アリス・マクガフィン
その日、私は長椅子で眠っておりました。
つば広の帽子で顔を隠し、着の身着のまま、だらしない格好です。そんな私の姿を一目見た人は、なんだってそんな姿で眠るのか。ちゃんとベッドに入って、寝間着に着替えて眠ればいいではないか、と言うでしょう。
その意見は、もっともです。
できれば、私もそうしたい。
柔らかいベッドの上で、可愛らしいパジャマを着て、熊のぬいぐるみなんかを抱きつつ、安らかな眠りに就いていたい。
けれど、それは許されません。
成人してから此の方、私はベッドで安らかに眠ったことはありません。いつも、この草臥れた長椅子で、だらしない格好で眠る事を常としています。
なぜなら、私は探偵なのです。
しかも、ハードボイルド科の。
正しい分類を述べるなら『タンテイ目ハードボイルド科タフガイ属』の生き物となります。探偵の中でも、かなり荒々しい種族の雌です。
はい、タフガイなのに女なのです。
もっともタフガイも複数形になると女性を含むそうなので、種族名として見た場合、タフガイと呼ばれても、特に問題はないそうです。
そのような訳で、私はタフガイ(十六歳の女の子)という事になります。十五で両親から巣立って以来、ハードボイルドでタフガイな探偵として、この事務所で生活をしているのです。
ですから、ベッドでお休みなんてできません。
長椅子に寝っ転がって、適当に寝る。
そんな生活を一年間、続けています。
これがハードボイルドの基本スタイルだからです。ベッドで休むハードボイルドなんて、煙草を吹かすアンパンマンみたいなもの。
だから、私はこれからもずっと、こんな感じのライフスタイルを続けていくのでしょう。
最も、コレなどマシな方で、より熱心な同族は、何日も寝ずに過ごしてハードボイルドなタフガイっぷりを追求してます。寝るのはもっぱら車の中。しかも、絶対にリクライニングシートなど使わず、ハンドルに寄りかかるだけ。そんな人だって少なくありません。
求道的なタフガイは、そうしてタフさを追求しています。
羨ましい限りです。
一方、私はそこまでハードな生活は送れません。タフガイ属の中でも、少々、落ちこぼれ気味、そんな体力ないのです。顔つきも、全然厳めしくありません。むしろ、どちらかと言えば、酷い童顔で、街を歩いていると子どもに間違われる事すら、多々あります。体格が貧弱だったり、背が低かったりするのがいけないのかもしれません。
格闘技の心得はありますが、犯人を力任せに殴るスタイルは、ちょっと無理です。身体が小さいので、一方的に殴り負けてしまいます。タフガイは、犯人と血みどろの殴り合いをするものですが、私は、あんなの耐えられません。一発で、気絶するのは落ちでしょう。それよりも、柔よく剛を制すると、投げ飛ばす方が性に合ってます。
けど、それはタフガイらしくないと、よく言われます。
私も、そう思います。
タフガイは泥臭く、豪快に剛で制すのが基本。
だから、私はタフガイでも落ちこぼれなのです。
他の同属のように、何日も寝ないでタフガイっぷりを喧伝する事なんてできません。途中でぶっ倒れてるのが関の山です。
そうなると、ちょっとタフガイを主張するのが恥ずかしくなってしまうので、私は妥協して長椅子でだらしなく眠ります。
けど。
壊れたスプリングの所為で、寝ていると背中が当たって寝苦しいです。せめて、安楽椅子ならなぁ。そんな事を考えながら、毎日眠っています。
けど、それはアームチェア属の領分です。我々、ハードボイルドな探偵の住むべき場所ではありません。
なので、私は今日も大人しく、草臥れた長椅子で眠っていたのです。
すると、朝っぱらから――。
「…………チッ。なんだ、こんな朝っぱらから」
事務所の電話が鳴り響きました。それを目覚ましにして、私は不機嫌そうに起き出します。
と言っても、本当に不機嫌なわけではありません。
時計の針は、既に七時を回っていたので、そろそろ起き出して、ハードボイルドな朝食でも取る時刻でした。
冷えたピザと気の抜けたビール。
泥のように苦い珈琲と煙草。
むやみに塩辛いソーセージ。
あるいは、安物のスコッチ。
そんなモノでも食べようか、あるいは朝食抜き(これもハードボイルドっぽいのです)にしてくれようか。
半覚醒状態で、そんな事を考えていました。
だから、電話の音は、いい目覚まし代わりだったのです。
けれど、私は殊更、不機嫌そうに、頭を掻きながら起き出します。
なぜなら、基本的にハードボイルドな探偵という生き物は、常に不機嫌そうにしているからです。
何に対しても悪態や皮肉を吐き、常に奥歯を噛みしめて、眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしながら、弱者にはぶっきらぼうながら優しくする。
それが、私の愛するハードボイルドスタイル。そういう、不器用で優しい生き物に、私はなりたいのです。
「うるせぇな。そんなに鳴らなくても分かってるよ」
だから、私は適当な悪態を吐きながら、机の上の固定電話を取りました。面倒臭そうに「もしもし、こちらマクガフィン探偵事務所」と電話に出ます。
ちなみに、マクガフィンは私の名字です。
アイルランド系の名字で、なかなかハードボイルドっぽい名字であると、大変気に入っています。実際、貸しビルの看板に『マクガフィン探偵事務所』と大書してあると、どんなタフガイな探偵が住んでいるのかとワクワクして来ませんか?
私は来ます。
なので、私はこの名字。実にハードボイルドじゃないかと気に入っているのです。
対して――。
自ら口に出す事は滅多にありませんが、私の名前はアリスと申します。
アリス・マクガフィン。
それが私のフルネーム。
そして、私は自分の名前が嫌いです。
だって、アリスなんて名前、全然ハードボイルドじゃないではありませんか。
私の名付け親は、父方の祖父なのですが、なんでこんな名前にしたのか、未だに理解に苦しみます。
サスペンス科ヒロイン属にだった母は「それだけ、貴方が愛らしかったのよ」と祖父を弁護しましたが、一応、私は生まれ落ちた時点で、祖父や父と同じタフガイ属と分かっていたはずです。ハードボイルドな人生を、私が進む事は理解していた。それなのに、私をタフガイに似合わぬアリスと名付けた祖父は、馬鹿野郎じゃないかな、と思います。
あるいは、ボケが始まっていたのかも。
ともあれ、そんな事情があるので、私はただ「マクガフィン」とだけ名乗ります。電話口にも、それだけ伝えます。
すると――
「1101が発生しました。探偵は至急、×××××まで急行してください」
電話口から聞こえてきたのは符丁を告げる、感情のこもらない音声でした。
それを聞き、私は息を飲みます。
通常の探偵業務ではなく、Code1101。
それは極めて特殊な状況で発生した殺人事件を意味します。この電話は、それを解決するようにとの、管理局からの要請だったのです。
「……なるほど。随分と面倒臭そうな依頼だな。だが、まあ、いいさ。ここんところ、仕事も無かったしな。行くよ」
私は、一つ悪態を吐くと管理局に了解の旨を伝えました。
ハードボイルド科の探偵としては、そういう細かいところでハードボイルドさを醸し出していかないとですからね。
探偵稼業も楽じゃないのです。