ごく普通の勇者パーティとその破滅まで。
俺はアドラ・ダムール。
単独で魔物の群れを討伐できると言われる実力、Aランク冒険者で、
Sランク勇者パーティ・カルダミネの花弁で勇者をやっている。
俺たちのパーティ『カルダミネの花弁』は、その名の通り四人のメンバーで構成されている。
四枚の花弁が揃って、初めて不屈の力を発揮する。
前衛のアルマ・フランソワ
彼女はひとりを絶対に守る【護衛の加護】を持つ。
魔法使いのマノン・シャルティ
加護はないが、福を呼び寄せる固有スキル【招き猫】を持つ。
聖女のクレア・コレット
周囲の健康を保つ【健康の加護】と、回復ができる【援助の加護】を持つ。
彼女たちは俺の大切な仲間だ。
そして俺、アドラ・ダムール。俺の持つ【賢者の加護】は、あらゆる外部からの攻撃を無効化する。
傷一つつけられない完全無傷。まあ、内部からの攻撃には脆いけどな。
…周りからは可愛い女の子3人に囲まれて羨ましいパーティだ、なんてよく言われるけど俺は別にハーレム気取りでウハウハしているわけじゃない。
ただ、誰もいない孤独なぼっち旅を続けるよりは、こうして周りに誰かがいるだけ全然マシだろ、くらいの感覚だ。
それでも、ふとした瞬間に「パーティに一人くらい男がいたら、もっと別のノリで、この息が詰まりそうなほど過酷な旅をマシに楽しめたんじゃねえかな」なんて思うことはある。
「アドラ、次の街まであと半日よ。招き猫のおかげかしら。今日も魔物との遭遇が少なくて助かるわ」
クレアが微笑みながら並び歩いてくる。
彼女の加護のおかげで、過酷な長旅だというのに俺たちの肌には疲労の影すらない。
常に万全。同僚として、これほど頼もしい癒やし手はいない。
「うんうん、私の幸運に感謝してよね! 街に着いたら、美味しいご飯ご馳走してくれたっていいんだから」
隣で大きな尖がり帽子を揺らしたのはマノンだ。
黒いローブをひるがえして、自分の手柄を自慢げに誇っている。
彼女には周りと違い加護こそないが、その魔術の腕と招き猫というスキルは本物だ。
実際、彼女がパーティに加わってからお宝のドロップ率も上がっている。先日はドラゴンの魔核がすぐに見つかった。
「ああ、街に着いたら美味い店を探そう」
「やったぁ!」
俺が短く返し、マノンは無邪気に笑った。
彼女たちとの関係は良好だ。
しかし、あくまで魔王討伐という目的のために集まった仲間。
そこに甘ったるい感情はない。いや、いらない。
だが、俺の一歩後ろを歩く前衛だけは、少し違う。
「……アドラ」
不意に、背後から服の袖を引かれる。
振り返ると、剣を背負ったアルマが少し俯きながら俺を見上げていた。
「これ……さっきの休憩のときに見つけた。アドラが前美味しいって言ってたやつ。」
差し出されたアルマの手には、丁寧に皮が剥かれた木の実が乗っていた。
彼女の瞳には、仲間に対するものとは明らかに違う、熱を帯びた感じがある。
アルマが俺に想いを寄せていることくらい、とっくに気づいていた。
だが、俺は彼女の手をそっと押し戻す。
「いらない。アルマ、自分の分の水分補給は済ませたのかよ。いくらクレアの加護で疲労がなくなっても水分が枯渇したら死ぬぞ。」
「え……うん、私は大丈夫だけど……」
「ならいい。今は移動中だ。…周囲への警戒を怠るなよ。」
「……はい。ごめんなさい」
寂しそうに手を引くアルマ。
