第四話 「名も知らぬ君に、春の名残を手渡して」
その日、カフェのドアを開けると、やわらかな春の香りが迎えてくれた。
窓辺には、小さな花瓶に活けられたミモザ。
黄色い小さな花たちが、まるで光を編んだように、ふわふわと咲いている。
店内に漂う空気は、雨上がりの午後に似ていた。
しっとりとしていて、どこか少し、あたたかい。
カウンターの奥、彼女が気づいて、そっと小さく頭を下げた。
それだけで、自然に胸がほどける。
席につき、メニューを開く。
けれど、ほとんど見るまでもない。
──あのとき、約束したから。
彼女が、今日も何か“おすすめ”を用意してくれていることを、僕はもう知っていた。
「本日は……春限定のブレンドをお作りしました。」
彼女がそう言って、トレーをそっとテーブルに置いた。
ふわりと漂う香りは、どこか花のような、果実のような、甘く淡い香り。
ラテアートには、ミモザの花を模した小さな模様。
「すごい……。」
思わず声に出してしまった。
彼女は、ほんの少しだけ照れたように微笑む。
その仕草に、胸の奥が静かに温かくなる。
カップを手に取ると、彼女がふと、言葉を探すように視線を揺らした。
そして、意を決したように、小さく口を開いた。
「……あの。」
「はい。」
「もし……差し支えなければ、お名前を、教えていただけませんか?」
その声は、雨上がりの空みたいに、透き通っていた。
少しだけ、頬が熱くなる。
でも、自然と笑みがこぼれた。
「東雲悠真です。」
名乗ると、彼女はゆっくりとうなずいた。
その目は、どこか少し、嬉しそうだった。
「……東雲さん。」
彼女が、はじめて僕の名前を口にする。
それだけのことなのに、胸の奥で、ふわりと何かがほどける音がした。
「あなたは……?」
僕も、そっと尋ねる。
彼女は、少しだけ迷うように瞬きをして、
けれどすぐに、静かに答えた。
「私は、雪村遥と申します。」
雪村。
そして、遥。
──ああ、やっと名前を知ることができた。
それは、たった一言のやり取りだったけれど、
たしかに、ふたりの間に小さな橋が架かったような感覚だった。
「雪村さん。」
呼ぶと、彼女は少しだけ目を丸くし、それからまた、微笑んだ。
窓の外では、春の名残を乗せた風が、そっと枝を揺らしていた。
ミモザの花が、ふわりと揺れている。
小さな、小さな一歩。
でもそれは、確かに未来へと続く道だった。




