第四十話「あなたと歩く季節」
春の風が街をなでていく朝、駅のホームにはまだ少し冷えた空気が残っていた。
東雲悠真は改札を抜けた場所で、スマートフォンを手にそわそわと時間を気にしている。
約束の時間まで、あと数分。
遠くから軽やかな足音が近づいてきた。
「悠真さん……お待たせしました」
その声に振り向いた瞬間、言葉が喉の奥で止まった。
白いカーディガンに、淡いベージュのワンピース。
揺れる髪の先が風に遊ばれて、ほんの一瞬、目を奪われる。
「……遥ちゃん、すごく似合ってます」
「えっ……あ、ありがとうございます。すこし……悩んだんですけど」
遥の頬が少し赤くなるのを見て、悠真は慌てて視線を逸らした。
自分の緊張が、彼女に伝わってしまったのではないかと不安になる。
「僕も……それなりに、ちゃんと選んできました」
「ふふ、ちゃんと……って、いつもの倍くらいお洒落ですよ?」
「……倍、ですか?」
「はい。……三倍かもしれません」
そんなふうに言って、遥はふっと微笑んだ。
その笑顔を見て、悠真もまた自然と肩の力が抜けたような気がした。
電車のドアが開き、ふたりは並んで乗り込む。
座席に腰を下ろすと、窓の外には見慣れた街が少しずつ後ろへと流れていった。
「こうして出かけるの、なんだか不思議ですね」
「ですね。日常が……ちょっとだけ、遠ざかっていく感じがします」
「……まるで夢みたいだなって、少し思いました」
それ以上の言葉は交わさなくても、同じような感覚を共有していることが、静かに伝わってくる。
電車がいくつかの駅を越え、目的地の小さな町にたどり着く。
ホームを降りた瞬間、悠真は思わず深呼吸をした。
「空気が、違いますね」
「静かでしょう? ……このあたり、来たことあるんです。何年か前に、兄と一緒に」
「兄妹で……ですか」
「はい。あのとき、立ち寄った古書店がすごく素敵で……ずっと、もう一度来たかったんです」
遥はそう言って、駅前の地図を指差す。
悠真はその指を追いながら、穏やかな笑顔を返した。
「案内、よろしくお願いしますね」
「ふふっ、任せてください」
ふたりは並んで歩き出す。
舗装の少し古びた路地に、春の木漏れ日が斜めに差し込んでいた。
道すがら、見慣れない雑貨屋のショーウィンドウを覗いたり、ゆっくりと足を止めたりしながら、ようやく古書店の前にたどり着く。
木製の看板に、金文字で書かれた小さな店の名前。
少し色褪せたドアと、飾られた季節のドライフラワー。
「ここ……です。懐かしい……」
遥がそっと呟き、扉に手をかける。
ドアの鈴が優しく鳴り、ほんのりと紙とインクの匂いが鼻をくすぐった。
「なんだか、時間が止まってるみたいですね」
「……私、この匂い、すごく好きなんです」
遥が棚の隅に目を向けながら、言葉少なに歩を進める。
悠真もまた、背表紙にそっと指を滑らせながら、彼女の後を追う。
「……この本、好きでした。中学生のときに、よく読んでたんです」
遥が手にしたのは、少し角の擦れた文庫本だった。
ページを開くその指先が、どこか懐かしさを探しているように見える。
「……貸出しとか、あるんですかね?」
「買う、という選択肢もありますよ」
「えっ……じゃあ、買ってもらおうかな。悠真さんに」
「え、冗談じゃないですよね?」
遥がからかうように笑って見せると、悠真は苦笑いしながらも財布に手を伸ばしていた。
その何気ないやりとりさえも、どこか特別な意味を持っていた。
そして──
そのあとふたりは、店の奥の小さな読書スペースに腰を下ろし、
本の話を少しだけ。
お互いの好みを、少しだけ。
春の光が差し込む中で、ふたりの距離は少しずつ、でも確実に縮まっていくのだった。




