12.魔の手
レヴェッロートが自宅に帰ってきたのは、昼過ぎだった。
それにラナは先回りをして、書斎で彼を待ち受ける。
「お帰りなさい」
「お前達……。今日も、来たのか」
生気のない表情で、彼はラナを見ていた。
彼女の赤の瞳を彼は今どのような気持ちで眺めているのだろうか、とラナは思う。
「大変だったみたいだね」
「何が?」
途端にレヴェッロートの視線が鋭くなった。
「その顔色。何かあったって、はっきり出てる」
「ああ、そうか。————理由は分かるか?」
安心したように彼は小さく息を吐いたが、ラナから目は離さなかった。
「うん。ごめん、少し聞いちゃったから。
赤の民から財産を取り上げるのでしょう?」
「! お前、あそこに潜んでいたのか。話に夢中で気付かなかった」
「ルーナが悲しんでも、それでもやるの?」
「……他に道は無いんだ。有力貴族の大半がフォルムラ殿に付いている。議会制の政治では、少数意見は通らない」
「レヴェッロートの言う通りかもしれない。
だけど、絶対後悔する。苦しみが薄れないまま生き続けることになるよ」
「分かったふうな口を利くな!」
手が伸びてきて、あっという間にラナは首を絞められていた。
「ラフィ!」
驚いたエテルノの身体から、太古の力が漏れ出る。それをレヴェッロートは冷めた目で見て取った。
「お前は、そうか、精霊だったのだな。
じゃあ、……こいつは? ラフィ、お前は一体何者なんだ。
今後の政府機密を知ってしまったお前は、生かす価値があるほどの存在なのか?」
激情に駆られた彼は、ぎりぎりと彼女の首を強く締め付け、ついにラナは——————意識を失ってしまった。
視界は暗く、陰鬱な空間をラナはぼんやりと一人歩いていた。長い道を————いや、どこかの屋敷の廊下を来たらしい。
一つだけ明かりが見えた。覚えがある。レヴェッロートの書斎だった。
(そうだ、どうして忘れていたの。私はここを目指していたのよ。良かった、やっと着いた)
そう思って扉をノックすると、返事も聞かずに入る。早く彼に会いたかった。
——————部屋の中には二人の男がいた。しかも、一人はインテだ!
最果ての精霊は、こちらを向いて「やあ」と声を出さずに言った。
もう一人の男……レヴェッロートは、ラナを見ようともしない。ソファに座ったまま、自らの両掌で顔を覆っている。
そんなレヴェッロートに、インテは向き直った。
「何度も言うけれど、君が世界を創るなら、俺は一番の協力者になれる。
君の力を見込んで、従者側から提案させてもらおう。
俺と契約しようじゃないか、レヴェッロート」
これは契約の現場だ。絶対に阻止しなければならない。
なのにラナは、急に足が動かなくなった。声も……、上手く出せない。
『無駄だよ。君、今自分に身体が無いこと気付いてないの? 今の君は小精霊みたいに、本質だけの状態なんだ。しかも初心者みたいに本質を上手く使いこなせてない。
レヴェッロートに訴えかけるのは無理だよ。大人しくしていてねー。
まあ、この部屋まで来れたのは凄い。それだけは褒めてあげる』
インテの声が響いた。実際は口を少しも動かさない芸当は、流石に常に最上級の魔術を駆使出来る者だ。
「何を迷うことがあるのかな、レヴェッロート。君はとうに絶望している。
更に君が何をしたところで、これ以上状況が悪くなることはないよ」
「————そうだな」
同意して顔を上げたレヴェッロートの目は虚ろで、ラナはぞっとした。
『だ……め……!』
それなのに声は霞むばかり。
「では、了承をもらったところで、本契約と行こうか」
「ああ」
レヴェッロートが契約に踏み出す。
『聞け! 天地と、そこに住まう者たちよ!
我、レヴェッロートは、ここに誓う。我と共に歩む最果ての精霊に、我の内なる魔力を与え…………』
『駄目だったらー!』
ラナは自分の声で、自分の耳がつんざけそうだった。
『って、あれ。声出た?』
「……! 誰だ、そこにいるのは。まさかラフィ?」
レヴェッロートは、こちらを見ていた。彼女の姿は見えずとも、存在は認識しているらしい。
『そう。そうだよ、レヴェッロート。私はここにいるよ!
