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プロローグ「フェイクスター」【1】

「判決を言い渡す」

 水を打ったように法廷内が静まり返る。

「被告人レナード・ウォレスを無罪とする」

 法廷内に失望と怒りと不満の声が満ちた。静粛に。裁判長が厳かに告げて、無罪判決の理由を述べるが、いったん生じたざわめきがそこから消えることはなく、まして当のレナードの耳にも入っていなかった。

 科学者のレナード・ウォレスは死刑を求刑されていた。一審でも二審でも判決は死刑、もはやパフォーマンスにもならない形ばかりの控訴の末に、連邦最高裁判所にて彼は無罪を言い渡された。判決が覆ることはない。誰もが驚く逆転劇。しかし彼は心のどこかでこの結末を予感していた。

 レナードの前に強力な支援者が現れたのは、最高裁に控訴してすぐのことだった。ヴィオレッタ・ソーンという名の少女が彼の元を訪れた。名前くらいは知っている。メディアの寵姫となった世界的な大富豪の令嬢。救世主の生まれ変わりを自称するヴィオレッタは、その美貌も相まってアイドルスターのようにもてはやされているが、レナードに言わせればたちの悪いペテン師だった。ヴィオレッタはにこりともせず、レナードをまっすぐ見た。喪服のような黒いドレスに透けるような白い肌、そして小さな窓から射し込む陽光を受けた暗い赤毛は奈落に向かって流れ落ちる血のように赤かった。死神のように不吉な娘だ。レナードは柄にもなく迷信じみたことを思った。死刑囚になることが確定している男を支援し、聖女気分を味わいたいのか、それとも政治的な思惑があってのことなのか。何にせよ、恵まれた環境で生まれ育った少女の傲慢な娯楽には違いない。ヴィオレッタの申し出を彼はまともに取り合わなかった。しかし彼女は諦めなかった。

「ウォレス博士。あなたはわたくしの太陽ですわ」

 二度目の面会に訪れたヴィオレッタはレナードにそう言った。心底うんざりするような、一周回って悪意と嗜虐心をかき立てられて執着を催すような、ひどい口説き文句だった。レナードは太陽が嫌いだった。この世のすべての生命を等しく憎む彼は、それらを育む太陽を忌み嫌っていた。そして太陽を爆発させてこの星のあらゆる生命を滅ぼそうとしたために彼は死刑を求刑された。地球生命殲滅未遂罪。彼を死刑台に送るために生み出された罪状だった。

 レナードはヴィオレッタの大きな目をのぞき込み、皮肉げに囁いた。

「……虫けらを踏み潰して遊ぶようなものか」

「なんのことをおっしゃってますの?」

「俺に対する慈善活動のことだ。俺も子供の頃はよくやったものさ。お嬢様にしては足癖が悪いが、まぁ、そんな遊びを教えてくれるような輩なんざ、上級国民様のお住まいの世界にはいらっしゃらなかったのだろう、独学ならば仕方がない。折角だから俺が教えてやろうか、虫けらの楽しい殺し方を。これからもここに来るつもりならな。理解しやすいよう人間の身体に置き換えて……、いや、ただの人間じゃ駄目だ、おまえのその、華奢な身体を虫けらに見立てて妄想したことをじっくり聞かせてやろう。感謝しているよ。こんな場所じゃあソレくらいしか楽しみがないからな」

 レナード・ウォレスには快楽殺人鬼の気質があると言った者がいたが、その指摘は正しかった。レナードは戸惑いがちに視線をそらす仕切り板の向こうの少女の変化を見逃さなかった。うっすらと開いた唇に、もぞもぞと動く足。かかったな。レナードは薄く笑った。聖女気取りのこの女は後悔する羽目になるだろう。虫けらが死んだあとに続く長い人生の時間において、良心ゆえではなく、満たされることのない被虐願望ゆえに。ヴィオレッタが戸惑いがちに顔を上げる。レナードは上流社会で生まれ育った清楚な少女の次の言葉を楽しげに待った。彼女は小声で「これを」と言って魔導タブレットをレナードに差し出した。無色透明の仕切り板に阻まれ、触れることこそできないが、その内容はレナードにもはっきりと見て取れた。

