第三十一話「揺れる心に、差し込む灯」
名前で呼ばれただけで、こんなにも心が波立つなんて。
眠りにつこうと目を閉じるたび、あの声がふわりと耳の奥で響いた。
「遥ちゃん」
優しく、けれどどこか決意を帯びた声。
私の名前が、こんなにも柔らかく響くことを、私は知らなかった。
呼び名が変わることは、きっと関係が変わること。
でも、そんな簡単なことを受け入れられないくらい、私は臆病になっていた。
過去を話してからも、どこか不安は消えなかった。
あの日の夜も、思い出すのが怖くて眠れなかった。
でも……それよりも、怖いことがひとつだけあった。
――東雲さんが、いなくなること。
そんなの、おかしいよね。
ほんの少し前まで、名前すら知らなかった人なのに。
カフェで偶然出会っただけの人だったのに。
でも、私の毎日に、あの人の声や、言葉や、仕草が、少しずつ入り込んできた。
知らないうちに、私の時間の中に溶け込んでいた。
昨日、カフェからの帰り道。
胸がふわふわして、でも同時に、不安定だった。
嬉しいのに、怖い。
前に進める気がするのに、過去に引っ張られてしまう。
「……どうして、こんなに怖いんだろう」
小さくつぶやいた声は、誰にも届かないまま、布団に吸い込まれていった。
私はただ、あの人の声を思い出していた。
そして、また会えるのか、会ったとき、私はどんな顔をすればいいのか――
そんなことばかり考えていた。
そして翌日。
ベッドの上で、私はクローゼットの扉を開けたまま、しばらく動けずにいた。
「……何を着て行けばいいんだろう」
デート、というわけじゃない。けれど、ただの外出とも違う気がしていた。
東雲さんは、どんな服が好きなんだろう。
派手な色は驚かせてしまうかもしれないし、かといって地味すぎると、張り切っていないように思われるかもしれない。
「私らしい服って、どんなだったっけ……」
手に取っては戻し、また別の服を引っ張り出しては首を傾げる。
鏡の前に立っても、どれもしっくりこない。
私なんて、どんな服を着ても同じかもしれない――そんなふうに思ってしまいそうになる自分を、必死で打ち消した。
違う。私は今、変わろうとしている。
昨日よりも、少し前を向けるようになった私で、あの人に会いたい。
そんな気持ちに背中を押されて、私はふと目に入ったワンピースに手を伸ばした。
淡いクリーム色の、春らしい一着。
少し前なら選ばなかっただろう。でも今は――これを着てみたいと思えた。
「うん……これに、しようかな」
鏡の中の自分に、そっと微笑みかけてみる。
不安はまだある。でも、それ以上に、会いたいという気持ちが勝っていた。
そうして私は、心に小さな決意を抱えたまま、カーテンの向こうに差し込む朝の光を見つめた。
それはまるで、揺れる心をそっと照らす、優しい灯のようだった。
弾む心を抑え、漏れ出す光を全身に受けながら、私は玄関のドアを開いた。




