第二話 「そっと触れたのは、まだ名前のない優しさ」
カラン、と。
控えめな音を立てて、カフェのドアを押し開けた。
あれから数日。
いつものように仕事を終え、ふらりとこの店に足を向けた。
特別な意図があったわけじゃない。
ただ、静かに流れる音楽と、香ばしいコーヒーの香りが恋しかっただけだ。
小さなベルの音に、奥で作業していた彼女が顔を上げた。
その視線が一瞬だけ、こちらをとらえ、ふわりと和らぐ。
ほんの些細な違い。
でも、それだけで心の奥が少し温かくなるのだから、不思議だった。
カウンター席には、まだ誰もいない。
僕は迷わず、その場所へ向かう。
席に着くと、彼女が静かに近づいてきた。
「こんばんは。」
透き通るような声だった。
前よりも、少しだけ近く感じる。
「こんばんは。」
僕も、できるだけ自然に答えた。
「……お怪我など、なかったでしょうか。」
彼女が、少しだけ目を伏せながら言った。
あの夜。
彼女を助けたつもりだったけれど、僕の方こそ心配されている。
なんだか、くすぐったい気持ちになる。
「大丈夫です。あれくらい、平気ですから。」
笑って答えると、彼女はほっとしたように小さく息を吐いた。
「本当に、ありがとうございました。」
頭を下げる仕草は、相変わらず控えめで、丁寧だった。
「いや、ホント、…ほっとけなかっただけですから。」
彼女は小さく笑い、そっとテーブルの上に、一枚の小さなカードを置いた。
「こちら、今日だけの特別メニューです。」
そこには、手書きのメニューが並んでいた。
── "キャラメルナッツラテ"
── "シナモン香るホットアップル"
── "ホワイトチョコとラズベリーのケーキ"
「……甘いもの、お好きですか?」
彼女が、少しだけ照れたように微笑む。
それは、たった一言の問いかけ。
でも確かに、昨日まではなかった距離の縮まりだった。
「甘いもの、好きです。」
僕は、迷わず答えた。
そして、キャラメルナッツラテと、ホワイトチョコのケーキを頼んだ。
彼女は「かしこまりました」とまた柔らかく頭を下げ、奥へと歩いていく。
その後ろ姿を、僕はそっと目で追った。
窓の外では、春の終わりの雨が静かに降りはじめていた。
まるで、世界が優しく洗い流されていくみたいだった。
——まだ、名前も知らない彼女。
でも、確かにそこに、温かなものが生まれつつある。
そんな気がした。




