とある侍女の独白
庭師が丹精込めて手入れを怠らないせいか、雪解けるとともに、鮮やかな新緑の若芽が、仏頂面にも似た無粋なこげ茶色の枝の各所から派生する当家の庭は、花が咲き誇る頃になると、誰もが褒め言葉を漏らさずにいられないほど、芸術的なものでございます。
こと、桜の大木は、ひときわ抜きんでた美しさと麗しさで春を彩るのです。
この庭を好きなとき、好きなだけ眺めていられることは、このお屋敷に勤める人間の特権ともいえましょう。
先日、暦の上では春を迎えたばかりでございます。
日差しがやわらかく注ぐ庭で、のんきに口を開けた間抜けヅラ、ではなく、まったくもって無防備なお姿で寝ていらっしゃるのが、私の主人に当たります紺爵の地位を持った当家の当主、灰簾さまでございます。
ここ、錬藍国において、爵位は色で表されるのがしきたり。
上から紫、紺、青、蒼、碧という順になっており、国主が紫であることからも、灰簾さまの地位はさっしていただけるものと存じます。
暦の上では春にさしかかったとはいえ、いまだ吹く風に冷たいものは多く含まれている時節でございます。
このクソ寒いときに、庭で寝るという暴挙にでるご当主は、頭の中身がさぞかしカラッポ、ではなく、おそらく風邪も逃げ出すほどの軽い脳みそしか持ち合わせのない、きわめて残念なお方とも言えましょう。
時にはまだ粉雪が舞う外よりも、私は暖かい室内のほうを好みますので、ここ数刻ほど、灰簾さまのお姿を自室の窓辺よりそっと観察、ではなく、見守っておりました。
「泗水どの、灰簾さまをお見かけしませんでしたでしょうか」
ノックもせずに乱入、ではなく入室してきたお方は、当家当主の補佐にあたります彩蓮さまにございます。
この方に関しましては、もともと商家の三男坊だったそうで、幼少学校のみぎり、灰簾さまのご学友であらせられましたものを、先のご当主のお目にかなったそうで、灰簾さまとともに上級学校へと進学なされたとのことでございます。
もちろん、学費等の費用は紺爵家が負担いたしております。
爵位のない民草にとって、これは名誉なことといって間違いないでしょう。
彼はいまだ、上級学校へと通う灰簾さまと同じく、学生の身ではございますけれど、れっきとした使用人の一人であり、休日は雑用を申しつかっている者でございます。
「彩蓮さま、ごきげんよう。まずは落ち着かれて、お茶でも召し上がってはいかがでしょうか。なにごとも、まずは冷静になることが一番肝要でございますよ?」
私は心広くも、招いた覚えのない不躾な訪問者に、挨拶とお茶をすすめるという、ごくごく一般的な対応をいたしました。もちろん、笑顔も忘れることはございません。
侍女たるもの、愛想笑いを身につけることは、礼儀作法以前の必須項目でございます。
「そんなことよりも、灰簾さまを存じ上げませんか?」
ええ、まったく失礼にもほどがあります。
私のお茶をそんなこと、と一蹴したあげく、執拗に同じ質問を繰り返すなど、無礼千万な振る舞いと申し上げるほかございません。
灰簾さまを探し回ることは、百歩譲ってお役目と享受することも可能でございますが、女性に対する態度として、これまでの言動は何一つ、最低ラインを超えるものではございません。
「あら、そもそもなぜ、私などに灰簾さまの居場所をお聞きになられるのでしょう。灰簾さまの側近は彩蓮さまでございましょう? 私などよりもお心当たりがおありになるのではありませんの?」
「おや、乳姉弟として育ったあなたのほうが、わたしなどよりも数倍、ご当主に対する理解が深いと思ってお尋ねしたのですが、見当違いだったようですね。見込み違いでした」
口の端をゆがめるように笑う彩蓮さまは、まるで悪党のように凶悪な面構えでございます。
「お役に立てず、申し訳ございません」
微笑んでお答えすると、彩蓮さまは訝しげな表情を一瞬浮かべはしたものの、踵を返して退出しようとなさいます。
「ときに彩蓮さま」
「なんでしょう」
「この時節に、日差しが溢れる場所とはいえ、外で眠るというのは無謀だと思われますでしょうか」
「なんですか、その例えは。頭の足りない子供でさえ、そんなことをする季節ではないと、わかりそうなものですが」
眉をひそめて答える彩蓮さまの返答に、私はようやく満ち足りた気分になりました。
「彩蓮さまいわく、頭の足りない子供以下の行為をさなっている我がご当主によく似た方が、お庭で数刻前から縮こまって震えておいでのようですわ」
すっと視線を移す先を、彩蓮さまも捕らえられたのでしょう。
一瞬で私の傍にある窓辺にかけより、きれいに磨き上げたばかりの窓に手のひらをべったりとはりつけ、掃除の成果を台無しになさるだけの意味のない行為をなさいます。
「あ、あなたという人は、あれをずっとここから見ていたのですか?」
「本人の意向を尊重していただけです。それに、あのような考えの足りない方はいっそ、あのままどちらか別世界に旅立っていただいた方が、私の心の平穏になるようにも思いましたので。彩蓮さまがお探しのようですから、こっそり教えて差し上げましたものを……。心無い言われかたに、私、精神的なダメージが大きくてなりません」
視線を落とし、ハンカチでそっと目じりを押さえるころ、彩蓮さまは足音荒く退出なさって行かれました。
まったく、騒々しいかたでございます。
彩蓮さまに首根っこを引きずられるように、灰簾さまはたどたどしい足取りで、館内に連れて来られておりました。
さすがに、寒かったのでしょうか。まるで水練のあとの子供のように、青白い顔に紫色の唇でございました。
「お帰りなさいませ、灰簾さま。お昼寝は楽しまれましたか?」
「……うん。楽しすぎて、もう少しで違う世界からお迎えが来そうだったよ」
「まあ、それは残念でございましたわね」
灰簾さまの後ろで、険しい表情の彩蓮さまが「どういう意味ですか」と呟いていましたが、ここは優雅に聞こえなかったふりをするのが、大人の対応というものでございます。
「お風呂の支度が整っております。温まっておいでなさいませ」
「ありがとう。さすが泗水だね」
震える声で、それでもお礼を忘れないところは、灰簾さまの数少ない長所だと、私は常々感じいっております。
これが侍女の仕事の一つだとはもうせ、身近にいる使用人にさえ気づかいのできない主人というのは、仕えがいのない相手でございましょう。
さきほど、私の私室を無粋に侵し、あまつさえ礼儀のかけらも見せなかった誰かさんとは大きな違いだと思われませんか?