契約なんて、しちゃだめ。これ以上、自分に嘘を付かないで。
今なら、まだやり直せるから。私が手伝うから』
「ラフィ……」
彼女の訴えを耳にした彼は、辛そうに顔を歪めた。
「まったく……、度重なる邪魔を…………。契約の前に、余興として殺しておこうか。
ヒヨッコの君なら、一吹きで消し去れるから簡単だし」
予定外のことが起きたと、インテは笑みを消す。
大ピンチだ。確かに、今のラナでは抵抗の仕方が分からない。
乾いた笑みが彼女の顔に浮かぶ。レヴェッロートを救えなかった自分には、これも似合いの終焉だと思った。
ところが——————。
「やめろ」
目の前に、彼女の盾となってくれた人がいた。この背中は他でもない。
レヴェッロートだ。危機を防いだ彼の手は、黄金色に輝いていた。光の粒子が手を覆っているので、手自体が光っているように見えるのだ。これで魔を抑え、浄化したらしい。
「ねえ、どうして君も俺の邪魔をしたの。ねえ、君は俺の意志に賛成していたよね。どうして、その女を殺すチャンスをふいにしたの。
君の大事なものはルーナだけじゃないの? 君みたいな屑が、一人以上の女を守れるとでも勘違いしているの?」
インテの怒りで、ゆらゆらと空気が震動する。
「ルーナは大事だ、大切な幼馴染だからな。だから、その幼馴染の従姉妹も、俺にとっては守るべき存在だ」
「仕方ないなあ、もう。レヴェッロート、君ってば勘違いも甚だしいよ。
もう一度、説明しないと分かんないかなあ。
だから、その女は契約の前祝の供物なんだってば。血濡れた契約は一層呪わしく、深く強く俺達を結びつける糧となる。
しかも女だから、死の瞬間は美しい甲高い声で泣き叫び、俺達を恨み憎む歌を残してくれるだろう。それはとても素敵なことじゃないか!」
「ラフィに、そんなことはさせない。彼女は、今のままが一番良い」
「素直に俺の言うままにすれば良かったのに。あんまり俺の機嫌を損ねると、契約がふいになるよ?」
「構わない」
「ああそう。君には失望したよ。わざわざ過去にまで来て、もう一回同じ君と契約してあげようと頑張ったのにさ。
じゃあ、レヴェッロート、君から死んでもらって、この憂さを晴らそうか。
——————『最果ての悪鬼たちよ! この男の本質を引っ張り出して、好きにしていいよ!』」
インテに呼びかけられ、何が融合して魔力を増した。現れた黒い空気の澱みのようなものが、レヴェッロートに飛びかかる。
次の瞬間。
レヴェッロートは、その空気を黄金の腕で、突き破っていた。
「こちらにまで奴らの怨念が伝わってくる。これはインテに砕かれた最果てに住む小精霊たちのものか。インテが憎くてたまらないのに、最果てに属したままで、インテに支配され続けている恨みだな」
彼の手で貫かれた小精霊たちは、淡い光となって消えていく。一瞬、安心したように笑って見えたのは、ラナの気のせいだったろうか。
それらを見送ると、静かな口調でレヴェッロートはインテに宣告する。
「どうした、もう終わりか? お前の放った小精霊は、最果ての束縛から解放してやったぞ。奴らは好きなところに飛んでいって、また一から始められる。
そして最後はお前だ、最果ての精霊。
お前自身も怨念の塊のようなもの。俺の手で、その生に終止符を打ってやる。それが、契約を結び損ねた俺の餞別だ」
「そんなもの要らないよ。というか、俺は君の手ごときで死なないし。
ま、面白い。これで決着を付けようじゃないか。君の黄金の手と、俺の闇の手。どっちが強いかどうか」
二人は手の平を互いに向け合った。放たれた光と闇が中間地点で衝突し、相殺し合う。
「ああ、この光が消される瞬間。たまんないよね。ジュワッて音がしてさあ、最高。まるで、大掛かりな花火みたいだ。
ねえ、レヴェッロート、もっと力出せないの? 光が大きければ大きいほど、はかなく掻き消える瞬間が美しいんじゃないかっ!」
インテの心境は、まるで遊びを楽しんでいるかのようだ。それなのに、真面目にやっているこちらと同等以上の力を持っている。精霊と人間との力量の差だ。
闇に侵食された部分から、だんだんと光が失われていく。
「ちいっ……」
「ふふふふ。君ごと、一気に飲み込むかな。消化不良になりそうだけどね」
