表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/53

第六話 「こぼれたカップ、重なった手のひら」

その日は、朝から小雨が降っていた。


傘を持つ手に、かすかに冷たさが伝わる。


街の喧騒も、雨に滲んで静かだった。


 


カフェの扉を開けると、ベルが小さく鳴る。


あたたかい空気が、ふわりと肌を包んだ。


そして、カウンター越しに──彼女、雪村遥の姿を見つけた。


 


「いらっしゃいませ、東雲さん。」


いつもと変わらない、やさしい声。


だけど──何か、少し様子が違う気がした。


顔色が、ほんのり青ざめている。


それでも、彼女は変わらぬ微笑みを浮かべていた。


 


「大丈夫……ですか?」


小さな声で尋ねると、彼女ははにかむように首を振った。


 


「ちょっと……寝不足なだけ、です。ご心配なく。」


 


そんな言葉とは裏腹に、彼女の手元は、わずかに震えていた。


 


トレーにカップを乗せ、僕の席へ運んでくる。


けれど──その途中で、事件は起きた。


 


つるり、と。


トレーが、彼女の手から滑った。


カップが宙を舞い、あわやテーブルに落ちそうになる──その瞬間、


 


僕は、思わず身を乗り出していた。


「危ない──!」


 


間一髪、カップを受け止める。


けれど、その反動で、手に少しだけ熱い液体がこぼれた。


 


「っ……!」


 


「す、すみませんっ!」


彼女が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。


すぐにハンカチを取り出し、僕の手をそっと包んだ。


 


ふわりと、ミルクと彼女の香りが混じる。


そして、彼女の手は驚くほど冷たかった。


 


「大丈夫です、これくらい。」


 


笑いながらそう言うと、彼女の目に、ぽつりと涙が滲んだ。


 


「でも……私、また迷惑を……。」


 


そう呟く声は、かすれていて、思わず胸が締めつけられる。


このひとは、きっといつも、誰かに気を遣ってばかりなんだ。


自分のことなんて、後回しにして。


 


「迷惑なんかじゃないですよ。」


自然と、そう返していた。


 


彼女は、ぱちりと瞬きをする。


そして──やっと、少しだけ微笑んだ。


 


「……ありがとうございます。」


 


その笑顔は、雨上がりの空に差す、一筋の光みたいだった。


 


カウンターの奥で、新しいカップが用意される。


手当を終えた彼女が、改めて運んできたそれは、

どこか、さっきよりもあたたかく感じた。


 


ふたりの手のひらには、まだ微かなぬくもりが残っている。


外の雨は止みかけて、ガラス越しに、淡い夕陽がにじんでいた。


 


たぶん、今日のこの出来事は──

彼女にとっても、僕にとっても、忘れられない「小さな奇跡」になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