「おそれいります」
一歩下がって道を譲ると、灰簾さまは浴室へと向かわれました。
当然のように、そのあとを追おうとする彩蓮さまの腕の布地を、軽く引っ張って留めます。
「なんですか?」
眉をしかめ、嫌悪の感情をあらわに、彩蓮さまは足を止めて私を見下ろします。
ええ、わざとではございません。
身長差、というものがある以上、彼が私を見下ろす体制になるのはいたしかたないことだと、承知しております。
出会った当初は、私よりも小さかったというのに、この数年で雨後のタケノコのように、と言ったらタケノコに失礼でしょうか。あちらは食べられるかなり有能な植物であるのに対し、こちらは口先だけしか能のない動物でございますもの。
でも、人間の感情とは、理屈を超越したところで動くものなのでございます。
「私の部屋の窓を、大変汚して行かれたことをお忘れでしょうか」
私は彼に、そっと雑巾を差し出しました。
これでも、親切の大判振る舞いをしたつもりでございます。
清掃道具など、汚した張本人が用意するのが世の常識。ですが、相手によってはそれを期待できないことも、また世の常識なのでございます。
「そういうことは、侍女の仕事の一つではないのですか?」
面倒だ、と吐き捨てるように彩蓮さまは返答なさいました。
「確かに、館の掃除も侍女の仕事ではございます。ですが、私室はまったく別の話。私が少ない休憩時間をつかい、綺麗に磨き上げた労力を見事に台無しになさるとは、紳士のなさる所業とは思われません。そのようなこと、私などに言われずとも、彩蓮さまともあろう方ならご理解いただけるものと思っておりました。それに、自分で汚したものを他人に片づけてもらうなど、幼子でもない限り恥るべき行為と心得ております。そんな恥を、当主の補佐である彩蓮さまにかかせるわけにはいきません。それとも、灰簾と一緒に浴室内部にまで行かれるつもりでしたでしょうか? 私などが口にすることではございませんが、そのようにあらぬ誤解を招くような行為は、慎まれたほうが賢明かと思いますわ」
「浴室内部にまで、ついていくわけがないでしょう。それに、誤解って、どんな誤解ですか?」
「お知りになりたいと?」
笑顔で返答したというのに、彩蓮さまは私の顔を見て、すぐさま言動を翻しました。
「いや、いいです。知りたくない」
「あら、どうしてですの? 先ほど、質問なさったのは彩蓮さまではないですか」
「……貴女の顔をみていたら、ろくでもない噂だというくらいの見当はつきました」
なんと失礼な物言いでしょうか。
私の笑顔は、どのお客様にも有効で、このような反応をするのはごく少数に限ったことでございますが、極めて不愉快と申し上げておきます。
「窓ガラスの掃除でしたね。してきます」
雑巾を受け取ると、彩蓮さまはさっさと私の私室へ向かって行かれました。
その後ろ姿を見送って、私は少しだけ、後悔を覚えたものでございます。
私の部屋の窓を綺麗にしてもらうより、灰簾さまと一緒に浴室へ行ってもらった方が、男性同士の同性愛小説にはまっている同僚への良いネタ提供になり、報復措置としては有効だったのかもしれない、と思ったのです。
月に一度、私は灰簾さまとともに、王城へ出向くことを義務付けられております。ええ、私の意思などではございません。
灰簾さまは学生なれど、紺爵家の当主であらせられます。登城は当主としての義務の一つ。
年齢を理由に重責を免除、というよりも見下されているか役立たずのように扱われておりますが、ご本人がまったく気にしない鷹揚な性格のため、他家との大きな確執はないようでございます。無駄な争いをしたがる殿方にしては珍しい性分でございましょう。
王城というところは、この国一番の煌びやかな場所でございます。それは間違いございません。
真っ白い大理石の床や壁は、下女のたゆまぬ努力の成果でしょう、いつ訪れても床自体が輝いているかのような美しさ。壁に掲げられる絵画も、子供でさえも名を知るような高名な画家の作品が並び、テーマに沿った廊下には、まるでどこかに存在していた生き物を最高の状態で固定したのかと見間違いそうな彫刻が鎮座しているのでございます。
塵、埃というものが存在さえ許されないような空間は、いっそ別世界と呼んでもさしつかえないと思えるほどなのです。
そのような別世界に一貴族の侍女である私が招かれるのか、と疑問に思う方もいらっしゃることでしょう。
別に大した理由ではございません。
私、この国の第二王女殿下の遊び相手、と立ち位置なのでございます。
もちろん、王女殿下ともあろうかたのお相手となれば、相応の貴族子女が幾人も目通りをなされ、ご一緒に時間を過ごされた過去もおありだとうかがっております。血筋正しき貴族の子女の方々が、王女殿下の御心に留まらなかったのは、誰のせいでもありません。単に気質があわなかったというだけでございます。
私と王女殿下の出会いは、お手洗いの入室争いでございました。
先の御当主が健在のおり、灰簾さまとともに入城を許された私は、好奇心も手伝って、使用人たちの待合室から抜け出し、お城の中を探索しておりました。
決して迷っていたわけではありません。同じような廊下、同じような文様の扉が続き、少し戸惑っていたことは確かですが、窓の外に見える景色の違いには気付いておりました。絵画の美しさに誘われ、彫像にも見とれ、気付くといつしか見知らぬ場所に踏み行っていたのでございます。でも、さすが私、無様に泣いて誰かに助けを請うこともせず、気丈に元いた待合室を探して歩いておりました。
当然のことでございます。私が泣きわめくなどというはしたない行為をすれば、それはすなわち紺爵家の粗相、恥となるのでございます。道に迷うなどということも、あってはならないことです。そのように拙い方向感覚では、せっかく灰簾さまを落とすために掘った穴に、自ら嵌ってしまうような失態をおかしてしまうではありませんか。
私は持てうる限りの能力を駆使し、使用人たちの待合室へと向かっておりました。
行き交う貴夫人に膝を折ることも忘れません。出会う衛兵にも優雅にお辞儀をして見せました。すると、かなりの確率で、あちらのほうから声をかけてくるのです。
「まあ、小さいのに感心ね」
などと言われるのは常識です。
「どちらからいらしたの?」
「お一人なの?」
こう聞かれると、私の目的は半分以上、達成されても同じなのです。
「初めて王城へあがったのですが、見知らぬ場所で家人と離れてしまって寂しいのです。どこに行けば会えるでしょうか」
少し目をうるませて答えると、誰しもが親切に道順を教えてくれました。
いたいけな子供であっても、この程度の知恵がまわらなくては、世の中を渡ってなどいけません。
決して嘘など申しておりません。
御当主や灰簾さまと離れてしまったことは本当ですし、会いたいというもの九割ほどの偽善心が込み入っておりますが本心です。
そうして、目的地が近くなってきた頃、安堵のためか疲れのためか、所用をいたしたく思ったのです。
場所はすぐにわかりました。来客が多い王城は、言葉が通じずともわかるような絵柄で、ある程度の見当がつくようになっております。諸外国の皆様をお招きする際の必須項目でしょうか。
私は迷わず、見つけた扉のノブをつかみました。
すると、私の手を、生温かい何かが覆ったのです。
それは、他人の手でした。
私よりも小さい手の持ち主は、黒髪の女の子でした。
「私が先ですわね?」
私は遠慮なく彼女を押しのけ、中に入ろうとしました。ですが、少女は華奢な手にあわない握力で、私の動きを止めるのです。
「ここは、身分の上下で決めようではないか」
