だから、目つき悪くならなければ良いけど」

「どうせお前は美形だよ。否定しません。可愛い嫁さんがいて目つきの悪い俺は幸せです」

「あー、すねないでくださいよう」

「すねてないよ。本音だ。子供でも産まれたら、さしものお前も師匠呼びはやめるのかね」

「パパ派とお父さん派が世の中にはいますよね。子供も影響受けて同じ呼び方をするようになるって言います」

「うちはお父さん、だったかなあ」

「私はパパ、でしたね」

「まあ、呼びたいように呼べば良いだろう」

「師匠って呼ばれてたりして」

「それはやめてくれ」

 思わず苦笑してしまうジンだった。

「魔術の才に恵まれるんでしょうかね」

「俺の代で絶えても良いんだけどな。分派のうちより本流のリッカさんがえげつない魔術使ってたし」

「ああ、あれは一瞬でしたものねえ」

 無益な会話だ、とジンは思う。

 ジンはマリと本気で結婚なんかしない。子供なんか産まれない。

 マリはこの町に留まり続ける。危険の中に身を置き続ける。

 それは、ジンも一緒だ。

 けれども、二人で話す未来は、皮肉なことに幸せに満ちていた。

 その言葉で、少しでもマリの気持ちが遺跡の外に向けられたなら、とジンは願わずにいられない。

 だが、前もってマリは言っていたのだ。新婚夫婦ならする将来の話は、自分達には必要がないと。

 ただ結婚ごっこを形にするためだけに、その必要のない話を二人はあえてしている。

 馬鹿げた話だった。

 ふと、思い出す。あの男は、ジンとマリが将来結婚すると語っていなかっただろうか、と。

 それも、今は悪くないと思えるジンだった。

 しかし、ならば、あの男は何をする為に過去に降り立ったのだろう。その理由は、未だ謎に包まれている。


 ぎこちない始まりだった二人の夫婦生活だったが、軌道に乗り始めると後はとんとん拍子だった。

 家の中でも役割分担もいつの間にか決まり、それぞれが家の維持の為に掃除や洗濯を行なっている。

 昼間はそれぞれ別の友達と遊び、夜になると二人でどんなことがあったかを語り合う。

 そして、寝る時はいつもくっついて寝た。

 膝枕をして寝る事もあれば、背後から相手を抱きしめて寝ることもあった。

 夫婦という器の中にいることに、二人は慣れ始めていた。

「なんか、カップルみたいですね、私達」

 後ろから抱きしめられながら、マリが言う。

 最近のマリは、照れが良い方向に働いているようで、随分結婚ごっこに乗り気だ。

「……一応今はカップルだからな」

 抱きしめながら、ジンが言う。

 そんな日常が、続いた。

 ある日、マリがいつもより遅く帰ってきた日のことだ。

 ジンが、マリの手を取って外を歩き始めた。

「どうしたんです? 師匠」

 戸惑いながらも、マリは歩く。

「たまには良いかなと思ってな」

 ジンは、弾むような口調でそう言う。

 マリには、何を意図して彼がそう言っているのか理解できない。

 そして二人は、海岸に辿り着いていた。

 満月が、夜空に輝いていた。涼やかな風が吹き、波の音が周囲に響いていた。

「綺麗な、月ですねえ」

 ジンの手を掴むマリの手に、力がこもった。

「良い月だろう? 今日は見ごろだと思っていたんだ」

 ジンはマリの手を引きながら、夜の海岸を歩いていく。海の涼やかな空気は、散歩にはよく合った。

「……平和なのも、良いものですね、師匠」

 呟くように、マリは言った。

 その一言を引き出せただけでも良かったと、ジンは思った。

 マリの中で、何かが変わりつつあるのではないか。そんな期待を、ジンは抱かずにはいられない。

「違う出会い方をしていれば良かった」

 呟くように、マリは言う。

「私は普通の村娘で、師匠も普通の村の男。海辺に村があって、満月の夜は二人でこうやって一緒に歩く。それってきっと、幸せでしたよね」

「……今も、幸せだろ」

 二人でこの生活を続けよう。ジンは、その一言が言えなかった。

 それを言って否定された時、二人の結婚ごっこは意味をなさなくなる。機能不全になって自然消滅してしまうのだ。

「ねえ、師匠」

「なんだ?」

「ジンって呼んで、良いですか」

 マリの中で何かが変わりつつあるのを、ジンは感じていた。

「良いぞ」

 淡々と、ジンは返した。


 タイムリミットは、無情にもすぐにやってきた。

 遺跡に再び入る日は、刻一刻と近付いてきている。

 明日にでも、二人は遺跡に入る準備をし始めなければならないだろう。

 二人は、ベッドの中にいた。

