第三十六話「風が触れた午後」
美術館を出ると、午後の日差しが街を照らしていた。
少し傾き始めた陽が、アスファルトの上に柔らかな陰影を落とす。
通りには人が少なく、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
「どこか……寄ってみたい場所とか、ありますか?」
遥が、ふと尋ねた。
指先がシャツの裾を軽くつまむように動いていて、それが少しだけ緊張しているように見えた。
「うーん……どこでもいいけど、ちょっと歩かない? せっかくだし」
「はい」
並んで歩く。
その距離は、ほんの少しだけ近くなっている気がした。
「あの……」
「ん?」
「さっき、美術館で言っていたこと……。隣にいるのが悠真さんだから、って」
「うん」
「本当は、言おうか迷ったんです。でも……ちゃんと、伝えたくて」
「……ありがとう。嬉しかったよ」
遥は、うつむき加減に笑った。
風が、二人の間をすり抜けていく。
季節がほんの少しだけ春に近づいたような、そんな暖かさを連れていた。
「あ、あそこの店、知ってますか?」
遥が指差したのは、小さな雑貨屋だった。
木の扉とステンドグラスの窓が可愛らしく、店先にはドライフラワーが飾られている。
「気になってたけど、入ったことはないな」
「少しだけ……見ていきませんか?」
「もちろん」
扉を押すと、鈴の音が軽やかに鳴った。
店内には、手作りの小物やキャンドル、古い洋書などが所狭しと並べられていて、どこを見ても飽きない空間だった。
「こういうの、好き?」
「はい。静かで、温かくて……なんだか、落ち着きます」
遥は、小さな瓶に詰められたポプリを手に取り、そっと蓋を開けた。
ラベンダーとローズマリーの香りが、ふわりと空気に広がる。
「この香り、悠真さんに似合うかもしれません」
「え、俺が?」
「はい。……なんとなくですけど」
言いながら、遥の頬がほんのり赤くなる。
悠真も少し照れて、視線を逸らした。
それでも、どこか心地よかった。
会話の間に流れる沈黙さえも、自然な呼吸の一部のように思えた。
「こういう時間……いいですね」
遥がぽつりと呟いた。
「うん。俺も、そう思う」
風が、ステンドグラス越しに差し込んだ光を揺らしていた。
その色彩が、まるでふたりの時間にそっと触れるように、柔らかく包んでいた。




