461.F級の僕は、禁呪によって黒い負の感情の凝集が行われている事を知る
6月18日 木曜日12
「タカシさん!」
誰かが僕の名を呼びながら階段を駆け上がって来る。
しかし僕はそれが誰なのか、確認する余裕すら無くなっていた。
頭の中で喚き散らされる大勢の人々の“声”
黒い負の感情が渦を巻き、自分が何かに侵蝕されていくような異様な感覚。
突然、かつて聞かされた甘い囁きが脳裏にフラッシュバックした。
―――F級と分かった瞬間、手の平を返してきた友達が憎くないの?
―――F級だからという理由で、いいようにこき使われて悔しくないの?
―――あなたは選ばれた存在。その他有象無象の虫けら達が、あなたを虐げているなんて、おかしいわ……
その囁き声はどこまでも甘く、僕の心を溶かしていく……
僕の等級とステータスが公になったあの日……
理不尽な法律と風潮によって、僕の社会的地位は最底辺に堕とされた。
来る日も来る日も、殴られようが罵詈雑言浴びせられようが、へらへら愛想笑いを浮かべながら、荷物持ちとしてダンジョンに潜り続けてきた……
すっかり忘れた気になってはいたけれど、しかし決して忘れてはいけないあの屈辱の日々!
―――可哀そうに……そんな日々を終わらせるにはどうすればいいか? あなたにはもう分かっているはず
そうだ……あいつら、散々馬鹿にしやがって。
あいつらには報いを受けさせてやらなきゃいけない。
そして今の僕にはそれを強いる事が出来るだけの力がある。
僕を馬鹿にしてきた連中を嬲り殺しにして、スキルを奪って、さらに殺して……
『タカシ、呑まれてはダメ』
あの時と同じく、まるで頭をハンマーで叩かれたような衝撃が走った。
『魔王エレシュキガルの言霊に耳を傾けてはダメ』
意識の向こう側から、誰かの優しい歌声が聞こえてきた。
同時に、僕の心の一番深い部分に澱のように降り積もっていた何かが浄化されていく……
「タカシさん!」
気付くと、蹲っている僕の背にユーリヤさんがそっと手を添え、顔を覗き込んできていた。
「大丈夫ですか!?」
心配そうな表情の彼女の肩越しに、ターリ・ナハやララア、それに他の同行者達の姿も見える。
いつの間にか、頭の中を渦巻いていた無数の人々の“声”は消え去っていた。
あの異様な感覚も、完全に消えてはいないけれど、幾分薄まったように感じられた。
「すみません。ちょっと立ち眩みを起こしてしまったようで……」
ふらつきながら立ち上がった僕に、ジャンナが声を掛けてきた。
「一度この建物からは離れませんか? 先程から名誉騎士様が口にされてらっしゃる“黒い靄のような悪意の塊”。もしかしたら、名誉騎士様のみを標的にした呪詛の可能性も有るかと」
ユーリヤさんの表情が強張った。
「ジャンナ、あなたは呪詛の波動のようなモノも感知出来るのですか?」
「残念ながら呪詛そのものを感知は出来ません。ですがこの建物全体から、何か大規模な儀式呪法が発動されているのが感じられます。今の所、私達には何の影響も無さそうですが、こうして名誉騎士様に異変が生じているという事は、あらゆる可能性を考慮すべきかと」
「儀式呪法……」
ユーリヤさんが、総督府の建物に視線を向けた。
「……言われてみれば、確かに、何か魔力的な波動を感じますね……ララノア!」
視界の中、ユーリヤさん以上に僕の事を心配そうに見つめていたララノアが、声を掛けられる事を予期していなかったのか、肩をぴくっと震わせた。
「は、はい……」
「あなたは何か感じましたか?」
「は、はい……その……」
ララノアがおずおずといった感じで口を開いた。
「複数の……術具……地下に……大勢の人々……建物全体……包み込む……た、多分……禁呪……」
「禁呪!?」
ララノアの言葉を聞いた皆がざわついた。
ユーリヤさんが険しい表情のままララノアに問い掛けた。
「あなたの言う“地下に大勢の人々”、というのは、禁呪を発動させるための術者が地下に大勢集まっている、という事ですか?」