この錬藍において、濃い色彩の持ち主は大変希少なのです。
この国の祖王によって施された術により、民草に生来備わっている微細な魔力は、全てこの地に還元される仕組みだという話なのですが、真偽はわかりません。とにかく、肌も、髪も、瞳も、色素の薄い人間が圧倒的に多いことは間違いないのです。
ですが、ただ一つ確かなことがございます。
この国において、濃い色素を持つ人間は、すべからく潜在魔力が高いと証なのです。
「身分ですか? では、一つ問いましょう。あなたは貴族の令嬢でしょうか?」
「そうじゃ、王の娘ぞ」
彼女は胸を張って答えました。
「そうですか。では、その王族の生活費は、どこから出ているかもご存知ですよね?」
「むろん、存じておる。『ぜいしゅう』でまかなわれておるはずじゃ」
「では、その税金は誰が納めているかもご存知ですよね?」
「国の民じゃろ?」
「ええ、その通りです、姫様。私はその税を納めている国の民、言わば、あなた様の生活を支えている者です。王は一人で王たりえません。国は一人の民で国とは認められないことと同じです。この場合、私の納める税金でお暮しになられている姫様と、税を納めている私、どちらが優先されるか、敏い姫様ならおわかりいただけますよね?」
きっと、こんな反論をされたことがなかったのでしょう。軽く口を開けて呆けた彼女をその場に置き去り、私は当初の目的を達成することに成功いたしました。
このことがきっかけで、私は姫様の遊び相手として、周囲から見れば大変光栄な、個人的には大変迷惑な指名を受けるようになったのでございます。
「久しいな、泗水」
姫様は健やかにお育ちあそばされ、いまでは立派な淑女のたたずまいを備えておいでです。私の記憶に間違いがなければ御年十三になられるはずです。笑って私を迎えられる姿も、清楚な姫君そのものにございます。
「一月ぶりでございますね、姫様。そろそろ私、お役御免のお許しを頂きたいものでございます」
「まあ、そう言うな。座れ」
お言葉遣いだけが今でも少し男勝りなのは、世継の姫として育てられた後遺症なのでしょうか。帝王学を始め、語学や話術、社交術と、必要な学問や教養は身につけておいでなのですが、この方はなぜか、従順な城の女官よりも私のような市井に生きる者をより好んで話を聞きたがる迷惑なところがあるのです。
迷惑と思いつつも、月に一度、こうして姫様とお会いするのは、姫様のふるまわれるお茶とお菓子が素晴らしいからでございます。
私はこれ見よがしに溜息を吐き、姫様の正面の席へと腰をおろしたのです。
公式の場でなら不敬罪で牢に入れられても仕方のないことなのですが、王城へ招かれている立場の私なら、この程度は許されるのです。というより、溜息くらいでお役御免になれるのなら安いものです。ですが、その魂胆を見抜かれているのか、姫様は笑って気にする素振りもございません。まったく、お人よしなのかマヌケなのか、判断に困るところでございます。
「息災そうでなによりじゃ。紺爵殿も、壮健そうじゃな」
「ええ、身体ほどに頭の中身も壮健であれば、なおよろしいのですけれど」
「相変わらず率直にものを申すな、泗水は。だが、お主の助言はなにかと役に立つのでな。悪く思うな」
灰簾さまに対する私の評価にはあえて触れない優しさが、姫様の美徳でしょうか。
上に立つ者は、下の者の欠点を逐一気にするような狭量であってもらっては困りますが、正当な評価を無視されることも、あまり楽しいことではございません。
「あら、私は姫様に助言などという、だいそれたことをした覚えはございませんよ?」
「女官や下女の噂話を無視するのは愚かしいとか、彼女らを敵に回すようなことは慎めだとか、反対に味方につけろだとか、散々教えられたように思うが、妾の気のせいか?」
「世の中、半分は女性でございます。敵に回すよりも味方につけるのは、当然かと」
特に女性の裏切りは日常茶飯事、己が身を有利に置くために、昨日の友は今日の敵、などということは常識でございましょう。
王城内での密やかな勢力争いは、否応なく私の耳にも届いております。
ただいまのところ、財務大臣の兄を持つ女官長と、たたき上げの下女長とが反目し合っているようですが、財力と権力をもつ女官長がやや有利であるという話でございます。
女官は貴族出身で、財力や権力は大きいものですが、民草の中から選ばれてきた下女たちは数の上で有利、しかも立ち回りやえげつなさでは、世間知らずの女官の上をいきます。とても面白い勝負であると、私、感じいって観覧させていただいております。
「それはそうじゃ。お主の言うとおり、少しの配慮で妾の評判があがるのであれば利用するまでよ」
稀なる黒髪をかきあげて微笑む姫様は、とても美しく、『祖王の生まれ変わり』と称されるだけの貫禄と威厳も具えておいでです。このお姿は、同性としても眼福の極みでございます。
この国では、建国の頃よりの言い伝えがあり、王族の血をひく黒髪の娘は祖王の生まれ変わりである、と信じられております。特に、その黒髪の娘が産まれるのは、国に大事あり、と思われる時節ばかりだとか。いくたびもの国難を救ってきた黒髪の姫君は、ある意味で救世主として、民草の中では崇めたてまつられております。
「だが、泗水の力を借りても、一つだけ、今でも叶わぬことがある」
「一紺爵家の侍女の力量など、たかが知れておりますよ。期待しすぎです」
「なぜ、お会いすることすら叶わぬのであろうな。母は違えど、姉妹であろうに」
姫様は私の言い分をまったく聞いておられません。
いつものことなので半ば諦めておりますが、密かに腹立たしく思っておりますのは秘密です。
不満を言ったところで聞き入れていただけないのでしたら、気遣う労力が無駄なだけでございます。
そうそう、私の前におわす姫様は第二王女。
正室さまのお子であらせられる姫さまには、側室から産まれた姉王女が一人、いらっしゃるのです。ただ、存在は知られておりますが公式の場に出たことは一切なく、療養中という噂が一貫して王城内でも民草の間でも伝えられております。
寂しそうに呟く姫様は、視線を落とし、お茶に手を伸ばされました。
「さぐってもわからぬのなら、陛下にお伺いすることが一番の近道と存じます」
「聞いた。記憶にないそうじゃ」
なんとあからさまな避けっぷりでしょう。
そして、なんと無様な言い訳でしょう。
憮然となさっている姫様に悪いと思い、私はこみ上げる笑いを抑えるために、膝の上でさりげなく組んだ両手にひたすら意識を集中させておりました。
「我が父上ながら情けない言い分じゃ。誤魔化すにしても、もう少し他の言いようがあろう。だから凡愚と言われるのじゃ」
そのお言葉には心から同意したいのですが、相手は一国の王、しかも自国の王でございます。
不敬罪というものを恐れる私ではございませんが、実の娘を前に憚るということくらいは存じ上げております。
「ですが姫様、なぜそれほど、姉姫さまをお探しになられるのでしょう。あちらさまは表に出ることもなく、王位を求めるわけでもなく、隠遁者のような生活をおくっておられるのでしょう? 散財するという噂もお聞きしませんし、そっとなさっておあげになってもよろしいのではないでしょうか」
姫様のお立場は強固なもので、血筋的にも能力的にも問題がなく、伝承の後押しもあってか、王位後継者として広く認知されております。反対に、姉姫さまのほうは、後ろ盾もなく母たる側室さまにおかれましても既に鬼籍に入られ、精々政略の道具に使われるのが行く末だという話でございます。
「そうじゃな、これは妾の我儘じゃ」
