第八話 「名もなき夜を、抱いて」
「雪村さん……!」
僕は、とっさに彼女の体を抱きとめた。
冷たい。こんなにも、冷たい。
肌が、血の気を失っている。
彼女の意識はない。目は閉じられ、呼吸だけがかすかに上下していた。
慌てて声をかけようとしたけれど、喉がひどく乾いて、言葉にならなかった。
カフェの空気は静まり返っている。
さっきまでいた客たちはもう帰ってしまっていて、店内には僕たち二人だけ。
「……大丈夫、大丈夫だから……」
震える声で、そう繰り返すことしかできなかった。
僕はそっと彼女をソファ席へと運ぶ。
まるで、壊れものを抱えるように。
カウンターの奥に入って、店員さんがいつも使っている小さな救急箱を見つけた。
冷却パック、常備薬、水──
とにかく、できることをすべてする。
彼女の額にタオルをあて、手を握る。
その手も、氷みたいに冷たかった。
しばらくして──
「……」
彼女のまぶたが、ゆっくりと震えた。
「……あれ……」
声にならない声。
焦点の合わない瞳が、ゆっくりと僕の顔を捉える。
「東雲、さん……?」
「よかった……目、覚めた……!」
僕は安堵と同時に、ぐっと胸が締めつけられるのを感じた。
笑顔を作ろうとしても、頬が強張ってうまくいかない。
「ごめんなさい……倒れるなんて……」
「いや、謝らなくていいです。こっちこそ……体調悪いの、もっと早く気付けば良かった」
「……ううん。私が、弱いだけです」
彼女はそう言って、笑った。
だけどその笑顔は、限界ぎりぎりの場所で、なんとか保たれているものだった。
「今日は……帰ったほうがいい。タクシー呼びます」
そう言ってスマホを取り出そうとすると──
「……お願い、です」
その一言が、僕の手を止めた。
「少しだけ、ここにいさせてください」
彼女の手が、僕のシャツの裾を掴んでいた。
細くて、か弱くて、それでもどこか必死な指先だった。
「……夜が来ると、どうしても、思い出すんです」
「もう、忘れたはずのことなのに……」
言葉が途切れる。
彼女は、それ以上言おうとしなかった。
言えないのか、言いたくないのか──どちらかはわからなかった。
ただ、僕はその手をそっと握り返した。
「ここにいますよ。俺は、どこにも行きません」
しばらくの沈黙が流れたあと、彼女は、ぽつりと呟いた。
「……東雲さんは、優しいんですね」
「優しくなんかないですよ。怖かったです、倒れたとき……正直、何もできなかった」
彼女は、はじめて少しだけ声を漏らして笑った。
でもすぐにその笑みも消えて、また遠くを見つめるような目になる。
「……夜って、静かですね」
「静かすぎて、いろんな音が聞こえる」
僕は彼女のそばで、ただ黙って座っていた。
たぶん、今は何も言わなくていい。
言葉の代わりに、この時間ごと抱きしめるように。
窓の外では、灯りがひとつ、またひとつと消えてゆく。
街が深く眠りに落ちるころ、ようやく彼女も、少しだけまぶたを閉じた。
この静けさが、彼女にとっての救いになりますように──
そう願いながら、僕は彼女の手を握り続けていた。