ララノアが首を振った。
「術者じゃ……なくて……多分……禁呪を……発動させる……贄……」
ララノアの言葉に、再び皆がざわめいた。
ふいに念話が届いた。
『タカシ、落ち着いた?』
「エレン!」
「タカシさん?」
僕が思わず上げてしまった声に反応したのだろう。
ユーリヤさんが、戸惑ったような表情になった。
「エレン、とは?」
ユーリヤさんには、エレン、そしてノエミちゃんについて、まだ伝えていない。
そして今後も――少なくとも、ユーリヤさんの“この国における勝利”が確定するまでは――引き合わせるつもりもない。
それはエレンの外見が魔族である事、ノエミちゃんがこの世界では“光の巫女”と尊崇される存在である事等が最大の理由だ。
人間至上主義のこの国で権力闘争を勝ち抜こうとしているユーリヤさんにとって、“魔族の味方”は、もしそれが公になれば、致命的なダメージになるだろう。
そして、本来この世界において、厳密な意味で中立性を求められる存在であるはずの光の巫女が、この国の一方の勢力に加担する形になるのは、ユーリヤさんにとっても、そして光の巫女という存在にとっても、百害あって一利無し、なはず。
まあそれを言い出せば、この世界で“勇者”と見なされている僕がユーリヤさんに肩入れする事も、クリスさんの言を待つまでも無く、本当は好ましくは無いのだろうけれど。
まあそんなわけで、僕としては、ここは誤魔化さざるを得ない。
「気にしないで下さい。まだ混乱しているようで、昔の知人の名前を呼んでしまったようです」
……誤魔化せている気はしないけれど、とにかくユーリヤさんはそれ以上突っ込んではこなかった。
「タカシさん、それではそろそろここから移動しましょう」
促されて、僕は皆と一緒に階段を下り始めた。
歩きながら、僕はエレンに念話で呼びかけた。
『エレン、さっきは君が助けてくれたって事、だよね?』
『あなたを助けたのは光の巫女。私とあなたのパスを使って、光の巫女があなたを侵蝕ようとしていた“黒い負の感情”を浄化した』
『そうなんだ。じゃあノエミちゃんにもお礼を言わないといけないね。それと……』
僕は改めて、今、エレンが口にした言葉を頭の中で反芻してみた。
『やっぱり、総督府の建物に纏わりついているのは、黒い負の感情って事で合っているのかな?』
『そう。だけどあまりに量が膨大過ぎる。これではまるで……』
『禁呪みたいな儀式呪法を使用して、誰かが能動的に凝集させている、とか?』
エレンから軽く驚いたような感情が伝わってきた。
『心当たり有るの?』
『実はね……』
僕は今しがた、ユーリヤさんとジャンナ、それにララノアが話していた内容について説明した。
その説明がちょうど終わる頃、僕等は総督府に続いていた階段を下り、そこから100m程離れた場所に到着していた。
僕はユーリヤさんに一言――今僕に起こった事、そしてララノア達が感知した禁呪と思しき大規模な儀式呪法について、少し解析を試みる(つまり、エレンとノエミちゃんの意見を聞いてみるって事だけど)――声を掛けてから、エレンとの念話に戻った。
『それでどうかな? 禁呪みたいなのを使えば、人々の黒い負の感情を凝集する事って可能かな?』
『可能。というより、あの場所にあれほど膨大な量の黒い負の感情が凝集しているのは、それ以外に原因は考えられない』
『地下に、禁呪を発動させるための贄として、大勢の人々が集められているって話は?』
『私があなたとのパスを通じて感じ取った黒い負の感情の量と規模から考えて、恐らく万を超える人々が贄にされているはず』
万を超える人々が贄……
それってまさか……!
僕の心の中の思念が伝わったのだろう。
エレンがやんわり僕の推測を否定した。
『殺されてはいないはず。寧ろ生きたまま、永遠に続く悪夢を見させられ、無理矢理黒い負の感情を搾り取られているはず。かつて魔王エレシュキガルは、自らが欲する黒い負の感情を集めるために、そうした手法を好んで使用していた』




