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ヤマダヒフミ自選評論集

レヴィナスとドストエフスキー

 レヴィナスの「倫理と無限」を読んでいたら、ドストエフスキーに触れている箇所があった。ちなみにこの部分は萩原俊治氏の「ドストエフスキーのエレベーター」でも触れられている。

 

 レヴィナスが触れているのは「カラマーゾフの兄弟」でマルケルというキャラクターが言うセリフだ。彼は次のように言う。

 

 「私たちはみな、すべての人に対してあらゆる面ですべてのものごとに対して罪を負っているのですが、なかでもいちばん罪深いのはこの私です」

 (「カラマーゾフの兄弟」 「倫理と無限」の引用より)

 

 普通に考えれば、この意見は間違っている。世の中にはマルケルよりも悪い人間は存在するからだ。下には下がいるし、「客観的」に世界を眺め、他者を比較すれば、より悪い人間は存在する。だからこそ、我々は自分達を悪人だと考えたりはしない。

 

 一般的な観点からすれば、マルケルがこのように言うのは感動的な言葉ではあっても、意味のわからない言葉、あるいは偽善的、宗教的(つまり現代人から意味不明なもの)な言葉であって、論理的には間違っているという事になる。ドストエフスキーは一体どういうつもりで自分のキャラクターにこんなセリフを吐かせたのだろうか?

 

 ※

 私個人は上記のマルケルのセリフの中の、最後に使われている私を"私"という形で括りたい気がしている。というのは、このセリフの中で言われている「私」は通常の「私」とは違うからだ。

 

 また、私が上記で書いた「「客観的」に世界を眺め、他者を比較すれば~」という文章の「客観的」というのも一つの特徴的な見方として「」の中に入れておきたい。この、普通は深く掘り下げない見方を深く考える事が大切だと思うからだ。

 

 さて、話を戻して、レヴィナスがこの問題についてどのように書いているのか、引用しておこう。

 

 「私が他人に臣従するのは、まさに他人と私の関係が相互的なものではないからであって、その意味で、私は本質的に「主体=臣下〔sujet〕」なのです。すべてを引き受けるのはこの私の方なのです。ドストエフスキーのあの言葉をご存知でしょう。「私たちはみな、すべての人に対してあらゆる面ですべてのものごとに対して罪を負っているのですが、なかでもいちばん罪深いのはこの私です」。」

 (「倫理と無限」より)

 

 レヴィナスは他人と私の関係が「相互的なものではない」と言っている。これはレヴィナスが、上記で私が言った「客観的」とは違う観点で世界を見ている事を意味する。マルケルのセリフに同調するレヴィナスは、「私」と他人とを相互的なものとみなしていない。しかし、この視点は論理的に考えればおかしいはずだ。

 

 レヴィナスはその少し前に、よりはっきりと、次のように言っている。

 

 「ネモーーしかし、他人もまた私に対して責任があるのではないでしょうか。

 

 レヴィナスーーおそらくはそうでしょう。しかし、それはその他人にとっての問題です。」(「その他人にとって」に傍点が付されている)

 

 ここでもやはり非対称な関係が想定されている。しかしこの文章で繰り返し強調しているように、普通に考えれば人間関係とは対称的なもののはずである。何かを貰えば、そのお返しとして何かを送る。挨拶をされれば挨拶をするし、殴られれば殴り返す。…そんな風に、相互的な関係こそが人間関係なのではないか? だとすれば、レヴィナスとドストエフスキーと偉大な哲学者と文学者は一体、何を言おうとしているのだろうか?

 

 ※

 この問題については「自我の無限性」という観点から考えてみたい。ちなみにこの「無限」はレヴィナスの著書「全体性と無限」で使われている「無限」とは全く違う意味だ。

 

 ドストエフスキーは、自我の無限性というものにこだわった作家だった。それまでの作家は、この自我、自己意識の問題をそれほど深く突き詰めなかったが、ドストエフスキーは一人、それを徹底的に考え詰めた。それ故に、自意識に悩まされる現代人から感情移入しやすい作家となっている。

 

 ドストエフスキーに「地下室の手記」という作品がある。この作品の主人公は一人称でべらべらと語り、全てを自己の意識に収めながら、どうしようもなく満たされないプライドを発散させる人物である。

 

 主人公はプライドが高いのだが、現実では抑圧されており、他人を敵視しつつも、他人に認めてもらいたくてはならない、といったタイプの人間だ。とはいえ、彼のプライドはあまりにも高いので、他人に認めてもらった瞬間、それを否定してしまう。他人に認められ、他人から容認され、それに安堵する事は、それ自体が彼のプライドを傷つけてしまうからだ。彼はいつも他人よりも「高く」いたい。他人に評価され、そこに安住してしまうと、彼は他人に「理解」されてしまった人間となり、他人と同じ高さの人間になってしまう。彼にはそれが耐えられない。

 

 実際、この主人公は、作品の最後でヒロインのリーザからそんな扱いを受ける。リーザはレヴィナス的な意味における「他者」に他ならないのだが、主人公は自分を受け入れる「他者」に我慢できず、またいつものうじうじとした自己意識に舞い戻る。

