第三十四話「初夏の約束」
夏の入り口に差しかかった空気は、まだ少し肌寒く、けれどどこか高揚感を含んでいた。
駅前の広場には、週末らしい穏やかなざわめきがあった。
スマートフォンを確認するふりをしながら、何度も周囲に視線を向ける。
「遥ちゃん、そろそろ来るかな……」
自然に出たその呼び方に、自分で少し笑った。
年齢を知ってから、いろいろと意識してしまっているのも事実だった。
けれど、それ以上に――あのとき、真剣な顔で年齢を告げた彼女の姿が、今も焼き付いて離れない。
名前で呼び合うようになってから、遥ちゃんとの距離は少し縮まった気がする。
それはきっと、彼女の方も、同じように思ってくれているはずだ。
ふと、遠くから手を振る姿が見えた。
「……あれ、遥ちゃん?」
近づいてくる彼女は、薄いベージュのワンピースを揺らしながら、恥ずかしそうに笑っていた。
「おはようございます、悠真さん」
「おはよう。……なんていうか、すごく似合ってる」
その言葉に、遥ちゃんは小さく肩をすくめて、照れたようにうつむいた。
「ありがとうございます。ちょっと、迷いましたけど……頑張って選びました」
「うん、頑張ったの伝わってくる。俺なんて、ほら、いつも通りで」
「そんなことないです。……落ち着いてて、悠真さんらしいと思います」
名前で呼び合うようになったと言っても、まだ「さん」は外れていない。
でも、それでもこうして目の前に立つ彼女は、どこか昨日よりも近くに感じた。
「じゃあ、行こうか。今日は、行ってみたい場所があるんだ」
「はい」
その返事には、迷いがなかった。
彼女の足取りは軽く、歩幅も自然と自分に合わせてくれていた。
駅前の喧騒から少し外れた商店街を抜け、住宅街へと続く緩やかな坂を歩く。
道端に咲く紫陽花の花が、初夏の色を添えていた。
「そういえば、悠真さんって普段、こうやって誰かと出かけたりしますか?」
「いや、あんまりないかな。大学でも、基本的に一人でいることが多いし……亮くらいだよ。誘ってくるのは」
「亮さん……。いい人ですね」
「そう思う? よかった。たまに、空気読まないけど」
二人で笑い合う。その一瞬が、妙に心地よかった。
会話はまだぎこちない。
でも、それはまるで、これから育っていくリズムのように思えた。
ふと、遥ちゃんが立ち止まる。
「あの、悠真さん」
「ん?」
「今日は、たくさん……お話、聞かせてください」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を持った。
「もちろん。俺も、遥ちゃんのこと、もっと知りたいから」
そして、ふたりはまた歩き出す。
初夏の空の下、静かに流れる時間を、ふたりで確かめるように。




