第十話 「あの日、胸に残った温度」
日曜の午前十時を少し過ぎた頃。
カフェ「ラ・カンパネラ」の扉を、悠真は静かに押した。
「いらっしゃいませ──」
店内に響いた声に、思わず目が向いた。
立っていたのは、あの日と同じ制服を着た「彼女」──雪村遥だった。
倒れた姿が嘘のように、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。
けれど、どこか表情の奥に「疲れの色」が残っていることに、悠真は気づいた。
「あ……昨日は……その、ありがとうございました」
彼女がこちらに小さく頭を下げた。
その姿がどこか、無理に平静を保とうとしているようにも見える。
「雪村さん、もう大丈夫なんですか?」
彼の問いに、遥はふわりと笑った。
「はい。ちょっと寝不足だっただけで……でも、今日はちゃんとご飯も食べてきましたから」
その言葉に嘘はない。けれど、全てを語っているわけでもない。
悠真はそれ以上、詮索はしなかった。
空いていた窓際の席に腰を下ろし、メニューも見ずに言った。
「じゃあ……いつものカフェラテを」
遥がわずかに目を丸くする。
「……よっぽどお好きなんですね」
「お気に入りなんです」
「ふふっ、なんだか嬉しいです」
店内には、クラシックの緩やかなピアノ曲が流れていた。
木の香りがほんのりと漂う、落ち着いた空気。
二人の間に流れる沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。
やがて遥がコーヒーを運んできたとき、ふいに口を開いた。
「私……」
その声は、わずかに震えていた。
「……一人でいると、時々眠れなくなることがあるんです」
カップを置く手が止まる。
「それで……気づくと、夜が明けてて。身体がついてこなくなるって、よくあるんです」
視線は彼のものを避け、テーブルの端を見つめていた。
「でも、誰かに言ったことはなくて。変に心配されるの、苦手なんです」
言葉が終わると、遥はふっと笑って、いつもの調子で言った。
「……ごめんなさい。こんな話、変ですよね」
悠真は首を横に振った。
「いいえ。……聞けてよかったです」
それだけ言って、カップに手を伸ばす。
その言葉に、遥はゆっくりとまぶたを下ろした。
──まだ、彼女は何かを隠している。
──けれど、今日の彼女は「話そう」としてくれた。
それだけで、充分だった。
「東雲さんは……今日も、大学の帰りですか?」
「いや、今日は……なんとなく来たくなっただけです」
その言葉に、遥が小さく微笑んだ。
カップの中で揺れるコーヒーに、ふたりの影が重なっていた。