姫様は苦笑なさると、次の瞬間、しっかりと私を見据えて口を開かれました。
「私はな、泗水、本当に幼いころ一度だけ、姉上にお会いしたことがあるのじゃ」
私は姫様に微笑んで、小さく頷きました。
「このように場違いなものを同席させましては姫様のお名に傷がつくと、何度申し上げたらご理解いただけるのでしょう」
離れていても気配がわかるのは、相手が気に入らないからではございません。
ええ、私には特別嫌悪している者がおりますが、それは秘中秘。誰にも口外出来ぬ相手なのでございます。
「これは青爵夫人どの。本日もまた白粉が大層厚いことでございますが、日よけにはぴったりですね。これほど離れているのに漂う香水の量もさぞかしおしげもなく使われたことでしょう。虫よけにはうってつけでございますね」
私はこれ以上ない角度で口角をもちあげ、相手に歓迎の言葉を伝えたつもりでございます。ですが青爵夫人どのはこめかみに青筋を浮かべて私を憎々しげに睨んでおりました。
姫様の教育係であらせられる青爵夫人は、青爵の中でも第三位にある青爵のご正室で、本人も五位の青爵家のご出身。生まれながらの貴人であらせられます。
この方は私の存在が気に入らぬようで、私が姫様に招かれるたびにこうして嫌味を言うためだけにわざわざ登城してくるのでございます。まったく、お暇な方の相手は姫様だけで十分だと思うのです。
「あら、泗水どのもあいかわらずみすぼらしい貧相な格好で、よくもまあ王宮に足を踏み入れられるものですね。私など、恥を言うものをしっているためかとてもとても恐れ多くて。そのように厚顔なところは見習いたいと常々思っておりますの」
「まあ、青爵夫人にそのように思っていただけるとは、光栄に存じます。若気の至りという言葉もございます。ええ、若いうちしか貧相な格好はできませんものね。年寄りが貧相な格好をすると老けて見えるだけにございましょう? 青爵夫人どのが私のような格好をなさると、見るに堪えない老婆がそこにいるだけ。それではあまりにお可哀そうですわ。見習いたいと思うだけになさっておかれたほうが懸命でございましょう」
周囲の女官から微かに悲鳴のような音が響きますが、私には聞こえないのです。
憐れむような視線と微笑みで、私は青爵夫人を見据えておきました。
「なっ、なっ……っ」
青爵夫人どのは言語能力が麻痺なさったように、言葉にならない何事かを呟いておりました。
彼女は忘れているようなのですが、私の主人は紺爵家の灰簾さまでございます。
それ以外の方に必要以上の敬意を払う必要はございません。ましてや、私が彼女に言い負かされるという事は、紺爵家の恥部を認めることと同義でございます。そのようなこと、決して認めるわけにはまいりません。
紺爵というのはこの国で王族に次ぐ高位なのでございます。身分による序列でいうなれば、青爵夫人が紺爵家に物申す立場ではございません。
「では姫様。私はこれで失礼させていただきます。後始末はどうぞよろしくお願いいたいますね」
「……ああ、気をつけてな」
私と青爵夫人のやりとりはいつものことなので、始末は姫様に丸投げしております。
だいたい、好きで招かれているわけでもないのに、周囲に嫌味を言われることまで甘受しなければならない理由はございません。
女の社会は歯向かわなければいたぶられるだけ。
私、一方的になぶられる趣味などございませんので、遠慮なく反撃することにいたしております。
姫様は苦笑しておられますが、青爵夫人は卒倒しそうな勢いで顔色を変化させておりました。
紺爵家はもともと王家、紫爵家の分家という存在であったそうです。
現在は多少違うのですが、この錬藍では、女性が王位を継ぐことが他国よりも多くございます。
それは祖王が女性であったことにも起因しておりますが、祖王が国難に生まれ変わるという伝承があり、それが黒髪の女性であるという前提事項がございます。
王家の女児が夫に迎えるのは、国内貴族が望ましく、そして血の近いものがより望ましいとされてきました。
その筆頭である候補が紺爵家の男児にあたるのです。
平時はつつがなくすぎる事柄ですが、現在の王家にあるは女児が二人、そのうちの一人が黒髪の『祖王』。
この生まれ変わるといわれている『祖王』には腹心と呼ばれる部下がおり、彼らもまた『祖王』とともに錬藍に産まれ出でると言われております。
事実、歴史を紐解きますとその存在は明らかであり、複数の腹心の名が知られております。
有名な方々ですと『宰相』と『魔術師』でしょうか。
王家に黒髪の女児あらば、この二人は必ずどこかに存在すると言われております。
まるで珈琲についてくるミルクと砂糖、紅茶に添えられるレモンと蜂蜜、酢豚に入るピーマンとパイナップルのように、いかに目障りであろうとも人生が同梱包されているようです。
そしてこれが重要箇所なのですが、このなかの『宰相』は常に王家に繋がりのある家に生まれ出でると言われております。
現在、王家にある二人の姫君を除けば、紺爵は灰簾さま唯お一人しかおられません。
もともと紺爵の爵位をもつ家は少なかったようなのですが、私が産まれる少し前に流行病があり、かなりの人が病で亡くなったようなのです。
困ったことに、他にあった紺爵家が断絶した理由の一つだったようでございます。
紺爵家は三家ございました。
第一位紺爵、第二位紺爵、第三位紺爵と呼ばれておりましたが、ただ一家しかない現状では紺爵家としか呼ばれません。
かつて第二位と呼ばれていた先代紺爵家の当主は、灰簾さまの父上でございます。
彼の政治手腕はかなりのもので、弁舌一つで戦を回避したという過去は有名でございました。
黒髪の姫君が産まれた時、腹心である『宰相』は彼ではないかと噂されたほどでございます。
ですが先代がお亡くなりになられた今、灰簾さまのお立場は色々な意味で厄介なものになりました。
まず、黒髪の姫君であらせられる方の婿候補でもあり、唯一残る紺爵家の当主でもあり、これから生まれるかもしれない『宰相』の親になる可能性のある人物なのでございます。
愉快な事に、灰簾さま自身が『宰相』であるかもしれないとは誰も思わないようでございます。まあ、学院での成績もさして振るいませんし、言動もぼんくらのようでございます。これから変化しないとは言い切れませんが、周囲の評価は凡愚でございます。
また、『祖王』配偶者候補である灰簾さまに娘を嫁がせようとしても王家への反逆とみなされかねませんので、無駄に近寄る貴族もおりません。
爵位自体が高位であるため、無下にするにもいかぬ厄介な人物。
これが王宮における灰簾さまのお立場でございます。
その灰簾さまは、王宮にあてがわれた専用の室で、呑気に寝入っておりました。
姫様と別れて戻ってた私にも気付かぬほど気を抜いて、狐狸のごとく老獪な貴族にいつ寝首をかかれるかもしれぬこの王宮にて、昼寝をするとはどうしたことでしょうか。
「お起きくださいませ、灰簾さま」
私は灰簾さまが寝ている椅子を蹴り飛ばし、床に転がった灰簾さまの腹部を思い切り踏みつけました。
ぐげっと踏まれた蛙のように濁音だらけの音を発し、灰簾さまは目を覚まされました。
「あれ? 泗水、もう戻ってきたの?」
「はい。さ、いつまでも床になど転がっていないでさっさとお立ちください。帰りますよ」
「う、うん。あのさ、この部屋にいるの、僕と泗水だけかな」
「それ以外の何かが見えるのですか? でしたらお医者様でもお呼びいたしましょうか? はぁ、灰簾さまの長所は医者いらずの頑健な身体だけだと思っておりましたのに、取り柄がなくなりましたわね」
「いや、そうじゃなくて、なんかこう、腹を撃ち抜かれたような衝撃が走ったから。医者は呼ばなくていいよ」
