7.最果ての……
彼と共に外をあれこれと見て回ると、やがて正午になったことを知らせる鐘が鳴った。
「腹が減った。ルーナがいると、身体に生活のリズムがしっかり戻ってくるな。一人のときは空腹も特に感じず、食事の時間も定まらなかったが。
ああ、そうだ、どこか庭園に食事を運ばせないか?」
天気が良いし、風も気持ちいいので提案に頷く。現実に引き戻されるとラナのお腹も、じきに鳴りそうな具合だ。
だが道を戻ろうとしたとき、若い貴族に出くわした。
「閣下」
「ちっ。もう呼び出しの時間か。——————分かった。じきに行く」
「かしこまりました。先に戻って、お待ちしております」
貴族の男がそそくさと去ってしまうと、レヴェッロートはこちらを向いた。
「俺は残念ながら用事だ。口惜しいが、昼食は一緒に出来そうにない。ルーナは俺がいなくても構わないだろうが……。
それと午後のことだが退屈だろうから、以前のように図書室を利用しても構わない。……場所は覚えているか?」
「……いいえ、知りません」
「ならば案内だけしよう。いや、させて欲しい。少しでも長くいさせてくれ」
図書室は、食堂とは反対側の端にあった。レヴェッロートが上着のポケットから、鍵を取り出して開錠する。
「ここだ。この鍵は渡しておく。失くすなよ」
含み笑いで、釘を刺される。
「失くしませんよ!」
「冗談だ。まあ失くしても、また作るから構わない。済まんな、からかってみたかった。
それより、少し中を見よう」
同時に鍵も渡される。小さなサファイアがはめられた繊細な細工の金の鍵で、まるで観賞品のようだ。ラナは、長い金鎖が付いていたので首から掛けた。
そうする間にレヴェッロートがうち開きの扉を押すと、棚がずらりと並んでいるのが見えた。言わずもがな、初めて見る見事さだ。彼女は驚いてしまったこともあり、部屋には入らずに遠巻きで眺める。
「魔術の掛かった禁書には、くれぐれも気を付けろ。何年も前に注意したが、そのときルーナは派手にやらかしてくれただろう。もうお前の起こす騒動に巻き込まれるのは、勘弁願いたい。本当にお前は普段おとなしいくせに、鬱憤をためて爆発させる女だから困る。
今度こそは大丈夫だと信じたいのが、信用していいな?」
レヴェッロートにここまで言わしめる母は——————、一体どんな人物だったのだろうと思う。よほどの危険人物だったに違いない。
「ははは……」
ラナは乾いた笑いを浮かべ、はたと自分の胸に手を当ててみる。……自分も大して、若い頃の母と大差ないのではと思う。ちょっと、がっくりとした気持ちになった。
レヴェッロートが行ってしまうと、食堂に行ってサンドウィッチの昼食を戴く。ハムに卵、チキン、デザート的なブルーベリージャムなど、目にも彩どり豊かで味も美味しい。
ふと、ラナはレヴェッロートのことを考えた。彼は今頃、自室で何をしているのだろう。書類を見ながら、片手で同じサンドウィッチをつまんでいるのかもしれない。
同じ屋敷で同じ物を食べているのに、一人は自室。この距離感は……、と考えてしまったところで、はっとする。
「距離があるからって、何だっていうのよ。あいつが目の前にいない時間も大事よ。ほっとする時間もないと、息が詰まるわ。
あー、パンが美味しい」
食堂は建物の作りのせいか、よく声が響いた。
食事を済ませた足で、彼女は早速、図書室に向かうことにする。内容の質が良い本は高価で貴重な為、あの蔵書数は考えるだけでも魅力的だった。
しかし実際のところ、ラナは特別に読書が好きというわけではない。普段だったら、一日中ずっと図書室だなんて無理だ。今は知りたいことがある非常事態だから、頑張ろうと思うだけだ。現状の打開策のヒントもどこかに記載がある可能性が、捨てきれないのだ。
急いで廊下を抜けると、鍵を使って中に入る。並べられた本の背表紙をゆっくり目で追いながら、奥へと向かった。内容の分野は歴史から商業まで多岐に渡っていたが、すぐに読みたい魔術関連の大棚を見つけると、やっと足を止める。
付いてきたヴェルデは、さっさと難しそうな魔術の書を選んで窓辺へ行ってしまった。そういうときは、邪魔をしないのがお互いのルールだ。
ラナは改めて棚全体を見渡し、本のタイトルを読み取っていく。『初歩魔術』・『応用魔術』・『魔術の成り立ち』、云々。
こんな事態でなければ他に読みたい物もあったが、今はそれどころではない。結局、『応用魔術』と『魔術の種類と精霊の系統』の二冊が、目次を見たところ、自分の目的に沿っているような気がした。これらを抱えて、席に着く。
どちらの本も結構重いので、内容はぎっしり詰まっていそうだった。この図書室のどこかに探している答えが必ずある筈というより、これらの本の中に書かれているのではという思い込みが早計だと彼女は知らない。
自身の期待と、状況に急き立てられて、ラナはまず『応用魔術』の頁を捲った。
