第四十四話「日常に、還る」
旅から戻った翌朝。
目覚ましの音が鳴るより前に、悠真は自然と目を覚ました。
(昨日、帰ってきたばかりなのに……夢だったみたいだ)
薄曇りの朝。窓の外はまだ静けさを残していて、旅のにぎやかさがまるで遠い記憶のように感じられた。
だが、ふとした瞬間に思い出すのは、電車の中で並んで座る遥の横顔。
少し照れながらも素直な言葉で想いを伝えてくれた、あの柔らかな表情だった。
「……遥ちゃん、ちゃんと起きてるかな」
思わず口に出してから、自分でも少し驚いた。
その呼び方にも、もう違和感はなかった。
カフェに着くと、すでに店内は開店の準備が整えられていた。
扉を開けた瞬間、奥のキッチンから顔を出したのは遥だった。
「おはようございます、悠真さん」
「あ、おはよう……遥ちゃん」
たった数文字の違い。それだけなのに、遥の目がほんのりと嬉しそうに細められたのを、悠真は見逃さなかった。
「旅、お疲れ様でした。ちゃんと眠れましたか?」
「うん。……でもまだ、どこか夢の中にいるみたいかも」
「私も、少しそうかもしれません」
ふたりだけの時間は束の間。
常連客が一人、また一人と扉を開ける音が日常を連れ戻してくる。
やがて店内がにぎやかになり始めると、少し離れたカウンター席に篠崎亮の姿が現れた。
「よう、おふたりさん。楽しかったか?」
カウンター越しに軽く笑う亮に、遥が少し照れたように会釈を返す。
「ええ、とても。……亮さんは、その……」
「ん?」
「……いえ。なんでもありません」
悠真がくすっと笑う。
ほんの少し前までなら口にできなかった言葉たちが、今は自然に交わせる。それがうれしい。
そんなふたりの様子に、亮が少しだけ目を細めた。
(ああ、なるほどな……これはもう、俺の出る幕じゃねぇな)
内心で苦笑しつつも、何も言わずにコーヒーをすする。
その一方で、厨房の奥から遥がひそかに悠真へと視線を送る。
(……もう少しだけ、この距離を詰めても、いいでしょうか)
それぞれが胸の奥で思いながら、変わらぬようでいて確かに変わった日常が、また静かに始まっていく。