さすがは王宮。
灰簾さまの腹部に私の靴底が残るということはありません。完璧な掃除が行き届いております。
首をかしげながら立ち上がった灰簾さまに、私は「かしこまりました」とだけ申し上げました。
城下でまことしやかにささやかれている噂を耳にしました。
『賢人』が見つかったとか。
当人の記憶があるという人物がいるとか。
噂の真偽はともかく、見つかってもおかしくない人物ではあるのです。『祖王』がいるのですから。
私は個人的に、生まれ変わりというものを大層疑わしく思っておりますが、周囲が信じているものを否定するほど愚かではありません。
姫様を見ておりますので、生まれ変わるという事象そのものは否定しません。
ですが、過去の記憶があるから『賢人』と認められる。そのことがおかしいと思うのです。
過去は過去の業績であり、最初から『賢人』であるはずかないと思うのです。
『賢人』というのは『祖王』の部下であった人物の生まれ変わりを総称するものであり、過去の地位と名が『賢人』の位になります。
『宰相』や『魔術師』は『祖王』の片腕として有名ですが、それ以下の『賢人』は滅多に聞きません。
「でねぇ、うちの父ちゃんが遠くに見たっていうんだ。凄くない?」
にへらと顔を崩す彼女は、下働きとして紺爵の家に通う下女の一人。
本来なら侍女たる私が相手をするような人物ではないと思われがちですが、私は彼女の事を個人的に気にいっているのです。主に口が軽い所が。
侍女には最低限度の教養と立ち振る舞いが求められるのですが、下女に求められるのは健康な身体だけ。そのぶん、賃金も格段に違いますし待遇も違います。それを気にしてか下女の方々は侍女の前で口をつぐむものが多いものでございます。でも、彼女はお菓子を与えると唇に油を垂らしたのかと思うほどよく喋るのです。
「ええ、凄いですわね。それで、『賢人』はどのような方でしたの?」
なにが凄いのかわりませんが、とりあえずは同意して続きを促します。
彼女の父親は行商人で、行動範囲が広く、拾ってくる噂は王都内に留まらないのです。
「うんとね、金髪で色白で背が高くて格好良かったって言ってた」
全く参考にならないどうでもよい情報で、いささか気落ちしました。
「でもね、顔に大きな傷跡があって残念だったとも言ってたよ」
「顔に大きな傷跡ですか。それはお気の毒な事ですわ」
男女問わず、容姿というものは武器の一つになるものです。その武器が最初から残念であるのならともかく、後発事項で損なわれるのは本当に気の毒な事だと思います。
「父ちゃんもそう言ってた。あれが男じゃなかったら表に出られないだろうって」
ああ、その方の性別がようやく判明しました。
まあ、男性の方でしたら多少の傷でも差し障りはないでしょうね。あくまでも女性に比べて、の話でございますが。
「で、どちらの所領でお見かけしたの?」
「爽西国だよ、泗水さま。あれ、知らなかった? 錬藍の『賢人』が隣国で見つかるなんて、って話が広まってるの。王族でもなく、端っこの領主の末息子だったんだって。しかも、落馬した拍子に頭打って、気がついたら記憶が戻ったとかで大騒ぎ」
爽西国は錬藍国の属国とでもいうのでしょうか。
かつて錬藍の地であった場所に住みついた移民が独立運動をおこし、主権の一部をもぎ取った小さな国でございます。
とはいえ、なんと間抜けた方でございましょうか。
落馬して頭を打ち記憶を取り戻すなど、言語道断でございます。それならいっそ、別の世界へ旅立たれたら良かったものを。
「それはまた、面倒な所で面倒な方が見つかったものですわね」
『祖王』の配下である『賢人』ならば、錬藍で厚遇されるのが常でございます。
他国、それも属国の貴族にあるだけの子息が、まかり間違うと錬藍の王配になる可能性もあるということは喜ばしくありません。
私は残っていた手持ちのお菓子をすべて彼女に押し付け、今後もこの『賢人』の噂を集めてくるようにお願いする事にしました。
彼女は素直に頷き、嬉しそうにお菓子の包みを抱いて去って行きました。
下女から聞いた噂はかなり広く浸透しており、錬藍としても無視できるものではありませんでした。
真偽を確かめに爽西国へ赴く使者に灰簾さまが任じられたのは、単に暇を持て余しているからでしょうか。
学院に通っている身ではありますが、卒業後は政治に携わることになるお方です。血筋柄、中央での席もすでに確保されておりますし、引き続き所領を治めることも必要になってきます。
そうなのです。灰簾さまの残念な頭でも治められるほど、紺爵の家には優秀な家人が揃っているのです。
先代様の手腕と人徳でしょうか。
所領の管理は筆頭執事が地方へ赴き、最低でも灰簾さまが学院を卒業なさる来年度までは彼に全責務がゆだねられているのです。
「泗水も一緒にくる?」
「当然のことをお聞きにならないでくださいませ」
冷やかな視線で見つめると、灰簾さまは「ごめん」と言いながら食事を再開なさいました。
こうした重要案件を書斎ではなく食堂でなさる思慮の足りなさが愚鈍といわれる一端でありましょう。
「泗水どの。我等が行く先は女性を伴って行けるような場所ではありません。どうかお控えください」
「あら、私はいつから彩蓮さまに指示されるような立場になったのでしょう。とんと記憶にございませんが」
「記憶だの立場だのはどうでもよろしい。危険な場所に赴くと申し上げています。そろそろ泗水どもの当主離れをなされたほうがよろしいかと、僭越ながら助言いたします」
本当に無礼で余計な物言いです。
ですが私の眼力など跳ね返す意思を持った視線で、彩蓮さまは私を見ておりました。
「当主離れとは人聞きの悪いことをおっしゃいますわね。私、灰簾さまに特別付きまとったおぼえはございません」
私にはかつて、専属の騎士がおりました。
正確には騎士志望だったもの、と言うのでしょうか。
乳兄妹として、乳母の息子として、常に私の傍で育った者にございます。
彼は愉快にも、私の身代わりになるがごとく、常に女装を強いられておりました。
しかし、その過程はさておくとして、彼は誰が見ても清楚な少女そのものだったのです。
薄い茶色の髪、同色の瞳、礼儀作法と教養、所作に立ち振る舞い、そのどれ一つとして、私は彼に敵わなかったのです。そして、もてはやされっぷりもまた、美少女として群を抜くものでした。
私と彼が揃って立つと、誰もが彼の方に視線を移します。
同じ姿勢で似たような礼をしても、彼の方が数倍優雅に見えるのですから仕方ありません。
ですが当然、私は面白くありませんでした。
「ふん、だ。咲良なんて、そのままどこかにお嫁に行けば良いのよ」
「そんなことできないよ。だって僕、男だもん」
彼がそんな口調で話すのは、私と乳母の前だけでした。
そんな些細なことが、私にはとても誇らしく感じられておりました。
「それにもう、そろそろこんな格好、無理だろうしね」
「そんなことないわよ。咲良なら、いくつになってもドレスがきっと似合うわ。なにせ、本当の女性の私より女性らしいもの」
「それは、常に気をつけているからだよ。女性に見えないと、色々問題があるでしょう? も、僕を見習って作法を真面目に習得すれば良いんだよ」
彼の穏やかな口調でいさめられると、この私であっても思わず素直に頷いてしまうのです。
ある意味、彼は脅威でした。
誰よりも私を知り、その環境を理解し、そのうえで同情ではない気持ちを寄せてくれたのです。
別れの時期が近いことは、なんとなく察していました。
十代前半だったその頃が、おそらく性別を偽る限界だったのです。
