第四十一話「静けさを分け合う午後」
古書店を出ると、外の光は少しだけ柔らかくなっていた。
午後の気配が街の隅々に滲み始め、風は春の香りを帯びてそっとふたりの間をすり抜けていく。
「……いい本、買ってしまいましたね」
悠真が手に持った文庫本を軽く掲げると、遥は恥ずかしそうに笑った。
「すみません、まさか本当に買ってくださるとは……」
「遥ちゃんが選んだ本ですから。僕も読んでみたいなって思いましたし」
ふたりの足音が、石畳の道に穏やかに響く。
通り過ぎる花屋から漂う甘い香り。
古い時計店のショーウィンドウに並ぶ、丁寧に磨かれた振り子時計。
遥は一歩歩くごとに、ふと立ち止まりたくなる衝動に駆られていた。
今この時間を、少しでも長く引き延ばしていたい――そんな想いが、足元に小さな重みを加えているようだった。
「……こうして歩くの、なんだか変な感じですね」
「本当に」
悠真は、言葉少なにそう返した。
遥はそれを、優しさだと思った。
無理に言葉を重ねない、けれど歩幅はきちんと隣に揃えてくれる、そんな人。
「……あの」
「はい?」
「ちょっと歩き疲れたので、あそこで……少し、休みませんか?」
遥が指差したのは、路地の先にひっそり佇むカフェだった。
蔦の這ったレンガの壁に、小さな木製の看板が揺れている。
「はい、もちろん」
店内に入ると、そこはまるで時間が凍ったような静けさに包まれていた。
窓辺の席に腰を下ろし、ふたりはほっと息をつく。
「……甘いの、頼んでもいいですか?」
「もちろん。せっかくの休日ですし」
遥は苺のタルトを、悠真はブレンドコーヒーを注文した。
やがて運ばれてきたそれを前に、ふたりはふと目を見合わせて微笑んだ。
「こうしてちゃんと、向き合って話すの……まだそんなに多くないですね」
「そうですね。でも、少しずつ――知っていけたらいいなって思ってます」
「私も。……悠真さんのこと、もっと知りたいです」
小さなスプーンで苺を口に運びながら、遥の瞳がふと揺れる。
それは恥じらいではなく、たしかな意志の光だった。
「たとえば、どんなことを?」
「……どんな音楽が好きかとか、本を読むときの癖とか。……あと」
「あと?」
「私と会う前は、どんな毎日だったのかなって」
悠真は、一瞬言葉を探すように視線を落とした。
それでも、時間をかけて真面目に答えてくれた。
「……きっと、誰にも気づかれないように静かに生きてました。
誰かの邪魔にも、印象にも残らないように。……そんなふうに」
遥は、ゆっくりとタルトを置いた。
「……でも、今は違いますよね」
「え?」
「私は、あなたのこと……ちゃんと見てます。……見つけたんです」
沈黙が、カップの縁にそっと落ちる。
その静けさのなかで、ふたりの視線がふと交差する。
「……ありがとう」
悠真は、確かにそう呟いた。
──時間が緩やかに流れていく午後。
窓の外では木の枝が風に揺れ、光の粒がこぼれる。
そのすべてが、ふたりの記憶のページに静かに書き込まれていくようだった。




