8月のハーレー
蝉の声が喧しい八月の日だった。
息子は一人、家でTVゲームに興じていた。
興じているというか正確には、クリスマスの時だけしかソフトを買ってもらえないため、もうやり飽きているゲームを惰性でプレイしているわけだ。
最高記録だあ、なんて叫んだところで、虚しいものである。
息子は今年で小学三年生である。
幼い頃からひどく病弱で、特に小児喘息の発作が激しく、月に一度は呼吸困難で死ぬ思いを味わい、また、風邪をひくとすぐにオーバーヒートし、四十度近い熱がぷうっと出る。当然、学校は休みがちである。
今日も、お母さんと山の方へハイキングに行く予定だったのだが、朝、熱を測ったら三十八度近くあり、急遽予定はキャンセルされた。
かといって、お母さんは息子の看病をするわけでもなく、仕事場のファミレスに電話をかけると、すたこら出かけてしまった。
べつに薄情というわけではない。
お母さんも心配なのはやまやまだ。
でも母子家庭で、お父さんの仕送りという高尚なものもないのだから、お母さんは寸暇を惜しんで稼がねばならないのである。
このお母さんとお父さんは、高校時代はいわゆる落ち零れの部類に属し、あまつさえ二年生の夏に息子を孕ませてしまい、なので学校を退学して結婚するに至った。
お父さんも始めの頃は真面目に働いたらしいが、一攫千金を狙う山師的メンタリティーの持ち主だったため、定職は長続きせず、代わりに怪しげな事業を次々と起こし、そのたびに敗北と借金苦を味わった。残念ながら、メンタリティーと才能は別物である。お父さんは挫折の人だった。しかも、駄目人間のわりには不思議と女に好かれ、だらしのない浮気を幾度となく繰り返した結果、息子が小学校に入学した年、とうとうお母さんから離婚を申し渡された。
離婚後、そんなお父さんも最初の一年は月に一回、息子との面会日に会いにきてくれていたのだが、二年目以降はすっぽかすようになった。
一度ならばまだしも二度三度と、約束の時間に待ち合わせ場所へ現れないお父さんに対し、お母さんは怒り心頭で、せっかく息子が楽しみにしているのに何たる父親かと、頭から湯気をぽっぽとさせた結果、遂に息子へ「お父さんはもう死んだ」通告を出した。
でも、息子はお父さんが大好きだった。
――きっと、お父さんは、また何かを企んでいるに違いないのだ。それで大金持ちになって僕たちを迎えにきてくれるはずなのだ。お母さんは女だから、お父さんの凄さをいまいち理解できないのである。
などと息子は、あり得ないお父さんの成功を思い描き、それが幻想だという自覚も実は半ばあったが、受け入れる理性はまだ育っていなかった。
そんな息子の健気にも拘らず、実際のお父さんは、確かに何かを企んでいたのは事実だが、またしても法に触れることを企んでいたのであり、しかもずさんな計画のために仕事は当初の段階で早くも破綻をきたし、現在、逃亡中の身だった。といっても、相手が警察だけならばまだしも、裏の世界の人にも狙われているのだった。
しかし、息子がそのことを知る術は、超能力者でない限り、ない。
息子は、ゲームをするのに疲れ、コントローラを放り出し、仰向けに寝転がる。
今日は子供にとっては夏休みだが、大人にとっては平日なので、薄い壁ごしからの隣室の物音はしない。さらに、クーラーの室温を保つために窓は閉めてあるので、みんみんとうるさい蝉の声も、なんだか別世界からの呻き声のようだ。急に、静寂が怖いみたいな心持ちになった。
息子は、タオルケットを頭まで被り、目を閉じてさらに耳まで塞ぐ。
すると、ざく、ざく、ざく、と、自分の心臓の鼓動が、まるで軍隊の行進していくような音に聞こえた。今、軍隊は自分の家の前を行進している。地獄の亡霊軍隊だ。子供の魂を狙っているのである。ひい、どうか、僕の家の前で止まらないで。などと、息子はそのうち本気になって祈るのである。
もっとも、地獄の亡霊軍隊の行進が止まるのは、すなわち息子の命が潰えた時であり、それこそ魂をさらわれる事態に相成るのだが。
と、その時なのである。
窓をコツコツと叩く音が聞こえた。
ような気がした。
ハッとして息子は耳から手を離す。
コツコツ。
確かにリアルな振動として窓を叩く音がする。
ひいい地獄の亡霊軍隊だあ!