「咲良が男の姿に戻ったら、簡単には会えなくなるのね」
頭では理解していても、いざ、その時が近づくと寂しさが募ってきました。
本当は、もっと前に気付いていたのです。
少し前まで同じくらいの体格だったはずなのに、いつの間にか彼の手や腕が大きく伸びていくことに。しなやかな所作で覆い隠していても、時折見せる眼光の鋭さや体力の違いに。
ただ、私は気付きたくなかっただけなのです。
「少しだけ、待っていてね。必ず戻ってくるから。そうしたら、僕を の専属騎士にしてくれる?」
私は驚いて彼を見上げました。
「咲良は騎士になるつもりなの?」
「うん。剣の型もいくつかはできるようになってきたし、勉強も始めているよ」
そういうことではなく、私は彼のきれいな顔に傷がつくような仕事に就いてもらいたくなかったのです。
「怪我したり危ない場所にいったりするのよ、騎士は」
「そうならないように強くなるよ。そして、 の傍にずっといるから」
「でも……」
「そういうときはね、ただ頑張ってって言ってもらえるほうが、やる気でるんだけどな」
笑って促されると、私は渋々求められる言葉を口にせざるをえませんでした。
「じゃあ、顔にだけは怪我しないように頑張って」
「なんで顔限定?」
「だって私、咲良の顔が好きなんだもの」
思い返せば、あのころが一番幸せでした。
もちろん、いまも幸せです。
思い出だから永遠に色褪せることなく、輝きを増すのだと言われてしまえばそれまでです。
でも、私はあの時、誓ったのです。
紺爵家の庭にある、桜の大木を見上げると、いつも彼の笑顔を思い出します。
あの花のように可憐で儚く、一時の幻のような時間を思い出すのです。
「泗水。また、ここにいたんだ」
庭で感傷に浸っていた私を現実に引き戻す声は、灰簾さまのものでした。
「休憩時間に私がどこでなにをしていようと、私の勝手でございます。邪魔をしないでくださいませ」
「ああ、邪魔してごめんね。でも、そろそろ風も冷たくなってくる頃だし、屋敷の中に戻ろうよ」
気付くと空が茜色に染まり、外套が欲しいような冷たい風が吹いておりました。
これは不覚でございます。灰簾さまごときに気遣われてしまうとは。
「泗水は、……好きなんだね」
「なにがでございますか?」
「うちの庭、かな?」
「そうですね。見事なまでに美しい庭だと思っております。今のなにも誇るもののない紺爵家において、唯一誇っても良いものかと。見ているだけで心が休まります」
「そうか」
灰簾さまの真意は、時折はかれないことがございます。
気付いているのかいないのか、それすらわかりません。
ですが、それは私が知らなくても良いことです。
「はい。城などという不相応な場所に出向いた後、癒しの時間は必須にございましょう?」
「そうだね。今度城から帰った時には、僕も一緒に癒されに来ようかな」
「とても邪魔で迷惑です。時間をずらしてお願いします」
心底本心を告げると、灰簾さまは驚いた顔をしてその場に立ちすくまれておりました。
私は置物のようになった灰簾さまを放置し、一人屋敷の中に立ち戻ったのでございます。
その男は、常に上段から私を見下ろしていました。
幼いころから知るその姿は、年齢相応の容貌、豪華絢爛な衣装をまとい、常にかしずかれているはずなのに貫禄はなく、どこか色褪せ、退廃的な印象が隠せません。
私は、定期的に訪れるこの時間が、とても窮屈で退屈で、嫌悪しか感じがことがないのですが、相手にとっては違うようです。
「そろそろ、お前も年頃だと思うのだ」
思い出したように口にしたそれは、我が子へ向ける情を一切感じさせず、ただ決定事項を告げるだけのような口ぶりです。
「お約束が違いますね、お父様」
「隣国から打診があってな、我が国と修好を結びたいそうだ」
だから、手っ取り早く婚姻というのが、さすがにお父様らしい短絡的なお考えだと思います。どうせ、魅力的な貢物があったに違いありません。
「私の対価はいかほどだったのでしょう」
「箱いっぱいの宝石と、生きた宝石というところかの。お前の価値にしては上出来だと思わんか?」
その程度の軽い頭なら、耳の穴から脳髄ひきだして、かわりに残飯でも詰め込んでおけばいいのに。
「まったく思いませんね。すぐ、お返しくださいませ。嫌だというのなら、私も相応の覚悟を持って事にあたる所存です」
「だがな、お前はこの国の王女なのだぞ」
「大変迷惑なことに、そのようですわ。お父様がどれほど無能でも国王である以上、私は王女ということになるのでしょうね。ですがあの時、確かにお約束したはずです。これも都合よくお忘れですか?」
私の視線をうけ、慌てふためくさまは醜悪の一言に尽きるものでした。
なぜこの男が、私の生物学上の父なのか。
なぜこの無能な男が、一国の国主の座にあるのか。
世の中、不可解なことが多くてたまりません。
「私は決して忘れません。忘れたくありません」
向けられた刃の鈍いきらめきと、流れた温かい血の感触。
震えることしかできなかった脆弱な自分と、交わした小さな約束。
「あの家は、余が保護すると言ってもか」
「言うに及ばず。私を王族の一員として動かしたいのなら、お父様の代では無理です。あの家の基盤が盤石なものとなるまで、私は動くつもりはありません。無駄な期待はなさらないことです」
言いたいことだけ言い捨てて、私は席を立ちました。
この場に誰かが同席していようとも、同じことを言ったでしょう。
私にとって、大切なことは一つしかないのです。
「あれもお前に会いたがっておる」
扉の前に立つ私の背に、お父様の声が届きました。
「毎月、会っておりますでしょう? ああ、記憶にないとはまた、滑稽な言いわけですね。あれで一晩は枕を涙で濡らすほど笑えました。これからもその、貧相な脳みそで精々愉快な戯言を考えてくださいませ。ごきげんよう」
振り向くことなく、私は答えて退室しました。
何度問われても、返答が変わることなどございません。
私があの家を出れば、お父様は迷わず爵位を取り上げ、取り潰すことでしょう。
王家の秘事を知っている、その証拠を握っている家を、むざむざと見過ごすはずがありませんもの。
灰簾さまはまだお若い。お父様がいくら無能とはいえ、側近のすべてが無能なわけではありません。命じられれば何かの罪くらい、簡単に捏造できるでしょうし、暗殺することも容易なはずです。
灰簾さまがお父様ほど無能とは思いませんが、それでも、経験のある者に後れをとることは必至。
毎月、私が王城へ通うのは、姫様の相手だけが理由ではございません。
この無能で怠惰で凡愚な父親に顔を見せるための口実、なのでございます。
妹が産まれたと聞いた時、その子が『祖王』の印を持っていると聞いた時、私は嬉しかったのです。
これで私は、この城を抜け出ることができる。好きは場所で好きなように生きられる。単純にそう思ってしまいました。
自分が誰にも期待されていない存在だとは気付いていました。
それでも、城にとどめ置かれたのは、王統の一員であるからです。他に父の子がいなかったからです。
私の母は、城の下女でした。ただ、美しいだけの人だったようです。
王の寵を受けるというより、わけがわからないうちにこうなった、という感じで、おそらく閨の知識もない年齢でお父様に遊ばれたのでございましょう。最悪なのは、子供ができてしまったことでしょう。側室という立場は与えられたものの、十年後に嫁いで来られた正妃さまと扱いは雲泥の差でした。
貴族である女官にさえ劣る知識と立ち振る舞い、後宮の隅に与えられた部屋で、日がなぼんやりしていた記憶しかありません。
記憶にある母は、優しい人でした。