少し冷たいかもしれない。だが、これが俺のルールだ。
ここは命懸けの戦場に自ら足を踏み入れる場所。
一瞬の油断がパーティ全員の死に繋がる。
そんな悲惨な結末を回避するには恋心のような私情を持ち込んではいけない。
戦場で生存するためには、彼女の気持ちに応えるわけにはいかないし、線を引き続けなければならない。
心苦しいが、仲間の命を守るための行動だ。
俺の加護は外部からの攻撃をすべて無効化する。
だが、それは俺一人の話だ。前衛であるアルマが私情で動きを鈍らせれば、彼女自身が死ぬ。
「……アドラは真面目だね」
アルマは小さく呟き、それきり何も言わずに俺の後ろへと回った。
彼女が持つ護衛の加護は「ひとりを絶対に守る」もの。
俺はその加護に見合うだけの、冷徹な勇者であり続けなければならない。
男が一人くらい旅の仲間にいれば、こんな気まずい思いをせずに
「アイツ、お前に気があるんじゃねえの?」
なんてバカな話をしながら、この空気を笑い飛ばせたのかもしれない。
そんなことをついつい考えてしまう。
「おい、前方から魔力反応だ。マノン、クレア、後方で構えろ。アルマ、前に出ろ」
「了解!」
俺の指示に三人が一瞬で戦闘の顔になる。
息の合った、ごく普通の、どこにでもある優秀な勇者パーティの連携。
◇
俺たちは、多くの冒険者が旅の傷や疲れを癒す、
宿場町サクシフラガへ到着した。
石畳の街道には温泉の湯煙が白く立ち上り、立ち並ぶ店の魔導灯が温かい光を灯している。
魔王討伐の旅において、ここは数少ないオアシスのような場所だった。
「あー! やっと着いた! 今日はもう絶対に美味しいお肉食べて、ふかふかのベッドで寝る!」
「観光とかは明日にしよ!明日!」
マノンが伸びをする。
「もー、マノンはそればっかり。でも、確かに今回の移動は少し長かったし、私もゆっくりお風呂に入りたいな」
クレアが聖服の裾を気にしながら、息を吐いた。
クレアの加護のおかげで肉体的な疲労は完全にリセットされているが、精神的な摩耗までは防げない。
だからこそこういう旅の合間に休憩を挟むことが大切なのだ。
「アドラ、宿の手続き、私がやってこようか?」
アルマが、剣の柄に手をかけたまま、俺の顔を覗き込んできた。
「あぁ、頼む。」
「わかった。いってくるね。」
アルマが小走りで宿へ向かい、俺はその背中を見つめていた。
アルマの背が見えなくなると、俺は鍛冶屋で防具を買いに行った。
◇
───その日の夜。
俺が頑なに守り続けていたその鉄の防衛線は、あっけなく崩壊することになる。
夜風に当たるために宿のバルコニーに出た俺の元へ、アルマがやってくる。
湯上がりの、鎧を着たいつもとは違う無防備な姿。
その瞳に涙を溜めながら、彼女は静かに、だけど退路を断った決死のタメ口で、俺に想いをぶつけてきたのだ。
「……わかってる、怒るよね。
戦場に私情なんて持ち込んじゃダメだって、アドラがずっと一線を引いてるのも、私を遠ざけようとしてるのも知ってる」
アルマの声が震える。
「でも…私は嫌なの。」
「明日死ぬかもしれない過酷な旅の中で、アドラにただの優秀な前衛としてしか見てもらえないまま終わるなんて、絶対に耐えられない……っ。
お願いアドラ、私を仲間じゃなくて、あんたの『特別』にしてよ…。」
「そしたら私はアドラを守るために、アドラにあの時いいよって言ってよかったって思えるようにもっと、もっとがんばって強くなるから……!」
