第三十八話「胸の奥の輪郭」
デートの翌日――。
穏やかな午後の陽が差し込むカフェの店内。
そのカウンターには、もう遥の姿があった。
彼女はカップにコーヒーを注ぎながら、昨日の出来事を何度も思い返していた。
ふと笑みがこぼれる。自分でも驚くほど、自然に。
(……悠真さん、あんなふうに笑うんだ)
思い出すのは、美術館での何気ないやり取りや、雑貨屋で悩む姿。
そして、夕暮れの川辺で交わした約束――春になったら、少し遠出をしようという言葉。
—カラン、と扉が開く。
その音に、遥は顔を上げた。
白いシャツにネイビーのカーディガン姿の悠真が、昨日と変わらない笑顔で立っていた。
「…いらっしゃいませ。まさか昨日の今日で来てもらえるなんて」
「……今日も、会いたくなって。いや、でも、昨日は楽しかったね」
「……はい。すごく」
そう言って、遥はほんのりと頬を染める。
会話はいつものように穏やかだったけれど、何かが少しだけ変わった気がする。
呼び方も変わった。距離も、すこし近づいた。
「……遥ちゃん」
「はい、悠真さん」
何気ない呼びかけだけで、胸がふわりと浮かぶ。
きっと、悠真も同じ気持ちでいてくれている。そう思えるだけで、嬉しかった。
ふと、悠真がテーブルの上に一冊の本を置いた。
「昨日、雑貨屋で見かけてたやつ。買ってみたんだ。ほら、あの手製の旅日記風の」
「あっ……」
遥は目を見開く。確かに昨日、気になっていたものだった。
けれど、自分で買うには少し迷っていたものでもある。
「気になってたんじゃないかなって思って」
「……ありがとうございます。でも、どうして?」
「遥ちゃんと約束したから。春になったら、行きたい場所に行こうって。その下調べ、今から始めようと思って」
遥は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥で、言葉にならないものが膨らんでいく。
「……優しすぎます、悠真さんは」
「そんなことないよ。俺も、遥ちゃんといると……いろんなこと、ちゃんと考えられる気がする」
沈黙が、心地よかった。
窓の外には、まだ少し冷たい風。でも、陽差しは確かに春を告げ始めていた。
遥はそっと、差し出された本に手を伸ばした。
その手のひらに宿る温かさを、忘れないように。




