2.未踏の魔術
ラナは、ふわふわと浮いたような足取りで、森の小屋に帰った。
ビノーとローダには、回答は二日待ってくれと告げて、森から引き揚げてもらったばかり。
二日経ったら、組織に加入するか否か伝えなくてはならない。
ラナはヴェルデの眠る部屋の扉を見つめた。
明日ヴェルデが起きて、ラナの話を聞いたならば、どう反応するだろうか。ラナが組織に入るつもりだ、と言ったなら。
ラナの考えは安易です。今、森の外に出るのは危険です、私は反対です————と、諭してくるだろうか。
それでも。そう罵られたとしても、ラナ自身がビノー達と、その意志に惹かれているから仕方がない。
ヴェルデとビノーと、ローダの顔が今も、ラナの頭の中を支配している。
今宵はなかなか寝付けまいと思った。
**
太陽は、粗末な森の家にも平等に朝の祝福を贈ってくれる。
だがヴェルデはラナに対して易々と、寛容という名の祝福をくれる気はないらしい。
一通り昨日の顛末と、組織に所属したい意志を聞いたヴェルデは、窓辺の椅子で沈思黙考していた。こういうときのヴェルデに話し掛けない方がいいことは、ラナも経験上分かっている。
ということで、朝食の後片付けを終えてしまおうと決めた。家の外で、盥に水を注ぎ、そこでラナが最後の食器を洗い終えたところで、家の中に呼ばれた。ヴェルデの顔から、結論が出たことを察する。
「貴女が決めたなら、いいですよ」
テーブルを前にして向かい合って座ったところで、すぐに言われた。ずいぶんと呆気ない。
「……いいの?」
こうまで簡単だと、逆に訝しかった。
「私は迷っていました。貴女を森の外に出すか、出さないかを。
貴女の人生を、ここに縛り付けることは望みません」
いつも無表情のヴェルデが、ぎこちなく微笑む。ラナは自分によく似た、ヴェルデの顔を見つめた。長い金髪に、ラナのより二回りほど濃い桃色の瞳が、同じように見返してくる。これらは、ラナの母であるルーナを参考に写したものらしい。
契約した精霊は、契約者の姿を真似る。ヴェルデはルーナと契約した為に、ラナの母親に、そっくりになった。
それは、ラナにとって不思議な感慨を与えた事実だ。ヴェルデを見るたび、亡き母が傍にいるような、そんな錯覚に陥ったことも数え切れない。
「ラナ。私は、もしかしたら貴女が死ぬまで、この静かな暮らしが続くかもしれないと考えていましたよ。
だから、無意味に過去の事実を伝えて、貴女の心をかき乱す必要が本当にあるのか、悩んでいました。なので、要点しか昔あったことを教えていません。
気付いていましたか?」
「うん。何となく。話したくないんだろうな、程度に」
「貴女が話した組織に所属すれば、いずれ公爵と戦うときも来るでしょう。そのときの為にも、きっと過去を知っておいたほうがいい。
ですので今から、ルーナの過去を一部分、貴女に見せられればと思います。
上手くいくと断言は出来ませんが、全く見ないよりはいいでしょう。覚悟はいいですか?」
「話すじゃなくて、見せるってどういうこと?
……まさか、魔術で?」
ヴェルデは頷きだけ返して、立ち上がる。そしてラナの片手を強い力で引っ張って、どこかに連れて行こうとしていた。
「ちょっと待ってよ、ヴェルデ」
「家の外へ出ましょう。広いところへ」
「ねえ一度、止まって。
……過去を見せるなんて、そんな〈時〉に関わる超高等魔術、いつ習得したの?」
時系の魔術は、大精霊や上級の魔術師達も開発中の領域だ。
過去を見せる、だなんて、誰も成功したがない。勿論、大物の精霊も含めて。
ヴェルデは厳しい顔をして一度だけ振り向いた。
「ルーナと別たれてから、ただ私が遊んでいたとでも?