 ジンはマリを背後から抱きしめている。

「マリー」

「なんですかー」

「今日は暑いな」

「そうですねえ。どうしたんでしょうね」

「手、離すか?」

「……もうちょっと、このままで」

 マリは照れ臭げに、そう言った。

「なら、俺もそれで良い」

 ジンは、淡々と言った。

 マリの決意を揺るがすような、決定打となる言葉が、出てこない。

 穏やかに時間だけが過ぎていく。

 これでは、なんのために自分達は茶番をしているのかわからない。

「毎日、楽しいですよ、ジン」

 マリが、慰めるように言う。

「そうか」

 ジンは、上手く返すことができない。

 ずっとこの生活を続けよう。否定されるのに怯えて、ただそれだけの言葉が、口にできない。

「未練に、なりそうです」

 呟くように、マリが言う。

 その一言で、ジンの中の、歯止めが壊れた。

「一緒に、逃げようか」

 それまで、意図的に避けていた話題を、ジンはあえて口に出した。

 マリの体が、硬直したのがわかった。

 タイムリミットは、日が明けるまで。

 時間は、もうなかった。

「逆さバベルの対策なんて、国に任せちまってさ。セツナさんでも、先生でも、強い人ならいくらでもいる。お前が、危険に身を晒す必要なんてないんだ」

 マリが返事をするまで、しばしの間があった。

「故郷になら土地だってある。領地だって良い。お前がその場所で待っててくれるだけで、俺は良いんだ」

「……ごめんなさい」

 マリは、小さく呟くように言った。

 その体が、小刻みに震えているのがジンにはわかった。

 泣いているのかもしれなかった。

「私の村は亡ぼされた。その皆の無念を私は背負っている。無念は、晴らしてあげなくちゃならない」

 決意の、篭った声だった。

 結局その決意は覆せなかったか。ジンは自分の無力さに、溜息を吐きたくなった。

「ジンこそ、逃げてください」

 マリは、そう言葉を続けた。

「こんな危険な場所にいる必要、ジンにはないはずです。全ては、私が身に受けた呪いが原因なんだから。貴方だけでも、生き延びて欲しい」

「馬鹿げた話しだな。互いが互いに逃げることを望んでる」

 ジンは、呆れたように言うしかない。

「俺だって、逃げられねえよ。世界中を洗脳する呪いの散布も、遺跡に眠ってるかも知れない泉も、放置してはおけない」

「一緒に逃げようって言った癖に」

 マリは、苦笑いを顔に浮かべる。

「同じタイミングで逃げようとは言ってないよ。本当、馬鹿な話しだ。どっちかが欠けても、俺達には……」

 ジンは、その先の言葉を言い淀んだ。素直な気持ちを口にすることに躊躇いがあったのだ。

 けれども、今ならば、それを口にできる気がした。

「大打撃だってのにな」

 ジンは、マリの体から腕から放した。

 二人とも、避けていた話題を表に出してしまったせいで、結婚ごっこの魔法が解けていた。

 そこにいるのは、夫婦ではない。ただ互いを町から追い出したい二人の男女だ。

「ジン……」

 マリが、ジンの腕を掴む。

「離さないで」

 マリの声は、掠れていた。

「俺達が見てた夢なら、今二人で一緒にとどめを刺しちまっただろう。結婚ごっこは終わった。俺達はただ、相手を町から追い出したいが為に茶番を演じた偽装夫婦だった」

 ジンはそう言いながらも、マリの体を抱きしめなおした。

「最後の一晩で良い。遺跡に入る準備をしなきゃいけない明日までで良い」

 マリはジンに振り向いて、その唇に、唇を重ねた。

「一緒に、夢を見ましょ。ジン」

 そう言って、マリはジンの胸に顔をうずめた。

 そんなマリを、ジンはただ抱きしめていた。


 翌朝、ジンが目を覚ますと、既に剣士隊の服に着替えて立ち上がっているマリがいた。

 どうやら、ジンの寝顔を眺めていたらしい。

「よう、マリ」

「はい、師匠。おはようございます」

 マリは、どこか切なげに微笑んで挨拶をした。

「……なんか、長い夢でも見てた気分だったな。もう遺跡に入る日が近いのか」

 ジンが、ぼやくように言う。

「良い、夢でした」

 マリが、俯いて、呟くように言う。

「覚めるには、惜しいほどの」

「そうだな」

 ジンも苦笑して、そう返す。

「師匠。覚悟を決めましょう」

 マリは、宣言するように言った。

「私が死んでも、師匠は動揺しない。同様に、師匠が死んでも、私は動揺しません。私達の結論は、お互いに逃げない、ということでしたからね」

(……ああ。修羅の道を、行くんだな)