そのあまりにも一途な覚悟に「戦場に私情は持ち込まない」、そう誓っていたはずの俺の心が、激しく揺らぎついに限界を迎えた。
これほどの愛を向けられて、これ以上突き放すことなんて俺にはできなかった。
「……アルマ」
俺の口から出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。言わなければならない。
お前の気持ちには応えられないと、いつも通り冷徹に突き放さなければならない。
脳裏では、戦場における私情の危うさを説く理性が、必死に警鐘を鳴らしていた。
だが、目の前でボロボロと涙を流しながら俺だけに愛を注ぎ、断られることを覚悟して告白してくれたアルマをこれ以上拒絶できるのか。
夜風が俺たちの間を静かに吹き抜けていく。
長い沈黙。
秒針の音がやけに大きく聞こえる中、俺の手がゆっくりと動き気づけば彼女の震える肩へと伸びていた。
戦場に私情を持ち込んではいけない。
そんな鉄の掟よりも今はこの腕の中に彼女を閉じ込めたくなった。
引き寄せたアルマの身体は騎士とは思えぬほど驚くほど小さくて、そして温かかった。
鎧で大きく見えただけで、アルマが本当はこんな少女だったということ。
それを理解した瞬間、俺はアルマを守りたいと強く思った。
「アドラ……?」
「……今まで冷たくしてごめん。もう線は引かない」
耳元でそう呟き、腕の力を少し強める。
アルマの細い手が俺の背中に回され、しがみつくように衣服を強く握りしめてくれたのが分かった。
俺の胸に押し当てられた彼女の顔から、温かい涙が俺の服に染み込んでいく。
俺とアルマはただの仲間から『恋人』になった。
アルマの愛おしい温もりを全身で感じながら、俺は確かに、この世の誰よりも幸福な瞬間にいた。
だが――
愛する人を明確に自覚してしまったその瞬間、
俺の胸の奥を猛烈な恐怖が貫いた。
「アルマを何が何でも失いたくない」という心。
これこそが、戦場での判断を狂わせ、パーティを全滅に導く致命的な毒になるのだと理性が叫んでいた。
◇
夜が明け、宿の食堂で朝食を囲んでいる時、俺は重い口を開いた。向かいの席では、マノンがいつもの魔女帽を揺らし、クレアと楽しそうにタメ口で雑談している。
「みんな、聞いてくれ。……俺とアルマは、付き合うことになった」
「えぇっ!?」とクレアがスプーンを落とす。
アルマは顔を赤くしながら俯いた。
俺は真剣な目を崩さないまま本題を告げる。
「戦場にこの私情は致命傷になる。
そんな命懸けのことに、お前たちを巻き込みたくない。……だから俺たちはここでパーティを解散するべきだと思う。魔王討伐なんてやめて、みんなで普通の友達に戻ろう」
それが、俺が夜通し悩み抜いて出した答えだった。
パーティを解散して普通の友達に戻れば誰も死なさずに済む。
アルマとも、ただの男と女として、安全な世界で幸せになれる。
だが、その提案を真っ向から拒否したのは、他でもないマノンだった。
「何言ってるのアドラ、急にそんなこと言わないでよ。」
マノンは呆れるように息を吐き、朝食を食べる手を止めて俺を睨みつける。
「二人がくっついたからって解散? 意味分かんないんだけど。アドラの賢者の加護があって、私のスキルで幸運を呼んで、みんなの力でSランクパーティまで上ってきたんだよ?