息子はショックで死にそうになった。
というのも、ここは市営団地の二階なのであり、いくら息子をからかいにきた近所の悪戯っ子でも、そこまではしないからだ。
「ていうか泥棒だ」
息子は現実的に判断をくだし、ホフク前身で電話の所まで這って、お母さんの携帯の番号をダイアルしようとしたのだが、窓ガラス越しに聞こえた「息子よ」という声は、聞き覚えのある懐かしいものだった。
「お父さん?」
息子は、電話の受話器を戻し、窓枠の傍へおそるそおそる近づく。
お父さんが雨どいを伝って、窓から顔を覗かせており、息子にニンマリしながら手を振った拍子に、もう片方の手を滑らせ、どすんと地面に叩きつけられた。
しかし、お父さんは、頭はスペシャル級のボケナスなのだが、体だけは無駄に頑健に作られていた。
「さあ、飛び降りて来い!」
お父さんは、落ちた場所でそのままひょいと立ちあがると、息子に向かって大きく手を広げた。
息子は、玄関から出て、階段を使って階下に降り立つ。
思惑の外れたお父さんは、ちょっと拗ねて、口をタコのようにさせた。
「どうしたの、お父さん?」
「どうしたもこうしたもあるか。こんなに良い天気なのだぞ。家にいる奴があるか。海へでも行こうじゃないか」
言いながら、お父さんは白い歯をきらりとさせた。
このお父さんはいつだって自分の都合で動く。
でも、大人だからそこは阿呆なりにちゃんと社会性があって、さっき窓から覗いていたのは、お母さんがいないか確かめていたのである。
「えー、でも」
息子は、お父さんの誘いは嬉しかったのだが、自分のお熱のこともあって、逡巡した。第一、急にいなくなっては、お母さんも心配するだろう。
「おいおい、迷うことはナッシングトゥルーズソックスだぞ息子よ、見ろ、バイクだってあるのだ」
お父さんは、傍らのアイドリングしたままのバイクを指差し、それはハーレーダビッドソンだった。
「おお凄え、カッチョイー」
息子は目を輝かせ、のこのことバイクの傍まで行ったのは、男の子は格好いいものに目がないからだ。
「ねえ、ところでお父さん、どうしてこのバイクには、キーがついてないの?」
「馬鹿だなあ、お父さんの特別仕様だからに決まってるじゃないか」
お父さんは爽やかに笑った。
福山雅治似のなかなかの二枚目である。
でも息が少し酒臭かった。
しかし、息子はもともとお父さんが大好きなのだし、それになんといっても、ハーレーが格好いいのだ。
病気のことやお母さんの心配顔は吹き飛んだ。
「待っててね」
息子は出かける支度をしに家へ戻る。
その背中にお父さんが声をかけた。
「おい、お母さんには内緒だぞ、その、なんというか、アレだ。ソレがコレしてアレなんだ!」
お父さんは馬鹿だった。
「分かってる」
息子は親指をクッと突き立てた。
どうやら、お父さんの馬鹿は劣性で、お母さんの優性に駆逐されたようである。
息子は、いそいそとお出かけバッグに吸入器やらお薬やらを詰め込んで背負い、それから通学用の黄色いメットを冠り、最後に玄関へ鍵をかけると、小走りにお父さんの下へ向かった。
「ようしそれじゃあ行くぞう!」
お父さんは、Tシャツの襟刳りにかけてあったレイバンのサングラスを手に取ると、格好つけた仕種でかけた。ちなみに無論、ノーヘルだ。息子は、後ろのタンデムシートによじ登り、お父さんの腰にしがみついた。
