第五話 「ふたつのカップに、そっと灯りを宿して」
カフェに入ると、ふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐった。
店内には、温かな色のランプが灯っている。
窓の外は、もう夕暮れ。
空は柔らかな群青に溶けかけていた。
いつもの席に座り、メニューを開く。
けれど、すぐに閉じた。
もう、メニューを選ぶ理由はなかった。
やがて、カウンターの奥から、彼女──雪村さんが、ゆっくりと歩いてきた。
手には、二つのカップ。
「こんばんは、東雲さん。」
「こんばんは、雪村さん。」
──名前で呼び合うのが、まだ少しくすぐったい。
でも、それは決して嫌なものではなかった。
「本日のおすすめは……カフェ・オ・レです。」
彼女が、やわらかな声でそう告げた。
テーブルに置かれたカップからは、ミルクの甘い香りが立ち上っている。
その隣には、もう一つ、彼女のためのカップ。
「よろしければ……今日は、少しだけご一緒しても?」
そう言って、彼女は、隣の席にそっと腰を下ろした。
ほんの少しだけ、距離をあけて。
けれど、その距離は、今まででいちばん近かった。
「うれしいです。」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
雪村さんは、ほっとしたように微笑む。
それは、ほんのりと赤く染まった夕暮れの空みたいな、やさしい笑顔だった。
カップを手に取り、そっと口に運ぶ。
ミルクのやわらかさに、深煎り豆のコクが寄り添っている。
まるで、違うもの同士が少しずつ、ひとつに溶けあうような味だった。
「……あの、」
ふいに、雪村さんが言葉を探すように指先をいじった。
「コーヒー……お好き、ですか?」
「はい。でも……こんなにちゃんと味わったのは、雪村さんのカフェが初めてかもしれません。」
答えると、彼女の目がわずかに見開かれた。
それから、静かに、静かに笑った。
「……よかった。」
ほんとうに、小さな、小さな声だったけれど、
その言葉には、確かな温度が宿っていた。
ふたりはそれきり、しばらく言葉を交わさなかった。
けれど、沈黙は不思議と心地よかった。
カップの中の灯りみたいに、あたたかい空気がふたりを包んでいた。
窓の外では、街灯がぽつり、ぽつりと灯り始めている。
一日の終わりを告げるその光景も、
今夜だけは、どこか優しく見えた。
──また、来よう。
自然と、そんなふうに思った。
そしてまた、彼女に会おう。
きっと、今日より少しだけ、近くに。




