プロローグ「フェイクスター」【2】
「なんなんだこれは……モヤモヤする……」
鈴木よしみは独りごちた。
円形の窓の向こうに巨大モニターが見える。厳密にはそれは彼の知るモニターではなく、空中に浮かぶ透明フィルムに映し出された映像だった。目覚めたとき、彼は見知らぬ部屋にいた。モノトーンの室内は狭く、簡素なベッドと丸い窓のほかには出入り口一つない。いや、目覚めてすぐの頃には、壁一面の本棚と何かのアニメのキャラクターのフィギュアが見えたはずだったが、よく見ようと目を凝らし、近づいた途端に消えてしまった。何故ここにいるのかは何一つとして覚えていない。彼の記憶は交通事故の直前で途絶えている。いつものようにジャンクフードを買いに出かけた無職のよしみは、斜め横断をしようとして、ダンプカーにはねられた。
窓の外を見る限り、ここは日本ではないようだ。よしみの好きなドイツ地方の古い街並みに似ているが、家屋の外壁はカラフルで一棟ごとに色が違うし、窓も扉も曲線的だ。そして路地の交差する地点には巨大モニターが浮かんでおり、ニュース映像が映っている。鈴木よしみは窓越しにその映像を眺めていた。
長身痩躯の三十代のスーツ姿の眼鏡の男が、華やかな白いドレス姿の若く可憐な女を抱き寄せ、キスをする様子が流れている。
「なんであいつが……、いや、あいつらが映ってるんだ……」
よしみは彼らを知っていた。死刑を求刑されながら逆転無罪となった科学者のレナード・ウォレスは彼の作ったキャラクターだし、ヴィオレッタ・ソーンは彼の義妹、すなわちのちに彼の弟の妻となった女がレナードの設定を改変して作った、いうなればパクリキャラだった。レナードを作ったのは、現在五十一歳のよしみが二十代半ばを過ぎた頃のこと、当時、普及し始めたばかりのインターネット上で見ず知らずの相手とTRPGで遊ぶために作ったキャラクターだった。よしみはそのようなごっこ遊びを愛してもいたし、憎んでもいた。彼は幼い頃からずっと別の人間になりたいと思いながら生きていたが、それが決して叶わないことも痛いほどわかっていた。空想の中でなら自分は何者にもなれる。それを誰かと共有したいという思いは強かったが、共有しようとした瞬間に崩れ去るものであることも知っていた。そして当時の鈴木よしみはそんな矛盾に対して強い怒りを抱いていた。
レナード・ウォレスは彼の怒りから生まれたキャラクターだった。別の言い方をすれば、悪意のロールプレイ用、荒らし目的のキャラクターといったところだろうか。とはいえよしみは自分の生み出したキャラクターをただの道具と割り切れるほど器用ではなかった。彼のロールプレイはテロリズムと非難され、さらにヴィオレッタの存在が追い討ちをかけた。設定もロールプレイ傾向もレナードに酷似したヴィオレッタは界隈の人気者で、テロリズムと非難する者は一人もいなかった。義妹は美人だったが、性別も含めてそれはあとから知った話だ。彼女とそのキャラクターが人気を博した理由は、コミュニケーション能力とサポート能力の賜物だった。いかにもなキモオタ、と称される風貌のよしみにはそれがなおさら悔しかった。別の人間になりたいと願い、容姿を問われることのない世界に来たはずだったのに、そして創作能力を磨き、完璧なアバターを作ったはずだったのに、結局モノを言うのは現実のコミュ力か。苦い挫折経験と共に、レナードの存在はいつしか黒歴史となっていた。
そのレナードが目の前で、よりによってヴィオレッタと一緒に画面に映っている。ニュースでは、セレブの令嬢の無邪気な笑顔や大胆なキスばかりがクローズアップされているが、一方のレナードもまんざらでもなさそうだった。彼はヴィオレッタを抱き寄せ、人目もはばからずにディープキスをした。そして彼女を乗用車のような、流線型の乗り物に乗せると、二人でどこかに飛び去っていった。
「あいつに人を愛せるのかよ……モヤモヤする……」
人生五十一年、恋人など一度もいた試しがなく、二次元三次元を問わず、有名無名の区別なく、ネットで誰かを誹謗中傷することが日課となった鈴木よしみは己の所行を棚に上げ、不満げにぼやいた。
「あ。目覚めたんだね。ゴメンゴメン。気づくの遅れちゃった」
不意に背後で気配がして、可愛らしい声が聞こえた。振り向くと、いったいどこから現れたのか、青いグラデーションカラーのレオタードのような服を着た少女が立っていた。癖のある金髪を耳の上でツーサイドアップに束ね、紺のリボンで結わえている。まるでアニメやゲームから出てきたような非現実感だが、不思議とコスプレ臭さはない。少女は満面の笑みでよしみに挨拶した。
「ボクは地位川アリス。君の介護……じゃなかった、アシスタントだよ。よろしくね、プロデューサーさん」
「プロデューサーって……、なんなんだよそれは……」
「プロデューサーっていうのは、鈴木君のここでのお仕事だよ。君は異世界転移者でしょ。君の適正を解析したら、アイドルのプロデューサーが向いてるって結果になって。それでアイドル養成学園の新人を一クラス担当してもらうことにしたの。前任者がいなくなっちゃって人手不足だったから、ちょうど良かったって、学園長も喜んでたんだよ。無職にならずに済んで良かったね、鈴木君」
「なんかモヤモヤするなぁ……」
「目覚めてすぐだもん。脳がまだこっちの世界に慣れてないんだよ」
「そういう問題じゃないだろ……」
よしみがぼやいたとき、窓の向こうで爆音がした。