第四十五話「兄の視線」
昼下がりのカフェ。
木漏れ日の差し込む店内に、グラスを拭く静かな音が響いていた。
「いらっしゃいませ――あっ、悠真さん」
カウンターの向こうで、遥が嬉しそうに微笑んだ。
エプロン姿が板についてきた彼女は、今ではすっかりこのカフェの顔だ。
「こんにちは、遥ちゃん。今日も元気そうで何より」
「ふふっ、ありがとうございます。今日は珍しく時間早いですよね?」
軽く会話を交わし、悠真はカウンター席に腰掛ける。
彼女がコーヒーを淹れる手元を、どこか穏やかな気持ちで見つめていたその時――
カラン、とベルの音が鳴った。
「……」
遥がはっとして入口に目を向ける。
そこに立っていたのは、スーツ姿の男――遥の兄、雪村誠だった。
「…失礼する」
低く落ち着いた声。しかし、どこか怒りを抑えているような硬さがある。
誠は店内に入り、悠真の存在を視界にとらえると、まっすぐに歩み寄ってきた。
「……話がある」
悠真が立ち上がろうとしたとき、遥が慌ててカウンターから出て兄の横に立つ。
「お兄ちゃん、急に何を――」
「下がってろ、遥」
その声には、苛立ちと焦り、そして妹への想いが混ざっていた。
「……悠真くん、だな。先日の件だけど――あれは、どういうつもりだった?」
「……あれ、とは?」
「未成年の妹を、日が暮れるまで外に連れまわしてた件だ」
悠真は表情を変えず、まっすぐ兄の目を見返す。
「決して、軽い気持ちで誘ったわけではありません。彼女のことを大切に思っているからこそ、一緒に過ごす時間を選びました」
「大切、ね……。それはどういう意味で言ってる?」
誠の言葉には棘があった。
だが悠真は、ほんのわずかに息を整え、誠の目をそらさなかった。
「僕は、雪村――いえ、遥ちゃんのことを、人として尊重しています。彼女の過去も、心の傷も、そのすべてを知ろうとした上で、寄り添っていきたいと思っています」
誠が目を細める。
「――その言葉を、俺が信用する理由は?」
「ありません。言葉だけで信じてもらえるとも思っていません。だからこそ、僕は行動で示していきます。少しずつでも、ちゃんと信じてもらえるように」
「……」
一瞬、空気が張り詰めた。
遥が心配そうに二人を見つめる。
だがその沈黙を破ったのは、誠の小さなため息だった。
「……まったく」
彼は眉を指先で押さえ、目を伏せる。
「俺はな……あの日、家に帰れなかったんだ。遥がいなくなった日。ほんの数時間の話だった。でも、その数時間の間に――俺は妹を失いかけた」
悠真の目に、誠の苦しみがはっきりと映った。
「俺は今でも、あの夜を思い出す。……それが、あいつを過保護にしてるって自覚もある」
「……それでも、彼女はちゃんと前を向いて歩こうとしています」
「わかってる。……でもな」
誠は少しだけ笑った。苦笑のような、悔しさを混ぜた笑みだった。
「その気持ちが『恋』と呼べるものなのか、君自身、ちゃんと見極めてくれ。俺の妹は……ただでさえ、強がりで、人に甘えられない子なんだ」
悠真は深く頷いた。
「はい。……その覚悟は、持って向き合っているつもりです」
長い沈黙が流れた。
そしてようやく、誠は遥の方へ目を向ける。
「……悠真くん、だったな。俺の話にちゃんと向き合ってくれたことは、感謝する」
彼はそう言って、店を出ていった。
残された二人。
遥が、少しだけ目に涙を浮かべながらも、笑った。
「……びっくりしました。突然来るなんて」
「僕も、内心はちょっと怖かったけど……話せて、よかった」
悠真が笑い返すと、遥は静かに首を振る。
「お兄ちゃん……ほんとは、ずっと謝りたかったんです。私のせいで、ずっと背負わせてしまっていたから」
「それは、きっと伝わってますよ」
彼女の手に、そっと自分の指を重ねる。
温かく、確かにつながった感覚が、二人の間に残っていた。




