第七話 「夜の向こうで、誰かを呼んでいた」
雨は、すっかり上がっていた。
濡れたアスファルトに、街灯の光が滲んでいる。
カフェの中も、静けさに包まれていた。
「今日は……もう大丈夫、ですか?」
僕は、そっと尋ねた。
彼女──雪村さんは、いつものように柔らかく微笑む。
けれど、あのときの震える手を、僕は忘れていなかった。
彼女は、一度、カップに視線を落とした。
そして、ぽつりと呟く。
「……少し、寝苦しくて。」
それだけの言葉だった。
でも、その声はどこか、遠くを見ているようだった。
「夢を……見たんです。」
窓の外、黒く沈んだ夜空に目を向けながら、彼女は続ける。
「夜が、こわいときがあって。」
その言葉に、僕は思わずカップを持つ手を止めた。
雪村さんの声は震えていない。
ただ、あまりにも淡々としていて──かえって痛かった。
「昔……少しだけ、いろいろあって。」
「でも、もう、過ぎたことだから。」
そう言って、彼女は微笑む。
きっと、彼女なりに、心配をかけまいとしているんだろう。
だけど──その微笑みは、どこか壊れそうに見えた。
「もし……」
僕は、迷いながら言葉を紡ぐ。
「もし、話したくなったら。俺は、ここにいますから。」
カップの向こうで、雪村さんがきょとんとした。
それから、小さく目を伏せる。
「……ありがとうございます。」
かすれるような声だった。
その横顔は、まるで、誰にも気づかれないように泣いているみたいだった。
「……でも、まだ、怖いんです。」
彼女は、ほとんど聞こえない声でそう告げた。
そしてそれきり、何も言わなかった。
僕は、無理に聞き出すことはしなかった。
この場所が、彼女にとって「逃げ場」ではなく「帰ってきたくなる場所」であってほしいと思った。
夜の底、遠くで誰かが彼女を呼んでいた。
けれど、彼女はそれに背を向けて、今、ここにいる。
それだけで、十分だった。
だから僕は、そっとカップを掲げた。
まるで、見えない何かに祈るように。
──きっと、いつか。
その夜を、越えられる日が来る。
そんなふうに、思った矢先だった。
ふらり。
雪村さんの身体が、大きく揺れた。
「雪村さん──?」
呼びかける間もなく、彼女の膝が崩れる。
カップがカウンターにあたって、かすかな音を立てた。
僕は、慌てて席を立つ。
だが、彼女は力なく、こちらにもたれかかってきた。
その体は、驚くほど軽かった。
そして──震えていた。
「……雪村さん!」
呼びかけても、彼女は答えない。
閉じられたまぶたの向こうで、きっとまだ夜に怯えている。
静かなカフェに、ざわり、と冷たい風が吹いたような気がした。
──これは、ただの寝不足なんかじゃない。
僕は、心のどこかで確信していた。
彼女の中に眠る、深くて、痛い何かに──。