今さら降りて普通の友達に戻るとか、絶対にやだから。」
クレアも困ったように苦笑いを浮かべながら、まっすぐな目で俺を見て頷いた。
「私もマノンと同意見かな。
その恋人を大切にしたい気持ちはわかるけどさ、私たちは四人で『カルダミネの花弁』なんだよ。
今さら友達に戻って終わるなんて淋しいよ。
大丈夫だよ。私には神様がくれた加護だってあるんだから。
──私は最期まで、このパーティで戦うよ」
仲間の強い拒絶。
勇者としての責任。
それらを前に、俺は解散を断念せよと言わざるを得なかった。
そして、「恋仲のまま、勇者パーティを続ける」という俺が最も危険だと理解していた爆弾を抱えたまま、俺たちは引き返せない旅路を進むことになってしまった。
◇
──サクシフラガのギルドから、不穏な『緊急任務』が下されたのは、マノンがパーティの解散を拒絶した翌日のことだった。
内容は、町の周辺を歩いていた警備隊突如音信不通になり、魔物による襲撃の可能性があるため即座に調査せよ。というものだった。
サクシフラガの町を一歩出た瞬間から、背筋を凍らせるような圧倒的な違和感と悪寒が俺たちの肌を刺していた。
おかしかった。
マノンのスキルがあれば、道中で不意の奇襲に遭うことなどあり得ないはずだった。
遭ってもすぐに気づけたはずだった。
俺の首にぶすりと刺された針のようなものから、
液体が流れ込む感触。
体が焼けた鉄を刺されたような激痛に襲われ、そのままばたり、と意識を失って倒れた。
◇
俺が目覚めると、そこは先ほどまでの自然はなく、
あるのはただ無機質な石の壁と、鉄の檻のみ。
意識が段々と戻っていく。
「…ぅ。」
「…!?」
「アルマ!?マノン!クレア!」
俺がばっと起き上がり、声を荒げて叫ぶ。
すると、緑色の長髪を揺らす10歳ほどの少女がいた。
「うっさいですね。勇者でしたっけ。」
「…誰だ?」
少女は白衣に、左目にあてられた眼帯など、
いかにも研究者というような外見だった。
「ステア・インサニア。」
「そうか…お、おい…ステア、俺の仲間をどこにやったんだ…?」
「仲間ぁ?あぁ、聖女とか、騎士とか?」
「そこにいるじゃないですか。ほら、あなたの後ろ。」
「特別に同じ牢に入れてあげましたよ。」
俺がゆっくりと後ろを振り向く。
すると、まだ眠っている3人の姿があった。
脈を確認する。
「よかった、死んでない…。」
少し経ってから、マノンが起きた。
「…?」
「は?どこ、ここ。」
「マノン…。ここはステアとかいうやつのラボらしい。」
「ステア…?誰…。」
「俺らを拉致した女。」
「拉致…最悪ね。」
マノンが、いつまで経っても起きないアルマとクレアの頭を殴った。
「いつまで寝てんのよ!起きなさい!」
殴られて、アルマとクレアが目覚めた。
「な、なに…ここ。」
「痛い…」
クレアが自分の頭を抑える中、ステアが檻の外から声を上げた。
「うるさいですよ。自分の立場わかってます?」
ステアが不快そうに顔を歪めた。
それと同時に、ステアの指先から透明な液体が滴る。
地面に落ちたその液体のアルカリ性が、
地面のコンクリートを侵食し、ジュゥゥゥという嫌な音を立てながら白い煙を上げる。
「全員目ぇ瞑って魔法かなんかで肌守れ!!」
俺が声を荒げると、アルマとマノンはすぐに行動をした。
しかし、クレアは少し遅かった。
おそらく回復できるから大丈夫、という安心があったのだろう。
クレアがその煙を吸ってしまい、様子が変わる。
「ごほっ、げほっ……! あ、つ……喉、が……っ、げほっ……息…いき、できなっ…げほっ」
咳と共に、クレアが口からピンク色の泡が混じった不気味な血を吐く。
「クレア!」
マノンがクレアに駆け寄って仰向けにする。
しかし、それが致命傷となった。
「ご、ごぼッ……かは、……っ!」
仰向けになった途端、クレアの口から溢れ出ていた血が、重力に従って喉の奥へと逆流する。
「ひゅ、……ま、……ッ」
塞がれた気道は、もう一切の酸素を通さず、
クレアは自身の血液で溺れながら、必死に喉をかきむしり、魚のように口をパクパクと動かした。
マノンが異変に気づいたときには遅かった。
クレアの顔面はみるみる青紫色に染まり、やがて、大きく一度だけ身体を震わせると、
二度と動かなくなった。
「……クレア?」
マノンが、震える声でその名を呼んだ。
さっきまで自分の手の中にあったはずの、親友が、一瞬でただの肉塊へと変わった。
