第六話 「こぼれたカップ、重なった手のひら」
その日は、朝から小雨が降っていた。
傘を持つ手に、かすかに冷たさが伝わる。
街の喧騒も、雨に滲んで静かだった。
カフェの扉を開けると、ベルが小さく鳴る。
あたたかい空気が、ふわりと肌を包んだ。
そして、カウンター越しに──彼女、雪村遥の姿を見つけた。
「いらっしゃいませ、東雲さん。」
いつもと変わらない、やさしい声。
だけど──何か、少し様子が違う気がした。
顔色が、ほんのり青ざめている。
それでも、彼女は変わらぬ微笑みを浮かべていた。
「大丈夫……ですか?」
小さな声で尋ねると、彼女ははにかむように首を振った。
「ちょっと……寝不足なだけ、です。ご心配なく。」
そんな言葉とは裏腹に、彼女の手元は、わずかに震えていた。
トレーにカップを乗せ、僕の席へ運んでくる。
けれど──その途中で、事件は起きた。
つるり、と。
トレーが、彼女の手から滑った。
カップが宙を舞い、あわやテーブルに落ちそうになる──その瞬間、
僕は、思わず身を乗り出していた。
「危ない──!」
間一髪、カップを受け止める。
けれど、その反動で、手に少しだけ熱い液体がこぼれた。
「っ……!」
「す、すみませんっ!」
彼女が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
すぐにハンカチを取り出し、僕の手をそっと包んだ。
ふわりと、ミルクと彼女の香りが混じる。
そして、彼女の手は驚くほど冷たかった。
「大丈夫です、これくらい。」
笑いながらそう言うと、彼女の目に、ぽつりと涙が滲んだ。
「でも……私、また迷惑を……。」
そう呟く声は、かすれていて、思わず胸が締めつけられる。
このひとは、きっといつも、誰かに気を遣ってばかりなんだ。
自分のことなんて、後回しにして。
「迷惑なんかじゃないですよ。」
自然と、そう返していた。
彼女は、ぱちりと瞬きをする。
そして──やっと、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとうございます。」
その笑顔は、雨上がりの空に差す、一筋の光みたいだった。
カウンターの奥で、新しいカップが用意される。
手当を終えた彼女が、改めて運んできたそれは、
どこか、さっきよりもあたたかく感じた。
ふたりの手のひらには、まだ微かなぬくもりが残っている。
外の雨は止みかけて、ガラス越しに、淡い夕陽がにじんでいた。
たぶん、今日のこの出来事は──
彼女にとっても、僕にとっても、忘れられない「小さな奇跡」になる。