私は誰よりも、公爵を憎んでいます。ですが、ルーナの遺言があった。――貴女を彼から隠せ、と。
本当は過去に戻って、ルーナを生かす為に始めたことです。でも、出来なかった」
よく知ったはずの精霊の瞳に、見たことのない復讐の炎が宿っている。ラナは大人しく、ヴェルデの導きに従うことにした。
息が詰まるような時間は、即座に終わった。ヴェルデの言葉通り、目的地は家のすぐ外、つまり庭だったようだ。
「では、いきますよ。
ラナ。もしも、この魔術が成功したら、貴女はその聡い耳を存分に使って下さい。真実をよく聴いて、そして、よく見極めて下さい」
覚悟を決め、ラナは頷いた。
ヴェルデが、古代語を口に乗せ始める。
「『過ぎし時よ、ここまで手繰り来よ』、……くうっ」
いきなり、強風が吹き乱れる。風に共鳴するように、空の色がどす黒さを増した。光の小精霊たちが、一斉に逃げていったのだろう。こんな空は、見たことがない。
不吉な黒雲と風が、死神の手のようにヴェルデの頭上へと集まってくる。
(自然の摂理に反することを、私達がやろうとしているから……)
魔術を続行するヴェルデの顔が、どんどん歪んでいく。
「これ以上、さかのぼれ戻れない。仕方なっ……。
——————『導け! ラナをがマスター・ルーナと生き別れし時まで!!』」
今までヴェルデだけに向かっていた自然の反発が、ラナにも纏わり付いてくる。
(怖い! どうすればいいんだっけ)
パニックに陥りそうになったが、ヴェルデの言葉を思い出した。
(耳を……澄ませるんだ)
最初は何も聞こえなかった。けれど、辺りが次第に静かになる。うるさいほどに音が、集まってくる。
————————————ヒズメの音といななきの轟音が、押し寄せるようだった。
同時に、視界が開ける。どうやらラナは、どこかの部屋の窓際に立っているらしい。ここは誰の家なのか。森の小屋よりも大きく広い屋敷に思えた。
窓の外を見下ろす。家の門前で、馬たちから次々と飛び降りる者達がいた。彼らは屋敷の部外者で、まるで強引に屋敷内に突入しているような動きをしている。
(何が、起きているの)
戸惑っていると、壁の向こうから会話が聞こえた。話し声は隣室から響いてくるらしい。そちらに行きたいと、ラナは思った。
驚くことに、身体は壁をすり抜けることが出来た。上手く隣室に移ると、ヴェルデがいた。ただ、ラナがいることに気付いていない。
(えーっと私は、ここにいないはずの人間なのかな? 壁を通り抜けたことからしても、この場に私の身体は存在していない。だから、彼女達に私は見えないってこと?)
ヴェルデが対面して話している乙女が誰なのか、それは一目瞭然だった。ヴェルデに似た女性、ラナの母だ。ドレスを着ている母は佇まいだけでも、ラナより品があった。生まれや育ちからくる違いだろう。ルーナは貴族の出なのだ。
「とうとう、あの人が来てしまったみたい。障害の魔術も沢山仕掛けてあるけれど、長くは持たないでしょう。
ヴェルデ、私のお願いを……覚えているわよね? 貴女、珍しく動揺して、あんまり聞いてくれなかったけれど」
ルーナは桃色の瞳で懇願する。お願い、という言葉が相手に与える効力は、勿論理解していた。なんといっても彼女は精霊ヴェルデのマスターなのだった。契約の下、ヴェルデはルーナの命令を聞く立場にある。
「今すぐ行ってちょうだい、そしてラナをあの人から隠して」
(あの人って、まさか……公爵?)