「嘘……嘘でしょ? クレア、起きてよ、ねえ……!」
マノンはクレアの血まみれの肩を掴み、狂ったように揺さぶった。
自分の手のひらが、クレアの吐き出した生暖かい血で汚れていく。
その生々しい感触が、マノンの頭の中の何かを完全に叩き割った。
「私が、私が仰向けにしたから……? 私のせいで、クレアが……っ」
自分の両手を見つめるマノンの瞳が、恐怖で極限まで見開かれる。
息が上手く吸えない。喉の奥がヒューヒューと鳴り、ローブの胸元をマノンは自身の爪が肉に食い込むほど強くかきむしった。
「嫌、嫌、嫌! 助けて、誰か助けてよ! 私の招き猫は!? 幸運でしょ!? なんでこんなことになってんのよ!!」
マノンは絶叫した。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら、床に転がるクレアの死体と、自分の血塗られた両手を何度も何度も交互に見つめる。
ガタガタと全身を激しく震わせてマノンは幼児のように頭を抱えてうずくまり、
ただただ壊れたように
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と、誰もいない空間に向かって泣き続けている。
「耳障りですね」
ステアの口から、冷徹な敬語がこぼれ落ちる。と同時に、その指先から再び液体が滴り落ちた。
「いや、嫌っ……来ないで!」
マノンは悲鳴を上げ、ステアからなるべく遠ざかろうとした。
そして、自分のスキルに人生のすべてを懸けて縋り付く。
今すぐここから脱出できる確率。
ステアが気まぐれに檻を開ける確率。
この地獄がすべて悪い夢である確率。
ありとあらゆる『幸運』を、マノンは半狂乱で手繰り寄せようとした。だが――。
「私の前で、確率の計算など無駄ですよ」
その瞬間、
マノンの【招き猫】が必死に呼び寄せようとした未来の選択肢が、ステアの持つ固有スキルによって上空から巨大な岩を叩き落とすかのように潰された。
ステアの豪運は、マノンの生存確率を上げるためではなく、ステアにとって『最も都合の良い実験結果』を出すために機能する。
そして、ぱきりと寒気がするほど硬質で、冷酷な音が響いた。
「え……?」
マノンのローブの袖口ごと、パキパキと音を立てて透明な、だけど冷徹な輝きを放つ『結晶』へと姿を変えていた。
「あ、熱い……うそ、冷たい? 動か、ない……」
変異は一瞬だった。
マノンが自分の手に起きた異常に気づいた時には、結晶の侵食はすでに肘を越え、肩、そして胸元へと、肉体を無機質な鉱物へと作り変えていく。
「そちらの薬品のガスは皮膚接触によって肉体を結晶化させる性質でしたか。非常に綺麗な色ですね」
ステアは表情一つ変えず、懐から取り出した手帳に淡々と羽ペンで何かを書き留めている。
「嫌、いやだあ! アドラ、助けて! 助け――」
マノンが必死に俺へ向けて伸ばそうとした左腕が、伸ばし切る前に、硬い結晶の塊へと変わった。
顔の半分、そして髪の毛までもが綺麗な鉱物に侵食されて、マノンの左は宝石に包まれたように変わってしまった。
「ぁ、ぁあ…」
マノンが自分の体の状況を理解したのか、嗚咽を上げる。
二度と普通の友達に戻って、宿でタメ口を叩いてバカ笑いし合うことなんてできない。
マノンは、ただ恐怖の涙を流すことしかできない、生きた置物へと成り果てた。
「保管庫送りですね。αでいいや。」
「マノン……っ!」
しかし、ステアはもう結晶化したマノンには興味を失ったかのように、手帳から顔を上げてその剥き出しの右目を、俺の檻へと向けた。
「ひどいデータですね。人間というのは本当に脆い。……さて、次はアドラさん、あなたの番です」
ステアが俺の牢の鍵へと、小さな手を伸ばした。
カチャリ、と無機質な金属音が牢に響く。
ステアが俺の牢の鍵を開け、白衣を揺らしながら一歩、中へと足を踏み入れてきた。
その手には、無色透明な液体が入ったフラスコと、古びた鉄の漏斗が握られている。
「や、やめろ……ステア! 俺の加護は外部からの攻撃を無効化する! そんなものを飲ませても無駄だ!」
壁に背中を打ち付けながら俺は必死に声を絞り出した。
だが、ステアの眼帯のない右目は、ガラス玉のように冷たく俺を見つめるだけだった。
「ええ、知っています。外側からは完全無傷。ですが、内服液による内部からはどうでしょうか?
