第十五話「名も告げず、影のように」
雪村遥が、あの夜倒れた。
それから数日、彼女はカフェに現れない。
──連絡先なんて知らない。
彼女のことは、何一つ知らないまま──それでも、心にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
講義に出ても、レポートをまとめても、何かが抜け落ちたまま。
大学の帰り道、悠真はまたあのカフェへと足を向けていた。
頼んだのはいつものカフェラテ。
窓際の席に座り、手をつけることもなく、ぼんやりと外を眺める。
──そして、気づく。
目の前の席に、あの男がいた。
黒いコート。鋭い視線。
雪村遥の名を呼び、彼女を抱き上げていた謎の男。
「……!」
心臓が跳ねる。全身が一気に緊張する。
それでも、確かめなければならないことがある。
席を立ち、男の前へと歩み寄る。
「……すみません、少し話いいですか?」
声をかけたその瞬間、男が微かに顔を上げ、悠真を見つめた。
悠真は、その鋭い目に少し圧倒されながらも、尋ねる。
「雪村遥さんのこと、知っているんですか?」
男はしばらく黙っていた。その沈黙が、悠真の心をざわつかせる。
そして、やっと男は口を開いた。
「君は、彼女の知り合いか?」
「…はい、この間も倒れた時、傍にいて──」
「…そうか」
そう話した瞬間、男は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに立ち上がった。
「ついてきなさい」
それだけを言い残し、踵を返してカフェを出ていく。
「……え?」
あまりにも唐突で、悠真は一瞬戸惑った。
だが、足は自然と男の後を追っていた。
夕暮れの街。赤く染まった空の下、二人の影が並ぶ。
男は一言も発せず、まるで目的地が既に決まっているかのように、淡々と歩く。
悠真の中で、さまざまな疑問が渦巻いていた。
──なぜ、俺を連れ出した?
──彼女はその後、どうなったんだ?
──そして、今、どこへ向かおうとしているんだ……?
だが、男は振り返らない。
ただまっすぐに──冷たい背中を見せたまま、歩き続けていた。