しかし、いざお父さんがガチっとクラッチをあげ、ぶるんとアクセルを吹かそうとした、その瞬間。
「あらまあ、ちょっと待ちなさいな、てめえは誰ですか?」
まるで地面から生えたかのように出現したアフロヘアのおばちゃんが、二人を引きとめた。
息子はまずい顔をした。
「ようよう、息子よ、あのいなせなオバサマは誰だい?」
お父さんが背中越しに尋ねる。
「意地悪おばさんだ。いつもお母さんをいじめてる悪い奴なんだ」
事実、このおばちゃんは団地のゴシップ連合の顔役で、特に若い奥様方のあることないことを言い触らす、いわば女性自身な人だった。
「ようし、そういうことであれば、きゃっほう」
お父さんはアクセルをふかすと、どかん、躊躇なくおばちゃんをひき倒していった。
さすがのおばちゃんも、お父さんには叶わない。
「ていうかお父さん、さすがにちょっとあれは、まずいんじゃないですか?」
「ノンノン、息子よ、社会に出たら信賞必罰だ、覚えておくがよい」
お前がな。
お父さんは限りなく御機嫌で(酒のせいか)、ヤン車に乗っているお兄さん方に声をかける、気が合う、しばらく一緒に空ぶかしをしながら併走する、信号待ちの時に隣の車の粋なお姉さんに軽口を叩く、にこやかにあしらわれる、苦笑いをする、パトカーと擦れ違い様にこれ見よがしな蛇行運転をする、追われる、しかしそれを振り切る……ことをし、海へ行くまでに息子は結構な冒険を堪能できた。
息子はずっと笑っていた。
お父さんを信頼しきっているので、あまり怖いとは感じなかったし、それにワルの仲間入りを果たしたようで、なんだか心地よかった。
海の近くでコンビニに寄った。
お父さんは、アイスキャンディと大小のアロハを手に取ると、「海へ行く前にここでおしっこを済ませときなさい」なんて言って、息子の手を引いてトイレに連れていき、そして息子が用を済ませている間に商品をカウンタで清算するかと思いきや、いきなり店員を殴って失神させ、ついでにレジスターの金を失敬した。
息子がトイレから出てくると、お父さんは何食わぬ表情でさあ行こうかなんて笑って、一緒にアイスキャンディを食べながら海水浴場へ向かった。
しかしながら息子は、エンジンをかけっ放しでコンビニの駐車場へ置いてきたハーレーが気になり、不安げにお父さんに言った。
「盗まれちゃうよ」
「いや大丈夫だ、あのコンビニの店員さんがずっと見張っていてくれるそうだ、心配は無用の助だ」
お父さんは、やけに白い歯をきらりとさせながら、ぐわしぐわしと息子の頭を撫でた。
空がとても蒼かった。
さて、海水浴場は連日の猛暑のせいか、モラトリアムな若者がうようよし、それなりに賑わっていた。さんさんと照る太陽に、白い砂浜と何よりも女の子のビキニが映え、とても眩しい。
お父さんと息子は、海の家のロッカーに荷物を預けると、さっきのコンビニで入手したお揃いのアロハを着て、ビーチを闊歩した。
すると「きゃあ可愛い」なんて、女の人たちが息子を指差し、したら当然、お父さんはこれ幸いにと近寄っていって、仲良く話を始めるのだった。
それにしても、大人の女の人はどうして、ああも恥ずかしい水着を着るのだろうかと、胸の谷間を前にして息子は真っ赤になってしまうのだが、それがまた、女の人をきゃあきゃあ喜ばせるのだった。
「照れ屋さんなんだあ」
「そうそう、俺に似てね」
「どこがあ」
なんて、もっぱら女の人と楽しんだのは、お父さんの方だった。