はい、お口を開けてください」
「うぐ、あ……っ!」
俺の顎を、ステアの小さな手が信じられない力でこじ開ける。
冷たい鉄の漏斗が無理やり口内へと差し込まれ、ドロドロとした薬品が喉の奥へと一気に流し込まれた。
「げほっ、ご、ぼっ……!」
筋肉痛のような、それでいて狂気的な熱と激痛が走る。
全身の骨がミシミシと不気味な音を立てて軋み始める。
人間の形を保てなくなるほどの猛烈な拒絶反応。
肉体が悍ましい別の何かへと作り変えられていく感覚に、視界が真っ赤に染まる。
――そのはずだった。
「……は?」
すっと激痛が消え去った。
焼けるようだった肉の痛みも、骨の軋みも、跡形もなく消えていく。
俺の肉体は、変異するどころか、髪の毛一本すら乱れていない綺麗な状態のまま、何事もなかったかのように静まり返っていた。
「……奇妙ですね」
ステアは俺のすぐ隣の牢へと視線を向けた。
「なるほど。そちらのアルマさんの護衛の加護ですか。主の受けた肉体の変異や呪い、そのすべてのダメージを自分の肉体へ強制的に転送しているのですね」
ステアの言葉に、心臓が凍りつく。
俺は血の気が引くのを感じながら、アルマを見た。
「あ、が…あああ、あ、あぁぁあッ……!!」
アルマが、冷たい石の床に爪を立て、のたうち回りながら絶叫していた。
彼女の全身の皮膚がメリメリと裂け、骨が異常な方向に折れ曲がっていく。
ドス黒い肉塊が衣服を破って溢れ出し、彼女の身体を内側から作り変えていく。
俺と結ばれ、恋仲になったことで、より強固に、より深く繋がってしまったアルマの護衛の加護。
それが、俺の体内に流し込まれた変異と激痛を、リアルタイムですべて、身代わりに吸い上げてしまっていた。
「やめろアルマ! 加護を切れ! 頼むから加護を切ってくれ、アルマ!!」
俺は隣の牢との間の鉄格子を拳で叩きながら、狂ったように叫んだ。
だが、怪物へと作り変えられていく肉体の中で、アルマの濁っていく瞳だけは格子越しにまっすぐに俺を見つめていた。
恋人となった俺を、何が何でも死なせたくない。
その愛と加護の暴走が、彼女の理性を完全に奪い去っていく。
彼女は俺を無傷に保つためだけに、最期の瞬間まで、自分の肉体が化け物になるのを受け入れていた。
「素晴らしい愛ですね。非常に興味深いサンプルが取れました」
ステアは表情一つ変えず、手元のノートに羽ペンを走らせる。
やがて、アルマだったモノの絶叫が止み、そこにはただ不気味に蠢く、理性のない異形の怪物が完成していた。
「実験は終了です。」
「えーっと…こいつはδで。」
ステアは、アルマだったモノを大きめの虫かごのようなものに入れて、
その幼い体に似合わぬ力でマノンを抱えて去っていった。