 

 この主人公の造形は、その後の長編小説でも生かされている。一番はっきりしているのが、「罪と罰」のラスコーリニコフだ。ラスコーリニコフは誇り高く、他人を蔑んでいる。彼は暗い自意識に閉じこもり、ついにそれは爆発して、殺人事件を起こしてしまう。

 

 私はここで、自己意識の本質というものを考えてみたい。それは、いつも他よりも「高い」位置にいたがるものだという事だ。彼には他人と同等、というのが満足できない。それ故にいつも傲慢であり、他人を軽蔑しているが、しかし内心では他人を必要としており、他人に認められたいと思っている。

 

 この自己意識の本質は、他者との間で「非対称」的なものである。他者に対して、常に「上」であろうとするのが、高慢な自己意識の本質である。

 

 一方で、最初に話したマルケルはその反対の精神の持ち主である。しかし私は、マルケルは、ラスコーリニコフのような人物と同じような自己意識の在り方をしているのではないかと思う。マルケルの場合、彼の聖人的な自己意識はいつも他人よりも「下」である事を望んでいるのである。

 

 これはレヴィナスの言葉ともぴたりと合致する。レヴィナスは「他人にも責任があるのではないか?」と問われ「それはその他人の問題だ」と答える。つまり、"私"という自己意識の在り方、他者との非対称な関係が、この場合は他者よりも無限に下方に位置づけられている。

 

 ※

 ドストエフスキーの精神の成長過程においても、ドストエフスキーの小説内部の進行においても、無限に自己を高い位置に置いていた主人公が、最後には無限に自己を下方に置く、という風に動いている。その過程でキリスト教の問題が出てくる。

 

 しかし、今はその動的な過程について述べたいわけではない。それよりは、ドストエフスキーは、殺人者と聖人との間に、むしろ本質的な共通性を認めていたであろう、という事を考えてみたい。

 

 実際、ドストエフスキーはそのような人だった。彼の極端から極端へ移行する精神は、絶対的な悪と絶対的な善との間を揺れ動いた。しかし、凡人は絶対的な悪人にはならないし、絶対的な聖人にもならない。というのは、普通の人間の他者との関係は相互的なものであり、自己意識の極限性を果てまで突き詰めてみないからだ。

 

 自己意識というのは無限におしゃべりし続け、無限に自己を正当化し続ける。それは終わりがない。だから、一人称小説の「地下室の手記」の終わりは、主人公がその後も語り続けた事を示唆して終わっている。主人公はその後も自己から離れられず、自己正当化を続けた。

 

 自己意識というのはそれ自体が一つの世界であり、また他者との間に境界を作り出す。自己意識が強い人間ほど、他者と自己との懸隔を意識する。そして自分というものを無限に山積させていく。おしゃべりはやまず、倦まず弛まず続けられるおしゃべりが「自己」を生み出していく。

 

 しかし、自己というものは他者との関係によって作られているから、これは本当は錯誤のはずだ。例えば、ある青年が自分の絶対的な論理の正しさ、自分の世界観の正しさをいかに世界に対して正当だと示そうと、彼は親から育てられ、他人からの支援を受けなければ、彼は今の彼になれなかったはずだ。


 ところが、自己意識というのはそういう他との関係を忘れて、自己自身を絶対的なものとして打ち立てようとする。これは「青年の誤謬」とでも言うもので、頭の良い人間が大抵はかかる頭脳の病だ。

 

 こうした自己意識の傲慢は一つの病ではあるが、レヴィナスードストエフスキーのラインで考えるならば、そうした自己意識が逆の形に転化したものこそが、レヴィナス的な意味での「他者性」ではないかと思う。


 他者に対して自分が無限に低くなっていく事、それは、その自己の内部からすれば確かな事実である。それを客観的に見る視座からすれば、間違いではあるが、しかし「客観的な視座」といものはあくまでも自己の内部内での「客観性」である事を思い出せば、レヴィナスやドストエフスキーが自己の在り方の非対称性にこだわっているのが間違いではないというのがわかるはずだ。

 

 自己というのは本質的に非対称的なものとしてあるが、それを傲慢の方向に持っていくと、ラスコーリニコフやイワンといった「青年の病」が発動する。もっとも「青年の病」と私はここでは呼んだが、これは現代では極めてありふれたものであり、インターネット上で様々な自我が他人に認証されようと叫び合っている様を見ると、この病はあまりにも深く人々の中に浸透しているのがよくわかる。

 

 自我は、自分と他者との差異を生み出し、他者に嫉妬したり、自己の優越を示そうとしたりする。自己の優越を示そうとはしない、弱い自我は、強そうな自我に積極的に屈服する事で「青年の病」を受動的な形で補完する。


 これらの自我はしかし、互いにいがみあい、最後には闘争の果てに倒れる運命にある。ところが、彼らは自らの死を見る事はできない。「地下室の手記」の主人公がいつまでも語り続けたように、彼らは自らの自己意識の内部を生き続け、その果て、つまり果てとしての他者性は「死」という形でおとずれるのだが、もはやそれは彼らの手には負えない代物だ。死は外部に位置する。それ故、彼らは常に中途な存在として死ぬ。