ただ優しいだけでは生き残れないのが貴族の社会です。
私が産まれた時、乳母と言う形で紺爵家の奥方様が後宮へあがり、母の傍につきました。
私の乳母兼、母の教育係のようなことをなさっておられたように覚えております。
なにも後ろ盾を持たない母の助力を申し出てくださったのは、その紺爵さまのみであり、実際に手を貸してくださったのはその奥方様である乳母だけでした。
母と違い由緒正しい血を誇る貴族の奥方にしては、まったく気負うことのない人柄と、毅然とした態度で女官を指導する紺爵家の奥方様は、貴夫人という言葉がぴたりと当てはまる素敵なご婦人でした。
人を避けるように暮らしていた母が、唯一心を開ける友人であったとも聞いております。
ですから、紺爵家の子である咲良と私が一緒に育ったことは、当然であったのです。
咲良が後宮で女として育てられたのは、紺爵の奥方様が一時的な里帰りの際、第二子を身籠られたためでした。
紺爵さまの縁者が二人とも後宮を辞すことは、当時なんの後ろ盾もない母を一人、敵地に残すようなものでした。ですから、苦肉の策として、咲良を残していかれたのです。
一応、後宮ですから、子供であっても男が存在しては困ります。
私の遊び相手として、咲良は一人、後宮に残ってくれたのです。
母がほどなく病で倒れ、鬼籍に入っても、私はさほど悲しくありませんでした。
お父様に相手にされなくても、女官に冷たく扱われようとも、存在を無視されようとも、あの時の私は咲良がいれば平気だったのです。
ただ、王女として、最低限度の教師はつけてもらっていました。
覚えが良かったのは咲良のほうですが、それが気に入らないという生意気な女官は大勢おりました。彼女等が咲良に魔手を伸ばそうとするのを、阻止するのが私の生き甲斐でした。
腐ってもうらぶれていても、後宮で私は王族でした。
どれほど女官たちの冷遇にあっても、無視されるということはありません。
王妃さまが嫁いでいらっしゃる前ならなおの事です。
れっきとした後宮の主はおらずとも、一目で王統であるとわかる私は母が亡くなったあと、母と過ごしていた宮を正式に与えられ、王女として認められておりました。
母の身分が卑しくとも、王の子です。しかも当時は唯一の子でした。
ですが、咲良は違いました。
紺爵さまは、王宮内で苦しいお立場に立たれていたと聞いています。
母の後ろ盾となったことも一因ではありますが、それ以上に奥方様の存在が紺爵家を脅かしていたそうです。
紺爵家の奥方様はもともと、隣国の姫君であらせられたとか。
本来、国主である王との縁談が持ち上がっていたはずであったのに、姫君は隣国へ留学中であった紺爵さまに惹かれ、半ば強引に嫁がれたとか。
そのような過去があり、紺爵さまは王から冷遇されていたそうです。
まったく、あの奥方様は人を見る目があったと称賛するべきでしょう。中身のない国主など飾りよりも性質が悪いのです。
そして、当時の私は愚かにもそのような背景をなにも知らなかったのです。
私への鬱憤は、すべて咲良に向いて吐き出されていたのです。
その報復を練り、考えて実行すると、殆どの女官は退城してゆきました。
なにせ、証拠を残さず、実際に手を出さず、真綿で首を絞めるように報復していったのです。
私はここで、権力と女の性を利用するということを、嫌というほど学びました。学問はそれほどではなかったのですが、人間、必要に迫られるとかなり頭が働くものです。
ですから、噂の流し方、利用の仕方、立ち振る舞いの必要や愛想笑いというものは、年齢の割にかなり年季が入っております。
「姉上には一度しかお目にかかっておらぬが、淡い金髪に紫水晶のような瞳を、いまでもはっきりと覚えておる。そう、お前のようなお方だった、泗水」
「それは、とても光栄に存じます」
さぐるような眼差しの姫様に、私は笑って答えました。
姫様がお気づきなのかどうかのか、それすらも私にとってはどうでも良いことでございます。
あの日、咲良の帰宅に女官の扮装で同行したのは、悪戯心からでございます。
二人で外出する、ということは普通なら叶いません。ですから、咲良が退城してしまう前にただ一度、一緒に城を出てみたかったのでございます。
咲良を迎えに来た乳母は、一目で私を見抜きましたが、笑って許してくれました。一緒に紺爵の家へ向かう途中で、何者かに襲われたのは、不幸な偶然でございましょう。
そう、偶然であれば良かったのです。
乱れのない統率、無駄のない剣さばき。そして、いとも簡単に殺されていく供の者たち。
紺爵の奥方様が馬車に乱入してきた賊に一刀で突き刺されたのは、私達二人を両手に庇っていたからでしょうか。
私はその賊の顔を正面から見て、動くことができなくなりました。彼もまた、私を見て一瞬ためらったのです。
そう、私の瞳は王族特有の色。紫紺の瞳の娘がいる馬車と、彼は知らなかったのでしょう。
そして私も、見知った顔に愕然としておりました。彼は、お父様の近衛だったからです。
恐怖で動けなくなった私を咲良が突き飛ばしました。そして、同時に、彼に飛びかかって行ったのです。
二人は私の目の前で、馬車から落ちて行きました。
我に返って外に出ると、血まみれの咲良がうめいておりました。
見知った賊の姿はなく、私は彼に見逃されたのだと察しました。
咲良は背中に大きな切り傷を負い、とても動けるような状態ではありませんでした。
「無事で良かった」
咲良は私を見て、苦しそうに笑いました。
「約束通り、顔に傷はつくらなかった」
そして、どうでもいい約束を守ってくれていました。
「紫澄、……どうか、守って。僕の弟が成人するまで、あの家を」
咲良も察したのでしょう。賊の正体と、その後ろにいる人物が誰なのかを。
紺爵さまと政策で対立していたとも聞き及んでおりましたし、後宮の事情の口封じとも、いかようにも考えられました。
凶事を聞いて駆けつけてきた先の紺爵さまは、私を見て驚いておりましたが、事情説明と保護を求めると快く受諾してくださいました。
お父様への牽制に、私の身柄は最適だったのでしょう。
私の身分は、その時より紺爵家の侍女にございます。
名を変えたのは、生来の身分が知られてしまうからでございます。
紫の字は、王族の証。瞳の色もまた同じことなのです。
光の加減で紺にも見える微妙な色彩であったため、紺色であると押し通して生きてまいりました。
奥方様は紺爵家の墓地に埋葬されましたが、咲良はかないませんでした。
紺爵の嫡男が、王家の近衛に殺された、という外聞は封じなければなりません。ですから、公式には紺爵家嫡男は病死とし、病の都合で埋葬ができなかった、という形をとられました。そして、咲良の遺体は屋敷の庭に埋葬されたのでございます。
私の存在を聞きつけ、お父様が使いを寄越したのは、思っていたよりも早い時期でした。
さすがに、現場を見ていた娘に無駄な弁明を重ねなかったことだけは、褒めて差し上げても良いかと思いましたが、戻ってこいという言には決して首を振りませんでした。
咲良との約束がございます。
なにより、このまま私が王城へ戻れば、紺爵さまのお立場が危うくなるのは自明の理でございました。
「紺爵の次期当主が成人するまで、第一王女は公式の場に現れることも、利用することも許さない。もし、違えればお父様の罪状を申し開きのできない形で世間に公表する」
これが、私とお父様の約束でございます。
あと、数年の猶予がございます。
それまでに、あのぼんやりぽやぽやした灰簾さまを、どうにかして老獪な狸たちと渡り合えるだけの若者に仕込みあげねばなりません。
