バスルームトラベラー
バスを降りると、目が覚めるような冷たい空気が首元に流れ込んできた。車内は暖かく、夢心地で、マフラーはバッグの底にしまいっぱなしだった。バス停から家までは五分ほどだから、私は雪が消え残る三月下旬の道を我慢して歩くことにした。
「帰ったらもう一度お風呂入ろっと」
お土産に買った入浴剤もあるしね、と思うと、なんだかあの温泉のぽかぽかが心に帰ってくるようだった。怖いくらいに月が光って、人気のない道をぼんやり照らしていた。旅行の思い出を頭の中で甦らしているうちに気づいたら家についていた。家の明かりがたった2日間いなかっただけなのに私をなんだか温かい気持ちにさせた。
「たっだいま~」
玄関のドアを開けるとお母さんがリビングからひょこっと顔を出した。
「おかえりなさい。癒湯ちゃん。卒業旅行楽しかった?夜はまだ寒いだろうに。マフラーもしないで」
「バスの中は暖かかったの。でも寒かったからもう一回お風呂入ろうかな」
「旅行で温泉行ったばっかりなのに。あんた本当にお風呂が好きね。ちょうど今お母さんでたとこなのよ。お風呂入っちゃいなさい。その間にご飯用意しておくから」
「はーい」
階段を上って自分の部屋に入り、2日分の荷物を下ろしとやっと自分のに帰れたなという安心感と旅行が終わってしまった虚無感で強い眠気に襲われた。
「早くお風呂に入って、すぐ寝よっと」
着替えと旅行先で買った入浴剤を持ってお風呂場に行くと、な~、という鳴き声とともに脚にもふもふとしたものがすり寄ってきた。
「ナーちゃん久しぶりー、相変わらず君は変な鳴き声だねぇ」
そう言って撫でてあげるとごろごろ言い出した。猫のナーちゃんはいつの間にか我が家に流れ着いた元野良猫で、今ではすっかり家族の一員だ。こっちに話しかけてきているような鳴き声が不思議だから、この名前になったのだ。
「ナーちゃんもお風呂入るー?」
なー、と返事をしたのでお風呂のドアを開けてあげると尻尾を振りながら入っていった。ついでに入浴剤も湯船に放り込んでおくと、勢いよく泡が出始めて湯船が鮮やかな紫色に染まり始めた。私もさっさと服を脱いで、ヘアゴムを取ると上げていた髪が肩に落ちて頭がほぐれてリラックスする。「またおおきくなっちゃったかなぁ」
温泉旅行で周りの女の子よりちょっとだけ大きい(ほんとに、ちょっとだけだよ!?)私の胸は、友達のおっぱい星人たちの格好の標的になったのだった。(女子校には他校の男子を漁りまくるイケてる女子かおっぱい星人しかいないのだ)
お風呂の扉を開けるとそこになーちゃんの姿はなかった。
「あれ、どこいっちゃったの?」
まさか溺れちゃった?不安になって慌てて湯船を覗き込むと、お湯の色はどんどん濃くなって、底が見えなかった。なーちゃんを探そうとお風呂に手を突っ込んだ。
「あれ、うちのお風呂ってこんなに深かったっけ」
いくら手を伸ばしても底に指が付かない。躍起になって身を乗り出した拍子に足が滑って体のバランスが崩れて、私は勢いあまって頭から湯船に飛び込んでしまった。
「んん~!??」
それでも手は底に付かない。慌てて上がろうとして何か掴めるものを探したけれど、いつの間にか、底だけではなくお風呂の壁も消えていて、私は完全に水中に飲み込まれてい居た。底は見えないまま、どんどん沈んでいくのだけが分かった。
(溺れるッ!)
手足を必死にばたつかせてお湯をかくと、少しずつ水面の明るさに近づいてきた。
(よし、もうちょい!)
伸ばした指先が空気に触れて、それに続いて体が水面を破る。 「——パァッ、はぁ、はぅ、し、死ぬかと思った」
しかし、肺が新鮮な空気で満たされるような単純な喜びは、視界がクリアになった途端に消し飛んでしまった。
「ここ…どこ…」
我が家のリビングよりも広そうな明るい空間は、湯気で満たされていた。部屋の真ん中には白い石づくり噴水や、美術館に飾ってありそうな石像が置かれている。足はいつの間にか地面を踏みしめていて、ひざ下ほどまでお湯が張っていた。
「お風呂…?いや、でも、こんな豪華な…」
そもそもの原因の、なーちゃんの姿も見えないまま、すっかり困惑していると、背後から誰かがお湯を跳ね上げながらこちらに詰め寄ってきた。
「メグ!お風呂で暴れないってあんたほんと何回言ったらわか、ん…の」
振り返った私の顔をみて、怒気をはらんでいた声は尻すぼみになり、代わりに戸惑いの表情が顔に表れた。初対面だけれど、第一印象ですでに圧倒されるような、とても綺麗な女の子だった。湯船に先が付くほど長い金髪は溶け残った雪が反射する朝日のように輝いて、瞳は晴天の色素をひとすくいだけ持ってきたような淡い青色をしていた。尖った耳も子羊のようなチャーミングだった。 (か、可愛い……外国人?あ、でも今日本語話してたしハーフなのかなぁ。ていうか…)
相手も考える事は同じだったらしい。
「「あなた誰?」」
(一話ここまで)