 

 この傲慢な自我の働きをしかし、宗教的回心を契機として、無限に下方に位置づけていく時、世界が「他者」として開けてくる。レヴィナスが言いたい事はおそらくそうした事だろう。

 

 もっとも、ここにおける宗教的回心とは何か、私にはまだはっきりとわかっていない。おそらく、それは理性を越えたものであり、自己が自己の外部との関係によって成り立っている事、あるいは言い換えると、こう言ってもいいのかもしれない。「それは自らが存在する事に対する感謝」だと。

 

 レヴィナスはハイデガーを批判している。ハイデガーは、根源的と思われる問いを哲学的に考えた。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」 ハイデガーはそんな風に考えたが、しかし、そのように思考する以前にそう思考する存在そのものは存在してしまっている。

 

 そうした問いはそのような問いを成立せしめた様々な存在を忘却し、あたかも、自分が世界の彼方でたった一人で考えているような様相を表すーーここでは真摯に哲学的な問いが考えられているようで、実際にはそのような問いを提出する人物そのものの思惟を絶対化し、そのような思惟を成立させている実際の世界の有様そのものを排除してしまっている。


 レヴィナスが「存在」に「暴力」を感じたのはおそらく、そうしたものだろう。「存在」という根源的な観念が取り出される際、実際にはそうした観念が取り出される操作によって排除されているものが存在する。

 

 ※

 「地下室の手記」の主人公はラストで、現代の人間はみな「死産児」であり、書物で自分の世界観を作ってしまって、生きた肉体を持っていないと述べている。これは現代の人間は自らの自己意識に閉じ込められており、そう言いたければ「存在」といったような観念に囚われ、それによってその存在を成り立たせている諸関係を忘れている、という事になるだろう。

 

 とはいえ、ドストエフスキーはこうした死産児を単に否定するやり方を取らなかった。罪人のみが改悛できる、と考えるならば、病んだ自己意識が癒やされた時、彼は自己を無限に下方に押しやる。つまり彼は世界に対して謙虚になる。自分が存在している事、そして存在を可能にしてくれた世界に対して「感謝」する。

 

 ドストエフスキーの世界は、極端な両極性によって作品の幅が大きく取られている。その要に位置するのは自己意識の深さだろう。自己意識の深さが、自らを高く持ち上げ、世界との諸関係を忘れる時、彼の中に暴力性が生じる。「地下室の手記」の主人公は犯罪まで至らないが、ドストエフスキーはその洞察を深くし、自己意識の病が現実の暴力にまで及ぶ過程を「罪と罰」という作品で描いた。

 

 しかし同時に自己意識の病が自らの過ちを悟った時、マルケルのような謙虚な言葉が出てくる。彼が誰よりも罪深いのは一体何故だろうか? それは彼が彼だからである。彼が彼自身を見ているからである。私、すなわち、彼以外の他人が彼を見るのではなく、彼が彼の内部を見た時、彼は自分が一つの深淵である事を知る。そして彼は自らの深淵に対処しようとする。だが、彼にとって他人の深淵はその他人の問題だ。それはあくまでも"他人の深淵"なのだ。

 

 だからレヴィナスは次のように言う。「おそらくはそうでしょう。しかし、それはその他人にとっての問題です。」ここで、レヴィナスとドストエフスキーは自我の謙虚性について一致した見解を出しているように思われる。私はレヴィナス「倫理と無限」を読んで、そんな感想を抱いた。


 そうした見解は自我の深い病性と深く関わっている。つまり、現代人に取り憑いている自己意識と深く関わりあっている。それ故に、この二人の大家の見解の一致は、現代の我々にとっても他人事ではない事柄であるように思われる。



※1 書いたあとに気づいたが、自我の絶対性を肯定し、自分を無限に下方に押しやりつつ、同時に自分が他者との関係によって成り立っていると意識する事ーーこの二つは矛盾している。


 もし自我の絶対性を肯定するなら、他者は自己意識の一部としてしか考えられないし、そうなると「他者との関係によって成り立っている」というような客観的な世界観とは相容れない。


 つまりレヴィナスやドストエフスキーの言わんとしている事は、主観性の極限と客観性の極限が同時に成り立っている事になり、これは明白な矛盾だ。…しかしながら、まさにその"矛盾"を理想に置く事こそが彼らの思想の偉大な部分ではないかと思う。



※2 ドストエフスキー「悪霊」の中で、女学生が、自分が赤ちゃんの頃、自分をだっこした親戚に向かって「私はそんな事を頼んでません!」と怒るシーンがある。これなどは典型的な自己意識の病だ。女学生は、「自分」を絶対化し、自分の「人権」を絶対だと思っているので赤ん坊の自分を親戚が勝手にだっこしたという事すら許せない。


 これはドストエフスキーが描いたわかりやすい「自己意識の病」だが、ここからもわかる通り「人権」のような現代的には「正しい」思想も、本質的には暴力的な思想と通底している。現代ではこの問題はまともに考えられておらず、偽善的に避けられるだけに留まっている。

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