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第一話 「このコーヒーカップに、まだ名前はない」

静かなカフェの隅で、

まだ誰にも知られていない物語が、そっと息をしはじめた。


 


特別な出会いなんて、きっと映画や小説の中にしかないと思っていた。

誰かと目が合って、心がほどけていくなんて、どこか現実離れした話だと思っていた。


でも、それはたった一杯のコーヒーと、

ひとつの小さな勇気から、始まるものだったのかもしれない。


 


名も知らぬまま、ただ隣り合った偶然。

言葉も少ないまま、少しずつ温め合う時間。


これは、そんなふうにして、

まだ何者でもないふたりが、

名前を知り、心を知り、

そして、誰よりも大切な存在になっていくまでの、

小さな、小さな物語。


 


どうぞ、ゆっくりとページをめくってください。

駅から少し離れた、小さな路地。


夕暮れの光はすっかり柔らかくなり、建物の影が長く伸びていた。

舗道には、今日一日の名残のようにぬるい空気が漂い、たまに吹く風が、それを少しだけかき混ぜる。


 


そんな路地裏の奥。

控えめな看板と、古びた木のドアが、そこにあった。


ガラス越しに覗く店内は、温かな光に満たされ、まるで外界とは切り離された小さな箱庭のように見えた。


 


カラン——。


小さなベルの音を鳴らして、僕はドアを押し開ける。


ふわり、と焙煎したてのコーヒー豆の香りが鼻先をくすぐった。

どこか懐かしさを感じる、甘いバニラの香りも混じっている。


木製の床はところどころ年季が入っていて、歩くたびに、かすかに軋んだ音がした。

壁際には、小さな本棚と観葉植物。窓辺には、一輪挿しに活けられたラナンキュラスの花。


静かに流れるピアノジャズ。

低く柔らかな照明。

すべてが、穏やかな時間の中に溶け込んでいた。


 


カウンターの向こう側に、彼女がいた。



栗色の髪を後ろでまとめ、清潔感のある白シャツに、薄茶色のエプロンを着けている。

お客に向ける笑顔は、作り物ではなく、どこか優しい温度を持っていた。


 


「いらっしゃいませ。」


彼女は、ふわりと微笑みながら、小さく会釈する。


僕も自然と笑みを返し、カウンターの端の席に腰を下ろした。


「こんばんは。カフェラテをお願いします。」


「かしこまりました。」


 


彼女は手際よく、豆を挽きはじめた。


ゴリゴリ、と心地よい音が響く。

その間、僕は無言でカフェの中を眺めた。


白いカップが棚に整然と並び、磨き上げられたカウンターが、天井の灯りを柔らかく反射している。

奥のテーブル席では、若いカップルが肩を寄せ合って話していた。

窓際では、年配の男性が一人、本を片手にコーヒーを飲んでいる。


誰もが静かに、自分だけの時間を過ごしている。


そんな空間に身を置くと、不思議と心のざわめきが静まっていく。


 


やがて、彼女がミルクピッチャーを手に取り、スチームを始めた。


シュワシュワと立ちのぼる湯気。

ほんのり甘い香りが漂い、胸の奥がほんの少し温かくなる。


彼女はミルクの泡を丁寧に整え、エスプレッソの上に注ぎ込む。

ゆっくりと、ラテアートのハートが浮かび上がっていく。


 


「お待たせしました。」


彼女がカウンター越しに差し出したカフェラテを、そっと受け取る。


カップはほどよく温かく、指先からじんわりと熱が伝わってきた。


飲む前に、一呼吸。


香りを確かめるように目を閉じ、鼻からゆっくりと息を吸い込む。


——その時だった。


 


ガチャ。


ドアが乱暴に開かれる音。


その音に、店内の空気がわずかに震えた。


 


振り向くと、酔った様子の中年の男が、ふらつきながら入ってくるところだった。


顔は赤く、足取りはおぼつかない。

襟元を乱し、どこか焦点の合わない目で店内をぐるりと見渡している。


彼女は、カウンターの奥からそっと視線を上げた。

他の客たちも、手元の本やカップを見つめたまま、息をひそめる。


空気が、ぴんと張り詰める。


 


「おい、店員!」


男が怒鳴るように声を上げた。


思わず、カップを持つ手がびくりと震えた。


「俺の席はどこだよ!」


カウンターに肘をつき、重たそうに身を乗り出す。


その手が、近くのメニューを押し倒し、ガラン、と乾いた音を立てた。


 


彼女は、一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにいつもの穏やかな声で答えた。


「お好きな席にお掛けください。」


「はぁ? なんだその態度は!」


男の声がさらに大きくなる。


誰もが息を呑み、視線を伏せたまま動けずにいた。


彼女は小さく胸に手を当て、深呼吸をひとつ。


けれど、酔った男はそれすら気に食わない様子で、さらに一歩、カウンターに詰め寄った。


 


「ちゃんと案内しろって言ってんだろうが!」


ゴン、と拳でカウンターを叩く。


店内に、鈍い音が響き渡った。


彼女の指先がわずかに震えた。


けれど、それを押し隠すように、彼女は静かに頭を下げた。


「申し訳ありません。他のお客様のご迷惑になりますので、お静かにお願いいたします。」


その声は、決して乱れなかった。

だけど、見えない何かが、ひりひりと肌を刺す。


 


……このままじゃ、まずい。


僕は、握っていたカフェラテのカップをそっとカウンターに置いた。


心臓が、静かに、しかし確かに速く脈打つのを感じる。


立ち上がり、カウンターから一歩前に出た。


 


「やめてください。」


自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。


 


男はぎろりとこちらを睨んだ。


「なんだ、テメェ……?」


強烈なアルコールの匂いが、距離を越えて押し寄せてくる。


だけど、逃げなかった。


カフェのこの空気を、彼女の落ち着きを、壊されたくなかった。


 


「あなた、もう充分に迷惑をかけてますよ。」


一語ずつ、はっきりと言う。


「少し、冷静になった方がいい。」


 


男は顔を歪め、何か言いかけたが——。


そのとき、別の客たちも静かに立ち上がり、こちらを見た。

無言の圧力。味方は、僕だけじゃなかった。


男は、舌打ちをひとつ残して、ドアの方へ向かう。


足元をふらつかせながら、ガチャリ、と雑な音を立てて店を出ていった。


 


静寂。


ピアノの旋律だけが、変わらず静かに流れていた。


 


「……ありがとうございました。」


彼女が、深く頭を下げた。


その瞳には、はっきりとした安堵と、ほんの少しの戸惑いが滲んでいる。


「いえ、大丈夫ですか?」


僕は、まだ少し早い鼓動を感じながら、問いかけた。


彼女は、ふっと息を吐いて、小さな笑みを浮かべた。


「はい……本当に、助かりました。」


 


ふと、手元のカフェラテを見下ろす。


表面に描かれたハート模様は、さっきよりも少し、かすれていた。


でも、それがなぜか、今の空気にぴったり合っている気がした。


静かに、カップを持ち上げる。

香ばしい香りと温もりが、ゆっくりと胸に広がった。


 


——こうして、彼女との最初の“特別な瞬間”が、訪れた。

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