お父さんは、どうもこの女は脈ありだなと不埒な下心を催すが、危ういところでしまった、今日は息子と遊ぶことが第一義なのだと、馬鹿なりになんとか思い出した。
女の人たちとはそのまま別れた。
お父さんと息子は、波打ち際で、地味に棒倒しをした。
つまらない遊びだけれど、お父さんと一緒にいるんだと思うと、息子はあまり退屈しなかった。それから、砂で変なお城を作ったりもした。いや、作るのを楽しむのではなくして、作った奴を蹴って壊すのが楽しいのだ。きゃっきゃっと、お父さんも喜んでいるようだった。というか、むしろ、お父さんの方が……。
でもそのうち飽きてきたお父さんは、コンビニから強盗した金でゴムボートを借りてきて、これで沖に見えるあの岩の所まで行こうと。
それもなかなか男心をくすぐられる遊びで、息子に異存はなかった。
ゴムボートは緩やかな波にのって出航する。
「ひゃあ、このままアメリカまで高飛びだーい!」
お父さんが、おもちゃみたいな櫂を頭上に掲げながら叫ぶと、息子も真似して高飛びだーいなんて言ったのだが、お父さんはどうやら本気だったようで、目指す岩場はとっくに通り越し、ふと浜辺の方を振り返ると人影が豆粒のようだった。
したら突然、はあとお父さんが溜息をつき、頭を抱えた。
「しまった、俺、アメリカがどっちの方向にあるか、知らねえんだった……。畜生、もっと勉強しときゃあ良かったなあ」
その悔恨の言葉は真剣そのものだった。
ここにきてようやく、息子は、まじでこの人やばいかもしれんと不安になり、同時に、お母さんの優しい笑顔が頭に浮かんだ。
実際、お父さんも最初はただ岩場を目指していたに過ぎないのだが、ボートを漕ぐうち、もしかこのまま海からならば国外脱出できるかもしれんと、なんか急に思いついたのだった。
お父さんは馬鹿なのだ。
するとやにわに息子がぜえぜえ苦しがり出した。
喘息の発作である。
お熱があるのにはしゃぎ過ぎたせいだ。
お父さんは、息子の喘息の現場に立ち会ったことがなかったため、必要以上に焦ってしまった。
「おい大丈夫か!」
おろおろした。
息子は胎児のように丸まって、ひゅうひゅう息を切らせながら、お出かけバッグの中に吸入器があるんだけど、それがあれば楽になることをお父さんに伝えた。
お出かけバッグは海の家のロッカーの中だ。
「ようし分かったあ」
お父さんは、おもちゃみたいな櫂で浜へと懸命にゴムボートを漕ぐのだが、その時、ひゅうと息子の難呼吸とは違う音がして、何かと思ったら、ゴムボートの空気が抜け始めたのだった。
もともと、岸辺でちゃぷちゃぷと遊ぶことを目的に作られたボートなので、ちゃちな作りなのは当然といえば当然だったのだが、お父さんは怒り心頭で。
「畜生、売店のあの親父め、つかませやがったな」
というか、そんなゴムボートでアメリカまで行こうとした方が、圧倒的に悪い。
「お父さん、苦しいよ」
息子は切なげに言う。
お父さんはもうたまらなくなって。
「ようし俺に任せろ」
お父さんは、息子をおんぶするとじゃぶと海の中に入って、しかし人を背負って海を泳ぐのは、よほどの達人でも難しいものだ。
「うぎゃあ」とお父さんは溺れてしまった。
「助けてお母さーん!」
息子はつい叫んでしまい、するとお父さんは嫉妬の念にかられ、こんちくしょう、父親パワーを見せてやるのだあ、父権復活!
