プロローグ「フェイクスター」【3】
彼は高次元生命体だった。正しくは、四次元空間で誕生した生命体の一部だった。しかしその生命体が三次元の住人となる際に、彼は本体から切り落とされた。三次元では四次元の姿、能力のまま存在することはできなかったので、次元にそぐわない情報として、彼は本体から削除された。それが彼、Nだった。
本来ならば彼はそこで消滅するはずだった。しかしたまたま遭遇した三次元生命体の脳に寄生することができた。ただの生命体であれば、寄生できたとしてもすぐにNは消滅しただろう。しかしその三次元生命体はNの拠り所となるだけの知性を有していた。しかも疲労とショックから意志薄弱な状態にあった。Nは彼の意識を乗っ取り、その人格を模倣して、あたかも彼本人であるかのように振る舞った。彼の名は峰岸誠といい、アイドル養成学園で教職に就いていた。
Nと誠は文字通り一心同体だった。高次元生命体であるNには、三次元空間における寿命はないが、寄生体の性質上、宿主が死ねば共倒れになる。Nは不老不死ではあるが、決して不死身ではなかった。知的生命体の脳という水槽がなければ生きていけない。Nが三次元で生きながらえるには、常に予備の宿主を確保しておく必要があった。宿主を乗り換えるには、密度の高い接触をおこなわなければならない。そして宿主を支配下に置くには、自我が希薄な状態であることが望ましかった。もしも我の強い者に寄生してしまったら、Nはただの、誰かの脳内で余計なツッコミを入れるだけの非常識なおっさんに成り下がることだろう。幸い、予備の宿主候補はすぐに見つかった。峰岸誠に想いを寄せる女子生徒の花守維澄で、態度があからさまだったので、三次元生命体の感情に疎いNでもすぐに気づいた。維澄は風紀委員を務める真面目そうな少女だが、少し背中を押してやれば簡単に転落しそうだった。現に誠が声をかければ維澄は学生服のままショッピングモールについてきた。教師と生徒の交際や、アイドルの恋愛は御法度であるにもかかわらず。彼女のモラル意識など、上辺だけのものに過ぎない。いや、上辺だけのモラル意識しか持ち得ないからこそ、あたかも正しい人間であるかのように振る舞おうとしているのだ。Nは維澄の本性を見抜いていた。
その日、Nは維澄をショッピングモールの大観覧車に乗せた。
買い物を手伝ってほしい、そう言って彼女を誘った日の帰り際のことだった。
四人も入れば満員の狭いボックス席の中で、Nと維澄は向かい合って座っていた。
「今日は助かったよ。遅くなってしまったけどご両親は大丈夫かな?」
「はい。あらかじめ連絡しておきましたから。困ったことがあればまた、いつでも声をかけてください。わたし、峰岸先生のためなら何でもします」
「いや、何でもはダメだろ。……維澄君、そういうことを軽々しく他人に言ってはいけないよ。勘違いする輩が現れかねないからね」
維澄は傷ついたようだった。彼女は誰にでもそんなことを言うわけではない、彼女にとって峰岸誠は特別な存在だというだけのことだ、Nにもそれはわかっていた。ただ、三次元生命体の感情に疎いNは、その構造を知るためにあえて確認したのだった。
維澄の反応を確かめたNは即座にフォローを入れる。
花守維澄はこのままでは使い物にならないが、このような壊し方は得策ではない。
「……心配なんだよ。わたしにも独占欲はあるからね」
「え……、峰岸先生……?」
維澄は信じられないものを見るような目で誠を見た。この男の好意を得るに値すると思っていないのか。Nは維澄に同情した。彼は己の言葉について説明も釈明もおこなわず、鞄から包みを取り出すと、維澄に差し出した。透けるように薄い紙と艶やかなリボンでラッピングされた大きな箱だった。
「誕生日には少し早かったかな? 君へのプレゼントだ。開けてみてほしい」
「わたしにこれを……? ありがとうございます、峰岸先生……」
維澄は戸惑いがちにプレゼントを受け取ると、堅く結ばれたリボンを解き、小さく丸めて鞄に入れた。そして紙を破らないよう、慎重な手つきでセロテープをはがし、ラッピングを開いていく。包み紙から現れた黒い箱を開く前に、彼女はラッピングペーパーを折りたたみ、教科書の間にしまい込んだ。そして顔を上げ、Nを──正確には、峰岸誠を──嬉しそうに見やってから、太腿の上に置いた黒い箱を開けた。彼女の笑顔が凍り付く。Nが彼女に贈ったもの、それは魔導銃だった。
「維澄君は弓道を習っていたね。優秀な選手だったのに、わたしのためにやめさせることになってしまって、心苦しく思っていた」
「いえ。いいえ。アイドルの道を選んだ時点で弓道は諦めざるを得ませんでした」
「選手にはなれずとも、芸能活動をおこなう上でのキャラ付けには使えただろう。現にうちの学校には弓道部だってある。しかし君が選んだのは、弓道部ではなく科学研究部だった……」
「先生と一緒にいたかったんです。ご迷惑でしたか……?」
「まさか。そんなことはない。ただ、君の可能性を断ってしまったことを心苦しく思っていた」
「後悔はしていません。どちらか一方しか選べないときに、本当に欲しいものを選べたから」
「言ってくれるね。その銃を贈って良かった」
Nはにやりと笑った。維澄は急に現実に引き戻されたかのように、困った顔で彼を見た。
「その魔導銃は改造品だ。君の適性を考慮して、照準を合わせやすいようにわたしが改造を施した。知っているかな、維澄君。この大観覧車は小窓が開くようになっていてね……、ここで試し撃ちをしてみるか」
「ここで……? ここでですか……?」
「そうだ。ここなら人目に付かないし、射程範囲も広い。練習にはうってつけだ」
「でも……、魔導銃は、その……」
維澄は言い淀む。彼女の言わんとしていることをNは既に察知していた。
魔導銃には殺傷能力がある。武器として生み出されたものなのだから当然の話だった。そしてこのような場所で銃を撃てば、たとえ誰にも当たらなくても、罪に問われる可能性は高い。その行為自体が違法であり、あとは見つかるか否かの話だ。だからこそNはこの場で維澄に魔導銃を撃たせようとした。正しくあろうとしている彼女が自らの意志をもって法や倫理を侵すこと、それをNは望んでいた。
「……有害なものを狙えばいい」Nは囁いた。「たとえばあの、大型魔導モニターはどうだ? 娯楽に見せかけた悪質なプロパガンダ映像ばかり垂れ流している。あのようなものを野放しにしておく方が害悪だ。社会にとっても、個人にとっても……」
Nは維澄の隣に移り、箱の中から取り出した魔導銃を彼女に持たせた。維澄の手は震えていた。Nは維澄に密着しながら小窓を開くと、彼女の冷たい指に自らの手を重ねた。
「先生、峰岸先生、わたし、わたしは……先生のことが……、その……」
「……言わなくていい。維澄、俺もそう思っている」
維澄は落ち着きを取り戻したようだった。
「一人でできます」
そう言って、維澄は魔導銃を両手で構えた。彼女の表情はNには確認できなかったが、その手はもう震えていなかった。維澄は魔導銃のひきがねを引いた。遥か下方の十字路で巨大モニターが光ったかと思うと、続けざまに爆発が起き、しばらくしてから爆音が聞こえた。Nは維澄を抱きしめた。彼女はぐったりしていたが、その両手はしっかりと魔導銃を握っていた。