……六行を読み終えてなお、ちんぷんかんぷんだった。何の意図を持って、何を筆者が言わんとしているのか分からない。頭の中に疑問符を浮かべたまま読んだ。
序章には、どうやら本を執筆した動機や、内容のまとめが書かれているらしいのだが、それらはラナが必要としている事柄とは違う方向性を示していた。
それでも、まだその書に固執して、全ての頁をぱらぱら捲りながら単語だけ拾う。そして、彼女は無言のまま本を閉じた。
この本は違う。後で片付けよう。と、ようやく諦める。
次に仕方なく、気になって持ってきた『魔術の種類~』に手を伸ばす。本当だったら、基礎がしっかり出来ていない上に知識を重ねることは危険だ。でも今は場合が場合だからと、自分を誤魔化して読み始めた。
この書も、すごく難しい内容を取り扱ってはいたが、おぼろげに言いたいことは掴めた気がした。言葉遣いと構成が、非常に丁寧なのだ。冒頭の起章で、今のところ実在するとされる精霊の属性が全て挙られている。その中に、森の精霊についての項目もあり、そちらにも興味を惹かれたが流して読む。時間が惜しかった。
集中して書に見入っていたら、随分時間が経ってしまったのではないかということにラナは気が付く。慌てて、茜色の光が差し込む窓の方を見やった。四時位だといいなと思いながら、時を推し量る。
窓の隣に立つ、黒い影に視線がいったのは、そのときだった。
「ヴェ…………」
言いよどんだ。ヴェルデじゃない、と気が付いたからではない。彼女でなければいい、と本能で強く願ったからだった。
それほど、その男は底知れなく深い闇の目をしているように感じた。ラナを見て微笑む唇とは対照的に、陰になっている瞳が冷たい気がした。
「もう少し、このままでも良かったのに。俺は君を、君は書を見ている構図が良かった」
彼の顔は、逆光で未だ見えない。視界でぼんやり滲む服装から、貴族だろうというのは分かるのだが。
それより心配なのは、彼の足元で気を失っているらしいヴェルデだ。けれど心配なのに、ラナの足は……震えて動けない。
「誰……、誰なの? ヴェルデに何をしたのよ!」
口も思うように動かない。この感情は恐怖だと、じわじわと認識する。
「俺のこと? ああ、その位置じゃ見えないね。見れば、馬鹿でも分かるんじゃないかな。
ああ、大丈夫だよ。この精霊さんには、少し眠ってもらっているだけだ」
見れば判明すると言う。ならば、見てやろうと反抗心も沸く。だが反面、やはり怖い。近付きたくも、幽霊よりもっと恐ろしそうな正体を知りたくもない。
動けない彼女の為に彼は自分から、やって来た。ようやく、その相貌が見える。
黒い短髪に、緑の瞳。
その顔はどこかレヴェッロートに似ていて、ラナは親族の誰かだろうかと思いかけた。そうだったら、ずっと良い。
けれど次の瞬間には、口から答えが飛び出してきていた。
「貴方は、レヴェッロートと契約した精霊ね」
「正解。尤も、精霊の存在を身近に知っている君だから、外したら相当恥ずかしいかな」
笑いを絶やさないように見えるのに、彼が恐ろしいことに変わりはない。彼女は精一杯の強がりで、背筋を伸ばした。
「わざわざ接触してきて、私に何か言いたいことでもあるの?」
「特には無い。ただ挨拶だけは、しておこうと思って。親愛なるラナ殿の基本だろ?」
基本だなんて、いつ言ったと考えて——————、はっとした。
「朝に私がメイドさんといたとき、部屋を覗いていたの? 女性の部屋にこっそり侵入するなんて、マナー違反じゃないの。
って、着替えは見てないわよね!」
「そんな貧相な身体、興味ないよ。それに、精霊が、人間と同じように性欲を持っていると思われるのは心外だ。ほとんどの精霊は淡白な気質という認識を持ってもらいたい」
彼のポーカーフェイスは一端、なりを潜めた。同時に、返答も素っ気ない。言外にどうでもいいと言われていて、ラナは安心した。
「……じゃあ、なんで朝から〈覗いて〉たのよ」
「俺の名誉の為に敢えて言わせてもらう。君の貴重な下着姿は見ていないよ。
だから〈観察〉していたと言ってほしいね、俺の調査対象さん。主人に近付く者に警戒するのは、精霊の義務だとは思い至らないかい? 主人が異常に思慕する相手は、特にね」
直感だが、上手く言いくるめられている気がした。けれど、それをどう暴いたらいいのか分からない。頭では分かっているのに、身体が付いていかないような感覚で、もどかしい。けれど、聞かなければならないことは決まっている。
「質問の一個目。貴方は何の精霊なのよ?
二個目。貴方、精霊ってだけ言って、本名を明かしてないじゃない。名乗んなさいよ」
彼の顔に、嫌な笑みが戻ってきた。
「仕方ないな。気まぐれに、要望にお答えしようか。俺は最果ての精霊インテだよ」
最果て。不毛で広大な土地一帯を指す言葉だ。そんなにも広い領土を持つ精霊が、目の前に立っていることが不思議に思えるほどに。
「お嬢さん、最後に俺からの助言を聞いておくかい?