 ジンは心の中だけでそう呟いて、ただ頷いた。その小さな動作だけで、十分だと思ったのだ。

 結婚ごっこで、マリの決意を翻させることはできなかった。むしろ、彼女は現世への未練に決着をつけて、より強い決意を胸に宿したともいえる。

「先に宿舎に行っています。用事があったら声をかけてください」

 そう言ったマリは、もうジンの嫁のエリィではなく、弟子のマリへと変わっている。

「おう」

 後に残されたジンは、一人でしばらくぼんやりとしていた。

 自分は何かを果たせたのだろうか。何も変えられなかったという無力感だけが残っている。ただ、二人で過ごした時間は、無駄ではなかったという実感もあった。

「未練に、なりそうです」

 そう、マリは言った。

 未練になっているのは自分だ。自嘲するように、ジンはそう思う。

 いつの間にか、結婚ごっこにはまっていた自分を、ジンは否定できない。

「よう」

 部屋の扉の前に、いつの間にか未来のジンが立っていた。

「まだ昨日の夜の余韻を引きずってるんじゃねーの」

 からかうように、未来のジンは言う。

「馬鹿言え」

 ジンは、頬が熱くなるのを感じた。この男にかかれば、全て見通されているのはわかっている。何せ、この男はジンと同じ道を歩んだのだから。

「おめでとさんな。昨日の夜の結果、来年お前らの間に子供産まれるから」

「はっ!?」

 ジンは思わず大声を出した。

 それを見て、未来のジンは愉快げに笑う。

「嘘嘘。生まれっこないって。そもそも、マリが死ぬんだからな」

「……はっ!?」

「マリもそれを覚悟してたんだろうな。今ならわかるよ」

「待てよ。俺とマリは結婚して子供が二人って」

「ありゃー嘘だ。これからうきうき結婚ごっこをする二人に、不吉な未来を予言することもできんかろう?」

 男は窓の外に視線を向けて皮肉っぽく笑う。

 その表情を見て、この男は自分自身なのだなと改めてジンは実感する。

「俺は、マリが死ぬ未来を回避するためにやってきた。俺達も随分上手く行ったケースだと思うんだがな。それでも、マリは死んだ。上手く行かなかったケースも山ほどあるだろう。その中で一番上手く行ったケースだと思っている。それでもマリは死んだんだ」

 ジンは、自分の手が汗で湿っていることに気がついた。

 まるで、悪い夢でも見ているかのような気分だった。

 未来の自分が、これから起こる出来事を知っているもう一人の自分が、マリの死を予告した。

「ちょっと、手を出せよ」

 ジンは、言われるがままに手を差し出す。

 その手を眺めると、未来のジンは自らの手を乗せて、不可思議な言語で喋り始めた。

 黄金色の何かが、未来のジンから抜き出て、ジンの体に入っていくのが感じられた。

「それは、奏者の証だ。昔の俺は、自分の中にそれがあると知らなかった。知らなかったから、不覚を取った。それを予め持っているお前ならば、不覚も取らないだろう」

「待てよ。だから、何が起こるか話して行けよ」

「だから、俺が話すことでお前がやったはずのことをやらなくなるかもしれない可能性が出てくると言っただろう。あの戦闘は勝てると言ったら気を抜いて負けるかもしれん。未来のことは極力知らないほうが良い」

 未来のジンの瞳が、冷たく細められる。

「お前、わかってるのかね。俺が存在していても、お前が些細な油断で分岐を誤れば死ぬんだぞ? 精々、必死に生きることだ。二人とも死んで生存者が残らない、なんてオチは避けてくれ」

「……この奏者の証とやらで、マリは救えるのか?」

「五分五分、だな」

 未来のジンは、窓の外に視線を向けて、呟くように言った。

「ただ、それでマリに過保護になるような真似はやめておけよな。あいつは立派な戦力だ。立派な、お前の弟子だよ。じゃあ、俺は未来に戻る」

 そう言って、未来のジンは、部屋を去って行った。

「おい、まだ、聞きたいことが」

 そう言って追いかけた時、彼の姿は何処にも見えなくなっていた。まるで、初めからそこには誰もいなかったかのように。


 船に五人の剣士が乗り合わせる。

 ハクア、クロウ、マリ、ジン、そしてセツナの五人だ。

「今回は楽ができそうだな」

 セツナが上機嫌で言う。

「まあ、お互いメンツに穴が開いてたから、丁度良かったですね」

 ジンの言葉に、セツナは頷く。

「逆さバベルの一件も上に知れて、協力が楽になったしな。しかし、注意することだ。どういうわけか、今回は帰るのが遅い組が多いらしい」

「帰るのが、遅い?」

「中で死んでるんだよ」

 投げやりに、セツナは言う。

「宿舎を襲った連中の仕業でしょうか」

 マリが、会話に入ってくる。何本もの剣を背負った彼女は、素早さを重視するために鎧を着ないというこの遺跡における基本方針をある意味無視していた。

「魔物が強化されたのかもわからん。逃げる準備はしておくことだ。新婚で死にたくはないだろう、お二人さん」

 セツナが揶揄するように言う。

「死ぬ覚悟なら、当の昔にできています」

 マリが、微笑顔を崩さずに言う。

 それを見て、セツナは一瞬真顔になったが、すぐに微笑み顔に戻った。

「逆さバベルの塔、か。怪しい洗脳装置の魔方陣を崩せば、敵も消えるだろうが、この遺跡はどこまで底があるやらな」

 島が近付いてくる。

 様々なものを内包した島が、近付いてくる。

「私が死んでも、師匠は動揺しない。同様に、師匠が死んでも、私は動揺しません。」

 マリの言葉を、ジンは思い出す。

 そして、それを自分に言い聞かせるように、目を瞑って頭の中で反芻した。

次回

最初のさよなら

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