 光輝く薄い板に映っていたものは、死亡事故や殺人事件を報じたニュースの数々だった。ヴィオレッタの白い指がタブレットをなぞると、ホログラム映像が宙にいくつも現れる。それらは動きを伴いながら、或いは角度を変えながら、その一部始終と全貌をこの場で再現した。死亡者の顔や名前はいずれもレナードの知る人物だった。いや、知らない者もいるが、その肩書きや近況は彼に関係のあるものばかり。ヴィオレッタの見せたものは、レナード・ウォレスを死刑台に送ろうとした者たちの無惨な末路だった。

「おまえが……やったのか……」

「わたくしの力など、ウォレス博士に比べれば微々たるものですわ。わたくしはただ、世界中の富の集う環境に生まれ落ちた者としての義務を果たしたいだけ……。この世界に真の平和をもたらすために、具体的な手段など持ち得ないまま、活動しているに過ぎません」

「真の平和……だと?」

「ご説明は不要かと存じますわ。その手段をご存じなのはウォレス博士だけですもの。そして実行できるのも世界中であなただけ……」

 レナードは戦慄した。そして激しい興奮を覚えた。この女は本物の死神だ。ヴィオレッタの囁きが、標本の中の蝶に刺さった小さなピンのようにレナードを捉えていく。

「わたくしは幼い頃からずっと太陽になりたいと思っておりましたの。直視する者の目を潰し、すべてを焼き尽くす死の星に……。ですがウォレス博士、あなたの方がわたくしよりもよほど太陽に相応しい。ですからこの命はあなたに捧げます。いいえ、命だけなんて、そんなことは申しませんわ。あなたの嫌ってらっしゃるものをわたくしは存じておりますもの。わたくしの持ち物はすべてあなたに捧げます。わたくし自身を含めてすべて。あなたのことはわたくしが必ず無罪にいたしますわ」──そして彼女の宣言通り、彼には無罪判決が下った。

 晴れて自由の身となったレナードを出迎えたのは白いドレスのヴィオレッタだった。ドレスの裾には黒い唐草模様と赤い花の刺繍が大胆に施され、花の周りに散らばるルビーの欠片が陽光にきらめいていた。まるで血しぶきを浴びたようだ。レナードは彼女に親しみを覚えた。カメラ目線で笑わないセレブ。そう呼ばれたヴィオレッタは、心底嬉しそうな顔でレナードに抱きついた。このときの映像が、メディアの記録に刻まれたヴィオレッタ・ソーンの最初で最後の心からの笑顔となる。

 ヴィオレッタはレナードを見上げた。彼女のつけた香水の匂いがかすかに漂ってくる。甘く寂しげで瑞々しい透明感のある匂いだった。レナードは、夜露に濡れた月明かりの無人の花園を想起した。深淵に息づく手つかずの楽園。しかし目の前の令嬢は、真昼のように晴れやかな笑顔をレナードに見せた。

「お待ちしておりましたわ。ウォレス博士のために新たな研究施設をご用意いたしましたの。わたくしと一緒にいらして……」

「俺に下ったのは終身刑だったというわけか」

「聡明な方で何よりですわ。ですが刑期はいつ終えていただいても構いません。この世界そのものが監獄なのですから……。脱獄に必要なものはすべてわたくしがご用意いたしますわ」

 ヴィオレッタは背伸びをし、報道陣に見せつけるようにレナードにキスをした。それは彼女らしからぬ無邪気な振る舞いだった。すぐに身を離したヴィオレッタをレナードは皮肉げに賞賛した。

「君のような世界に愛された令嬢が俺の看守とは、この上なく頼もしい。やはり生まれながらの救世主は違う」

「いいえ、ウォレス博士……」

 ヴィオレッタはレナードだけに聞こえるよう、小声で言った。

「わたくしは救世主の生まれ変わりなどではありません。それはわたくし自身が一番よく知っています。世界的な大富豪の豪邸の片隅で人目をはばかるように育った知的障害を持つ男が実の妹に生ませた子……それがわたくしだったのです。この世の誰も、母親も、わたくしが生まれてくることを望んでなどいなかった……」

「いや、君は本物の救世主だよ」

 レナードはいつになく優しい声で令嬢に答えた。彼はヴィオレッタの腰を抱き寄せ、身動きを封じると、深く長いキスをした。今この瞬間に世界を滅ぼすことができないことを心から惜しみながら。

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