君がレヴェッロートとした、おかしな賭けについてだけど。早く諦めたほうがいいよ。覚えているだろうけど、彼の本性って怖いんだ。君も、いつ命を落とすことになるか分からないよ。君の両親みたいにね」
彼は早々に捨て台詞を残し、勝手に扉から出て行った。
「…………ヴェルデ!」
ようやく呪縛が解けたように彼女の身体が動き始め、大切な精霊に駆け寄る。
「大丈夫?」
「ん……」
精霊の瞳が薄く開き、こちらを見た。
「あいつに何をされたか、覚えている?」
「いえ。分かりません。不穏な気配を感じたのは一瞬で、その後は意識を失くしていました。油断していました」
ヴェルデほどの精霊が油断していたとはいえ、いとも簡単に横たわると思うとラナは————ぞっとした。
二人して黙り込んでいると、
「ラナ様。夕食のお時間でございますが」
と、ヴィオラの声が部屋の外から聞こえてきた。
「あ、はい。今、出ます」
緊張した気分を残しながら、本を戻して退出する。扉にしっかりと鍵を掛けて、終了。
「公爵様は公務の為にご一緒出来ないとのことです。食事は昼食と同じ、食堂にご用意させて宜しいでしょうか?」
「あ、いいえ。二人のときは余計に食堂が広すぎるので、良ければ、いつも部屋にしてもらえると嬉しいです」
「かしこまりました。では、そのように」
そして一緒に部屋に戻ったヴェルデは、その夜ほとんどラナと口を聞かなかった。
**
翌朝の食事はレヴェッロートの誘いに乗り、ラナは食堂に向かう。
彼女の姿を見ると、彼は微笑んだ。彼の美麗さは、朝からラナの心臓に負担を掛ける。
「今日も、そのネックレスをしたのか」
ラナは昨日と同じ、レヴェッロートが手配してくれたネックレスを身に付けていた。つい、彼女がはにかむ様な笑いを浮かべると、彼も同じように微笑んだ。
「選んだ甲斐がある」
そう言う彼の笑顔を見ると、こんなに彼が喜んでくれるなら、なるべく常時これだけは付けていようと思った。
「さすがに図書室は懐かしかったのだな。相当長く篭もっていたと聞いたぞ。食事だけはメイドに厳命しておいたから、しっかり摂ったようで安心した。
……昔は、禁書があるから危険だと、お前の立ち入りは認めていなかったが。ルーナは、よく勝手に侵入して昼寝までしていたな。それにお前がヴェルデとの契約方法を知ったのも、この部屋の書を読んでのことだったろう。ちゃんと覚えている。あのときは、相当肝を冷やした。
で、最近俺が加えていく物は魔術書が多いから、昨日も楽しめたのだろう? ついでに、逃亡に使う魔術は見つけられたか?」
最後の一言は、笑いを消した鋭い目線と共に投げかけられる。最初から信じられておらず、疑われていたのだ。これには、かちんときた。人の気持ちも知らないで、と。
「誓って、逃げる気だけはないわ。だって賭けが途中じゃない。私が勝つのだもの」
自信を持って、ラナは言った。
「……ならば、この賭けが永遠に終わらなければいいのにな」
答えたレヴェッロートは手元の皿に目を落とし、厚切りのハムをナイフで切り取った。重い空気が、部屋に漂う。ラナは話題を変えようと、決めた。
「そういえば、貴方の精霊に会ったわ」
「——————どこで?」
険しい表情になったレヴェッロートは急に食欲が失せたのか、ナイフとフォークを置いてしまった。
「昨日、図書室で。ずいぶん変な奴ね」
「向こうもお前に、それを言われたくはないだろうが……。いや、何でもない。
これだけは言っておく。インテは俺以上に残酷な性格だから、気を付けろ。あまり近付かないほうが賢明だ。だが、あからさまに避けると余計に興味を持たれる」
「複雑なのね、貴方と一緒で」
仕返しをして、ラナは心の憂さを少し晴らしたのだった。
今日もレヴェッロートは忙しいと分かり、食後にラナはここぞとばかりに図書室に行くことにする。昨日の続きを早く読みたかったのだ。
けれど、インテには会いたくない。ここに来ないといいな、と思う。というわけで、扉に内側から鍵を掛けたものの。果たして、これで侵入を阻止出来るかは疑問だ。
不安要素のことに悩んでいても埒が明かないので、気持ちを切り替える。まずは昨日の書を早く読み終わることが、彼女の目標とすべきことだった。
幸い邪魔は入らず、四苦八苦しながら書を読み、十分の一ほど進めた。過去に耳にしたことが多くて、いくつか疑問点はあったが、今のところすんなり行っている。
「この書を読了したら、次は何を読もうかな」
立ち上がりながら、一端また本を元の場所へ片付ける。そして、昼食の時間を知らせに来て扉の外で待つヴィオラの元へ向かった。