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第十八話「夜の底、名前を呼ぶ声」

 あの夜のことを、私はたぶん、一生忘れられない。


 雨は降っていなかった。でも、風がやけに強くて、マンションの上階に住んでいた私は、ドアの隙間から風が吹き込む音にびくびくしていた。


 「お兄ちゃん、まだ帰ってこないの……?」


 壁の時計は、夜の十一時を過ぎていた。小さな手のひらでスマホを握りしめて、何度もかけた番号に応答はなかった。




 ひとりきりの部屋。




 私はベランダのカーテンを閉めてから、リビングの明かりを消した。なんだか、誰かが覗いているような気がして。実際には誰もいないと、わかっていたはずなのに。




 けれど、それは“気のせい”では終わらなかった。




 玄関のドアノブが、ゆっくりと下がる音。


 ガチャ、という金属の軋み。


 心臓が、飛び上がった。


 お兄ちゃん……じゃない。鍵は閉めていたはず。誰か、知らない人が――。


 逃げなきゃ、と思った。でも体が動かない。


 足が、床に縫いつけられたみたいに冷たくて、息をするだけで喉が痛くて。


 扉が開く音がして、廊下の先から人影がのぞいた。




 それが誰なのか、どうしてうちに入ってきたのか、なにもわからなかった。ただ、笑っていた。その目だけが、光を吸い込むように黒くて、私を見下ろしていた。



 「静かにしてたら、すぐ終わるから」



 耳元でそう囁かれた瞬間、私は夢の中にいるみたいに、何もかもが遠く感じた。






 気づいたら、見知らぬ車の中だった。


 ドアの外には知らない夜景、見知らぬ建物。世界が静かに壊れていくような感覚。ひとつも知らない場所、ひとつも頼れる人がいない場所。




 私の世界から、音が消えた。




 そのまま、私は「行方不明」になった。――五日間。


 誰も、私がどこにいたか知らない。


 私自身でさえ、あの五日間の記憶のほとんどを失っている。朧げに覚えているのは、天井のひび割れ、古びたソファの匂い、そして――



 あの黒い目が、また私を見下ろしていたこと。



 それが夢か現実かすら、いまの私にはわからない。


 でも、確かに私はあのとき「誰かに名前を呼ばれて」救われた気がする。



 「遥――」



 誰の声だったのか、それすら思い出せない。


 けれど、心の奥に残ったその温度だけが――いまの私を支えていた。

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