第九話 「ひとりの夜に、ふたりの影を思う」
目を覚ましたのは、いつもよりも少し早い朝だった。
窓の隙間から差し込む光が、枕元を白く染めていた。
目を閉じれば、あの夜のことがすぐに蘇る。
──彼女が倒れた夜。
──自分が何もできなかったこと。
──それでも、そばにいたこと。
「……雪村さん……」
寝癖のついた髪をかき上げながら、悠真はベッドからゆっくりと起き上がった。
冷たい床に足をつけると、背筋に少しだけ震えが走る。
キッチンに立ち、湯を沸かす。
ティーバッグをマグに落として、ただぼんやりとその蒸気を見つめた。
部屋には、生活感がほとんどない。
参考書が整然と並ぶ本棚。必要最低限の家具。
壁にかかった時計の音だけが、時間の流れを告げていた。
悠真は、誰かと騒ぐのが苦手だった。
無理に笑うのも、表面だけの会話を繋ぐのも、得意じゃなかった。
そんな彼が、「あの人」のことを思い出す。
名前を知ったばかりの、雪村遥。
悠真の中にあった“静寂”の中に、少しずつ入り込んでくる存在。
──どうしてだろう。
──ただの客と店員だったはずなのに。
あの夜、泣きそうな声で「ここにいて」と言った彼女の姿が、何度も脳裏に浮かんだ。
そして、それに対して何もできなかった自分。
彼女の手を握って、ただ黙って座っていることしかできなかった自分。
「……弱いな、俺」
苦笑いして、紅茶を一口。
微かな渋みと温かさが、喉を通ってゆく。
ふと、スマホを手に取った。
カレンダーに表示された今日は、日曜日。
彼女は今日、店に立っているだろうか。
それとも──まだ、休んでいるのか。
気づけば、悠真の足は玄関の靴に向かっていた。
部屋着を脱ぎ、少しだけ整えた私服を身にまとって。
それは、誰に見せるわけでもない小さな準備だった。
ドアを開ける。
春の風が、頬を撫でていった。
まるで、どこかへ導かれるように。
悠真は、あの店へと向かって歩き出した。