お父さんは不良に特有の無闇な根性で、無茶苦茶に手足を動かし、どうにかこうにか水面へ這いあがった。
とはいえ、このままでは二人とも溺れるのは必須であったが、海水浴場にはちゃんと監視員がいて、二人がおもちゃのゴムボートで沖に向かった時点で異変に気づき、それこそアメリカまで行けそうな救命ボートで既に救助にきていた。
「もう大丈夫ですよ、さあ早く捕まって」
と、ぴちぴちのビキニパンツをつけたマッチョなお兄さんが、お父さんに手を差し出す。
助かった。
……のだが、これではお父さんはまるで面目が立たず、息子に会わす顔がないってんで、どりゃ、一本背負いで監視員のお兄さんを海へ投げ落としてしまった。
救命しにいったのに襲撃されたのは、後にも先にも、お兄さんにとってこれが唯一の経験だった。
「お前はお父さんが助けてやるからな!」
お父さんは、救命ボートを力の限り漕ぐのだった。
また襲撃されてはいけないので、少し距離を置いて、お兄さんが平泳ぎでその後に続いた。
そうして無事、浜辺に帰還できたお父さんと息子なのだが、吸入器を吸っても、息子の呼吸は正常に戻らなかった。簡易の吸入器だけでは、効く時と効かない時があるのだ。そういう時は、病院の専用の吸入器か点滴を打てば、どうにか治まる。
「そうか病院かー!」
お父さんは再び息子をおんぶすると、まさに脱兎の如く、病院目指して走り出すのだった。
でも、この辺には果たして病院があるのかすら、分かっていなかった。
無駄に10分ほど走ってから、息子が掠れる声で救急車に来てもらって……と、お父さんに告げた。
「おお、ナイスアイデア、お前は頭がいいぜ」
お父さんは息子を街路樹のポプラの木陰に横たわらせ、しかし自分の携帯は支払いの滞りのために使えなくなっていたので、道行く男子学生を脅して携帯を奪うと、慌てて電話をかけたのだが、消防署の奴はふざけていて、ただいま15時をお知らせしまーすとか、訳の分からないことをぬかしやがるのだ。
「この野郎、こっちは息子の命がかかっているのだ、いい加減にせんとぶっ殺すぞワレ!」
「あの、救急車は119ですよ」
携帯を強奪された学生は親切な奴で、お父さんに教えてあげたのだが、逆に頭をしこたまはたかれてしまった。
人に親切にして怒られたのは、後にも先にも、この学生にとってこれが唯一の経験だった。
「そのくらい分かっているのだ俺は」
お父さんは電話を掛け直して、ようやく消防署に通じた。
「とにかく海水浴場近くの海沿いの通りだ。俺がジャンプしているからそれを目印に2秒で来い!」
お父さんは早速、道路の路肩でぴょんぴょんと、その場ジャンプをし始めた。可哀相に、親切な学生さんも一緒に付き合わされた。でも、学生さんはトランポリン部のエースだったので、とても美しいその場ジャンプだった。
当然ながら、道路を走る車の中の人たちは、いったい何事かと驚いた後、げらげら笑うのだが、擦れ違いざま、汗だくのお父さんの鬼気迫る表情を見て、その笑いも凍りつくのだった。
救急車はすぐにやってきた。
そのぴいぽうという音が聞こえた時点で、お父さんはおういここだあと一目散に音の方向へ走り出し、勢い余って救急車にひかれてしまった。
でも、お父さんは無駄に頑丈だったので、肘を擦りむいただけで済んだのだが、ひゃあ人をはねちゃったと救急隊員が慌てて車から出てきたので、結果的に、また無駄な時間を費やしてしまったお父さんだった。
お父さんは挫折の人なのである。
でも親切な学生さんが、息子をだっこして、救急車のところまで運んできてくれた。
「ああーん、それは俺の役目なのー」
お父さんはまた、親切な学生さんに襲いかかろうとしたが、救急隊員に落ち着きなさいと羽交い絞めにされたので、出来なかった。
代わりに、お父さんは苦しがる息子の手をひっしと握った。
そして病院へ着いてからも、「まあ喘息ごときで大袈裟ねえ」と鼻で笑った看護師のお姉さんの目のまわりに青痣をこしらえさせるなど、お父さんは一つどころか二つも三つも悶着を起こしたのだが、長くなるので割愛させて頂く。
息子は、お父さんの暑苦しい励ましを聞きつつ、点滴を受けてベッドに横たわっているうち、いつの間にか寝てしまった。