「気味の悪いことを抜かすな」
確かにインテが言うように、まるで大蛇が食事するかのごとく闇が光を食べていく。これでは防戦一方の闘いだ。
どうしたらいいのか。
絶望が頭を過ぎったラナの表情を感じ取ったかのように、ふいにレヴェッロートは振り返った。
「大丈夫だ」
『え?』
「安心しろ。これは、俺の心の中の希望を体現したものだから。お前が苦労して呼び覚ましてくれたものだから……、だから、絶対に消えない」
気のせいか、光輪が一回り大きくなる。その神々しい輝きの前に、闇は散り散りに逃げ出す。
「!! ……今回は一端、手を引くよ。
——————『我、最果ての地へ帰還する』」
敏感に自らの不利を悟ったインテは、どんどん姿が薄くなり……やがて消えた。
『ありがとう、レヴェッロート』
光と闇の一大対決がひとまず終わって、ラナは微笑んだ。
「礼には及ばん。
それより、お前、身体を放置したままだろう。早く実体を伴なった状態で改めて、こちらに来い。話している相手が見えなくて、落ち着かない」
『……分かった。頑張る』
心の中で手を振って、ラナは自分の身体がありそうな場所に戻る。
客室の多い階まで行くと、エテルノが廊下に仁王立ちしていた。
「下の部屋から色々な気配がしていたが、貴方を信じて敢えて行かなかったけれど……無事でよかった、マスター」
「うん。私の身体を守っていてくれてありがとう」
「いや、大したことじゃない」
エテルノがドアノブを回すと、ラナの本質は室内へと吸い込まれていった。
「お帰り。ラナ」
寝床に横たわっていたラナの目蓋が押し上げられ、瞳が生気ある紫に輝く。
「行かないと。レヴェッロートに呼ばれているの。今度は一緒に行きましょう」
「うむ」
準備を終えて、彼の待つ部屋に着いた。ノックをすると、間髪入れずに返答がきた。
「遅い」
ごめんなさい、と詫びながら部屋に入る。目で促されて、向かいのソファに座ると、彼は黙ったまま彼女を眺めていた。
「な、何?」
「聞きたいのは俺だ。お前、何を悩んでいる?」
「……不安なの。今度インテは、どうやって仕掛けてくるのかを考えちゃうと」
するとレヴェッロートは、ふうっとため息を吐いた。ラナは、呆れられたのだと思う。だが違った。
「今から悩んだって仕方がないだろう。ただ、あいつは、ずる賢い。一番嫌な時に、一番嫌な方法で攻めてくるのは確かだ。だから、俺達は常に最大の警戒をして、最善の道を取ればいいだけだ」
割り切った、ドライな返事。けれど、これほど頼りになる人がいるだろうか。
「ふふふふふ。貴方なら、インテの行動でも先読み出来そう」
「何でも、やってやるさ。……その笑顔を守る為なら」
真っ直ぐ見つめられて、彼女は頬を赤く染めた。
だけど勘違いするな、と自分に言い聞かせる。今のは、国民のそういった笑顔を守る為なら頑張る、という意味なのだろうと。
深呼吸して必死に暗示をかけている最中に。また、爆弾が投下される。
「傍に居てくれればいい。時には、一緒に悩んで考えてくれれば有難い。それだけだ。
だから、自分はお役御免などと考えるなよ。お前はまだ、必要なんだ」
だが、今度は素直に嬉しいと思えた。
必要、と言われて、ほっともした。インテと彼の契約を阻止したから、レヴェッロートにもう近付いてくるなと言われるかもしれないと思っていたのだ。
でも、本人がまだいいって言うのだ。
だから、もう少しだけ。たとえ、ルーナに睨まれても……、彼の傍で役に立ちたいと願う。
「……そうだ、ラフィ」
「何?」
思い沈んでいたところに話しかけられ、はっとする。
「傍にいてくれるだけでいいと言った直後だが、破ることを頼んでもいいか?
今後の話だ。もし万が一、俺達が窮地に追いやられたとき。
俺を信じて、お前の魔力を俺にくれないか。きっと俺のほうが効率的に魔力を使える。魔力を何倍にも増幅して、敵を倒すことが出来るだろう」
そう言われてラナは以前、ローダが言っていたことを思い出した。
魔力の行使法。それは集中力・体力などが関わっていて、確かにラナよりレヴェッロートの方が上だと納得する。
「分かった。元より、私は貴方を信用しているもの」
ラナは頷いてみせたが、そんな危険なときが来なければいいと思った。