これが目下、頭を悩ませるほどの難題でございます。
あのひどく鈍い呑気者を、狡猾に変貌させる手立てというものを、私は存じません。
ですが、真実をつまびらかにすることもまた、できない相談でございます。
酷い虚脱感を覚えつつ退城し、紺爵の屋敷へ戻った私は、庭の桜の根元へ直行し、思わず抱きついたのでございます。
ふわりと宙に浮く感覚に、深く眠っていた意識が目覚めました。
意識だけは戻っているのですが、身体を動かすのはなにか億劫で、ぼんやりとしたまま頭上に聞こえる声を拾っておりました。
「重くない? 彩蓮」
「はい。このくらい平気です。しかしまた、なんでこんな場所で眠っていたんでしょうね、泗水どのは」
灰簾さまと彩蓮さまの声が、うっすらと聞こえます。
「たぶん、お城で嫌なことがあったんだと思うよ。あそこは見てくれは綺麗なんだけれど、優しい場所ではないからね」
的を射ているのが何やら口惜しくなるほど、灰簾さまの推測は当たっておりました。
「泗水どのが、ですか? この鋼鉄級の精神力を誇る人間が疲れるような場所なんですか、あそこは」
彩蓮さまの私への評価はこんなものなのか、と奇妙に納得して聞いております。
「権謀、策略、隠密、噂、まあ色々あるよ。それに、『祖王』の復活。楽な時代じゃないってことだよね」
そう、国の乱れるときに復活するのが『祖王』なのだから、平穏であるはずがないのです。
「今は『祖王の配下』を探すことに必死みたいだよ、上の人達。『賢人』だったっけ? 『祖王』と同じく転生するって腹心達。まだ、一人も見つかっていないんだって。変な話だよね。同世代に数人はいるんでしょ? あの有名な筆頭の人、誰だっけ」
「『宰相』と『魔術師』ですか?」
「あ、そうそう。その二人。血眼になって探しているんだって。特に『宰相』のほう。その人、王家の傍系に多く出るんだってさ。しかも、きまって『祖王』よりも年上なんだって。だから、うちも血族集めて調べろってお達しがきたばっかりだよ。でもさ、血族らしい親戚、ほとんどいないからね」
紫を司る王族の次に、始祖の血が濃いのは紺になります。ですから、可能性で言えば灰簾さまも『賢人』の血が多く流れているはずなのです。そうはちっとも見えないボンクラですけれど。
「でもさ、『祖王』と違って『賢人』って目に見える特徴らしいものは一切ないらしいよ。当人の記憶だけなんだって。だから結局は、自己申告を待つしかないってことだよね。まあ、『祖王』には見分けられるって話だけれど」
「そうなんですか」
奇妙な浮遊感のなかで聞こえる会話は、夢か現か迷いそうになります。
本当に、すべてが夢であったらどれほど良かったことでしょう。
ええ、だからこそ『宰相』だけはあと数年、所在不明が確定しているのです。
姫君の遊び相手に指名された時、本当に嫌だったのは、そのことが判明するからです。
まあ、お父様の顔を見たくないという理由もありました。
私の記憶は、私だけのものではございません。
遥か昔、始祖の代より連綿と紡がれる細い糸のように、蓄積された知識が奥底に眠っていることを、私は知っております。祖王の顔も、姫君に良く似ていらっしゃると断言できる程度には。
かつて私が歴史書をみて笑い、そのあと全く手をつけようとしなかったのは、無能の烙印を押して放置した将軍が救国の英雄になっていたり、貧困にあえいでいた国を救う国策を捻りだした文官が他国の間者になっていたり、買い取ったはずの土地が領主から無償で献上されたことになっていたりという歴史の曖昧さに呆れたからなのです。
ですが、当代の王を喜ばせるつもりは毛頭ございません。
あの、脳みそ空っぽで、頭を振れば音が鳴るようなお父様が引退なされば、姫君の補佐くらいはいたしましょう。私の意思ではございません。それが、『祖王』と『宰相』の約束だからです。
「泗水はさ、眠っていたらただの美人さんだよね」
「起きていても美人は美人だと思いますよ。口さえ開かなければ」
「あの毒舌はね、泗水の処世術なんだよ。そうでないと生きて来られない環境だったから、身についちゃったんだよね、きっと」
そっと頬に触れる温かいものがございます。
なにやら不愉快ではないので、私はそのままにしておきました。
「もうそろそろ、自由になっても良いのに」
耳元でささやかれた言葉に、驚きを禁じ得ませんでした。
灰簾さまは、どこまでご存知なのでしょうか。
「なんのお話ですか?」
彩蓮さまは不思議そうに問い返しておりました。
「死んだ人はさ、こんなふうに泗水を抱き上げられない。守ってもくれない。だから、ほどほどで忘れてしまっても許されると思うんだ、僕。兄上だって、ずっと泗水を縛りつけておきたくて遺言を残したわけじゃない。それはきっと、泗水にだって伝わっているんだろうけれど、まだ好きなんだろうね、兄上のこと」
「七年前、お亡くなりになられた灰簾さまの兄君ですか? 泗水さまとお知り合いで?」
「うん。専属の騎士になるんだって約束していたらしいよ。兄上から聞いたことがある」
まったくいつの間に、そんな話を兄弟でなさっていたのでしょう。初耳です。
「だからさ、彩蓮は気長に待ってあげたほうが良いと思うよ?」
「はっ? なんの話ですか、それは」
驚いた後、嫌そうに答える彩蓮さまの表情が、見ていないのに鮮明に伝わりました。
これも日頃の努力の賜物でしょうか。
彩蓮さまは苦々しい表情がよくお似合いなのです。
灰簾さまがぼんやりとなさっている分、周囲を牽制するのに必要なのです。
ただ、気を抜くと二人ともぼんやりとなさっているので、私は常に発破をかけねばなりません。
「だってさ、なんだかんだいって彩蓮は、僕を見つけるより泗水を見つけるほうが得意でしょ? 気になる相手はよく目につくってやつじゃないの?」
「違いますよ。天敵はどこにいてもわかる、に近いです」
まあ、彩蓮さまがはじめて良いことをおっしゃいました。その通りでございす。
私、いままで以心伝心などというふざけたことは一切信じておりませんでしたが、この一言に限っては信じてもよいとさえ思えました。
そう、人に伝えたいことは、口にしなければ伝わるはずがございません。
何も言わずにわかってもらおうなどと、甘えも良い所でございます。
ただ、私は最近、恐ろしいと思うことがございます。
記憶量を誇る『宰相』の知識をもつこの私が、時折忘れてしまいそうになるのです。
咲良の笑顔が、灰簾さまのそれと。
咲良の声が、彩蓮さまのそれと。
どちらも良く似ているのです。
お会いした時、驚いて挨拶を半瞬遅らせてしまうほどには。
灰簾さまは咲良の弟君ですから仕方がないと思うのですが、彩蓮さまのそれは、反則だと思うのです。
「紫澄の傍にずっといるから」
彩蓮さまの声であの言葉を聞いてしまったら、私は不覚にも泣いてしまうような気がいたします。
だから、咲良に似た笑顔を浮かべる灰簾さまが嫌いなのです。
咲良の声で私に話しかける彩蓮さまが、苦手なのです。
私の中の咲良を塗り替えてしまうから。
私はまだ、咲良を忘れたくはないのです。
そして、密やかに眠る『宰相』を見つけてしまうであろう姫君も、できれば避けて通りたい人物の一人なのです。
あ、お父様は本当にどうでもいいです。あのうすらバカな男は地位さえなければいつ死んでも惜しくありません。明日、道端に転がっていたとしてもその前を素通りできる自信もございます。
私はまだ、約束を果たしていないのです。
だからもう少し、もう少しだけこのまま、私の大切なものを守っていたいのです。
あと数年、約束の時までもう少し、あなたの眠るこの屋敷の庭で、私は春を迎えたいと、切に願ってやみません。