嫌な予感がして、ラナは青ざめた。
追っ手らしき足音が迫ってくる。ルーナ達がいる二階の部屋までたどり着くまで、あとどれほどか。
「もう一度だけ聞かせて下さい。ここに残って貴女はどうするのですか?」
ヴェルデもまた、ルーナの目に似た色の瞳で見返した。契約を結んだ精霊は、その証としてマスターの風貌をどことなく写し取る。
「私は貴女たちが逃げる時間を稼ぐわ」
「彼の怒りを買い、死ぬことになったとしても?」
「そうなるかもしれない。私はもうあの人を愛することは出来ないから」
ルーナの憂いを湛えた表情を見たせいか、感情の起伏が少ないはずのヴェルデも苛立ったらしい。口調が幾分、辛辣になった。
「契約下の精霊はマスターの身を守るのが基本です。それに貴女が死ねば契約は解かれ、貴女の娘の面倒を見る理由は無くなる」
「だから、お願いしているの。今ある私の魔力を全部あげる。きっちり残らず全部、よ。だから、ラナを頼みます」
ヴェルデは驚いたらしい。
ラナも聞いていて唖然とした。魔術師というのは本能的に魔力を空にするのを恐れる生き物なのだ。そして意識的に空にするということは死にでもしない限り不可能とされている。つまりルーナが全部と言い切ったことは彼女自身が空にする高度な技術を持っているということを意味し、それは通常ではありえないことだ。
一体どれ程、母は辛く厳しい修行を重ねてきたのだろう、とラナは思った。
「本当なら契約で数十年かけて貰っていたはずの貴女の魔力を対価に、娘を私に預けるということですね」
「そうよ」
「マスターが死んでからも、この姿で世に留まるというのは、相当な魔力を消耗します。
それに、私は精霊。人間のように熱い情はありません。……ラナの役にはあまり立てないでしょう」
「そんなことはないわ、貴女のことは友として一番信用しているの。ふふ。可愛い娘のことは任せたわよ。
さあ、行って頂戴」
根負けして渋々頷いたヴェルデの両手に、ルーナは己のそれを重ねた。魔力の受け渡しは、実際に触れ合った方が早いからだろう。
一切の魔力を失ったマスターから、眠るラナを受け取ると、ヴェルデは呪文を唱えた。
空間に現れた亀裂に入る一瞬、精霊はマスターを見つめる。ルーナは満足気で、とても綺麗に微笑んでいた。
「マスター、……」
「さよなら、ヴェルデ。元気でね」
ルーナの目の前から、馴染みの精霊が消える。と同時に、ルーナと同世代らしき少年が単身で踏み込んできた。他の者達は部屋の外にいるようだ。
「随分と探した、ルーナ。約三年も俺から、よく身を隠せたな。
前の隠れ家に残されたのは複雑な隠遁魔術だったから、読み解くのに時間が掛かってしまった」
(この人が公爵で確かみたい)
その場の雰囲気から、確信した。
「探して、なんて頼んでいないのに」
「そう言うな」
彼女の、熱のない視線と口調すら、相手には不快以上に愛おしいらしい。
だが、ふと少年の表情が変わる。
「お前、魔力がないな。それに何故、まとわり付いていた精霊がいない?」
「そんなの、どうだっていいじゃない。貴方にとって、私がここにいること以上に大切なことがあるの?」
「いや。ありはしない」
無表情で口をきくルーナを、彼は鋭い目で見つめていた。
「さあ、このような場所は引き払って、私と共に行こう」
「嫌よ」
「抵抗しても無駄だとは分かっているだろう。俺も、お前に危害を加えたくない」
「…………」
公爵はルーナの腕を取り、引っ張っていく。
(止めて!)
ラナの叫びとは真逆に、母は諦めたようだった。項垂れ、目は虚ろになっている。
(母様……。あっ)
そこで、ラナの視界は閉ざされた。
「——————すみません、ラナ。限界です。帰ってきて下さい」
目を開けると、ヴェルデが目の前に立っている。
「もっとお見せしたかったのですが……、力不足で申し訳ありません」
「そんなことない。見せてくれて、ありがとう。
今ので随分、魔力を消費させちゃったね」
ラナは慌てて、首を横に振る。
(それにしても。ヴェルデから話には聞いていたけど、母様と公爵の関係って、何だか……)
レヴェッロートのルーナへの執着の深さ。やはり目の当たりにすると、凄まじい。そして、……怖い。
その後、しばらくラナの頭から公爵の顔が離れないほどに。