第四十六話「静けさの中で」
それは、少しだけ風の冷たさを感じる朝だった。
カフェの開店準備を終えた遥は、いつものようにカウンターの裏でチェックリストを確認していたが、どこか表情がやわらかい。
――昨日のことが、ずっと胸の奥で余韻を残していた。
兄が突然来店し、悠真と真正面から言葉を交わしたあの時間。
何かが終わったようで、何かが始まったような、不思議な感覚だった。
「……おはようございます」
少し戸を押す音。
開店前のはずの扉が、そっと開かれ、悠真が顔をのぞかせる。
「悠真さん? もうそんな時間でした?」
遥が微笑みながら顔を上げると、彼は少し気まずそうに笑った。
「いや、開店前ってわかってたけど……なんか、昨日のままじゃ落ち着かなくて」
「ふふっ。私もです」
ふたりの間に、少しだけ笑いがこぼれる。
「兄と、ちゃんと話してくれてありがとうございました」
遥が真剣に言葉を口にすると、悠真は小さくうなずいた。
「大切な人の兄だから。ちゃんと、向き合いたかった」
「……」
“大切な人”という言葉に、遥は小さくまばたきをする。
その言葉は、嬉しさと少しの戸惑いを伴って、胸に染みてきた。
「お兄ちゃん、昔はもっと無口で冷たい感じだったんです。……でも事件の後、変わったんですよ」
「変わった?」
「自分のせいだって、たぶんずっと思ってたんだと思います。私が無理をしたから、私がひとりでいたから……って。でも、あの人、ほんとはすごく弱い人で、優しくて……だから、自分を責めるんです」
「そっか……」
悠真は少しだけ視線を伏せた。
「それって、どこか僕と似てるかもしれない」
「え?」
「遥ちゃんのこと、もっと早く気づけたら、って思うときがある。あのままカフェで会っていなかったら、君は今でも、誰にも触れられないままだったんじゃないかって……」
遥は驚いたように、彼の横顔を見つめる。
「でも――」
彼は振り返り、まっすぐに微笑んだ。
「君が、君自身の足で歩いてきたからこそ、今ここにいるんだよね」
その言葉に、遥の胸がじんわりと温かくなる。
「……悠真さん」
思わず口に出た名前に、悠真が嬉しそうに頷いた。
「今日は、少しだけ仕事を抜けて、午後にまた寄ってもいい?」
「もちろん。……ちゃんと、コーヒーお出しします」
「うん。そのときは、遥ちゃんの“いちばん得意な一杯”で」
「えっ……ふふ、プレッシャーですね」
楽しげな笑い声が、静かな店内に響いた。
少しずつ――
ほんの少しずつだけれど、確かに積み重ねている。
誰かと向き合うことの難しさと、尊さを知っているからこそ、
この小さな日常が、二人にとってはとても愛しいものだった。




