第三十話「君の名前に、ほどける午後」
店内に差し込む陽の光が、春の柔らかさをまとって差し込んでいた。
窓辺の席で向かい合う二人の間に、少しだけ、けれど確かな変化があった。
「急にごめんなさい。変なこと言って……」
遥が静かに切り出すと、悠真はコーヒーカップを置いて笑った。
「いえ、こちらこそ。……あんな真剣な顔を見たの、初めてだったので。思わず笑ってしまってすみません」
「ふふ……。でも、ちょっと安心したんです。そう言ってもらえて」
少し俯きながらも、遥の口元に浮かぶ笑みは、以前よりも自然なものだった。
「そうだ。雪村さん――じゃなかった、なんて呼べばいいですか? もう、他人行儀な感じもしませんし」
遥は、少し驚いたように目を見開き、それからすぐに表情をほころばせた。
「……じゃあ、"遥"で」
「うーん、じゃあ……"遥ちゃん"でいいですか?」
「え……」
頬がわずかに紅く染まったのを、悠真は見逃さなかった。
「だめ、ですか?」
「いえ……その……嬉しい、です。じゃあ、私も……"悠真さん"って、呼んでもいいですか?」
「もちろん」
自然に交わされたそのやりとりに、特別な言葉はなかった。
けれど、お互いの名前を口にした瞬間、それまでよりもぐっと距離が縮まったような気がした。
テーブル越しの空気が、少しあたたかくなる。
名前を呼び合うようになっただけなのに、会話のテンポがどこか柔らかくなった気がする。
遥は照れくさそうにカップを傾けながら、ふと視線を外の通りに向けた。
「……あの、悠真さん」
「はい?」
「たとえば、どこか――お店以外の場所で、お話できたらって思ったこと、ありますか?」
その言葉に、悠真は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに意味を理解し、頬を緩めた。
「それは、つまり……お出かけのお誘い、ですか?」
「……うん、たぶん、そう…です」
少し伏し目がちにそう言う遥の姿に、悠真は冗談めかした口調をぐっと抑えた。
「ぜひ、行きましょう。遥ちゃんが行きたい場所、ありますか?」
「えっと……最近、少しだけ遠出してみたいなって思ってて。電車に乗って、どこか静かな場所とか――」
「電車、いいですね。僕も最近どこにも出かけてなかったので、ちょうどよかったかもしれません」
遥の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、今度の週末……どうですか?」
「はい、楽しみにしてます」
ほんのささいなやりとりだった。
けれど、それは二人にとって――はじめての「約束」だった。
春の空気が、窓の外でやわらかく揺れている。
その風景のように、二人の関係も少しずつ、けれど確実に動き始めていた。