結構、熟睡してしまったようだ。
起きたら、お父さんの姿はもうなく、代わりにお母さんがいた。
息子は怒られると思ったのだが、お母さんはにっこりと笑って、でもそれは母親の笑顔ではなく、媚びるような女の笑顔だった。
お父さんにのこのこついていった息子は、お母さんにそんな顔をさせた理由を何となく察知し、喘息が治まった後の気だるい頭痛をずきずきと感じながら、申し訳ないなあと心がちくちく痛んだ。
それ以降、息子はお父さんと会っていない。
お父さんは警察に自首したようだ。
そんなお父さんが本当に死んだと知らされたのは、息子が高校二年の時だった。
私は葬式には行かないが、お前は行っておやりなさいと、息子はお母さんに言われたのだが、結局、行かなかった。
蝉の声が喧しい八月の日のことだった。
ようやく墓参りに行ったのは、息子が大学生になって最初の夏休み、やはり蝉の声が喧しい八月の日だった。
息子の入学した大学は隣県だったため、前期は電車で通っていたのだが、後期が始まる来月からは下宿を借りて一人暮らしをすることに決めていて、というのも、さ来月にお母さんが再婚をするので家を出るには絶好のタイミングだったからで、一応、その故郷を離れることをお父さんにも報告しておこうと、なんとなく思ったわけだ。
家に戻るつもりはもうなかった。
お父さんのお墓の場所は、お母さんに教えてもらった。
お母さんは、ひそかに何回か墓参りには行ったようで、墓地の場所から墓石の在り処まで、詳細な地図を書いてくれた。
その翌日のお昼過ぎ、息子はマウンテンバイクを転がし、すると教えられた墓地の近くに花屋を見つけたので、手ぶらじゃなんだしと思い、花屋に入ると適当に墓参り用の花を見繕ってもらったのだが、そこの店員さんが息子と同い年くらいの女の人で、可愛い子だなあと見とれていたら、彼女は小学校の同級生の蜂須賀だった。
息子は分からなかったのだが、蜂須賀の方が息子に、もしかして息子じゃないですか? と尋ねてきたのである。
蜂須賀は息子の喘息仲間で、小学校の時は二人して、欠席記録を競い合っていたものだ。でも中学校の時に蜂須賀が引っ越したので、それ以来、会っていなかったのだが、すると俺はガキの頃からあまり変わっていないということかと、息子は情けないような気持ちになって。
「いや、あなた、男のくせに泣きボクロがあるじゃない、それで……」
「ああ」
息子は納得したのだが、その実、顔のつくりだけはお父さん似なので、なにげに女子の視線を集めていることを、知らぬは本人ばかりだった。
実際、病弱な子供時代を送ったためか、息子は読書や映画やビデオゲームを愛好するインナーの人だったので、彼女のいない歴は十九年だった。
それでも、息子「え?仕事何時に終わるの?」蜂須賀「え?なんで?」息子「いや今日俺もバイト休みだから飯でもどうかなと思って」蜂須賀「うんべつにいいよ」なんて交渉を成功させたのは、蜂須賀に対しては同志の気安さがあったからか。
六時に駅前で待ち合わせすることになった。
息子は嬉しさのあまり、つい墓参りがどうでも良くなってしまったのだが、まあ花も買ったことだし、仕方ない、だらだらと墓地へ向かった。
市営の共同墓地だ。
見晴らしの悪いところにひっそりとお父さんはいた。
なんとか居士って漢字の戒名がつけられている。
でも、お父さんには、同じ漢字でもむしろ仏恥義理とかの方が似合いそうだ、と思った。
息子は、買った花束を墓前に置くと、お母さんに持たされた線香を立てようとしたのだが、いやそうじゃない。
いったん墓地を出ると、タバコの自販機で適当な銘柄を買い、またお父さんの墓に戻った。
テレビとかで見たことがある。
不良な人たちはこうするんだろう。
息子は、線香に火をつけるためのマッチを擦ると、タバコに火をつけた。
けほんけほんと煙に咽る。
タバコを吸うのは初めてだったのだ。
涙目になりながらタバコを唇から離し、それを線香を立てるところに突き差す。
合掌。
息子にとって父親といえば、やはり小学三年の時の、あの海の思い出が強烈だった。
親父は、警察に自首する前にせめて一目だけでいいからと、俺に会いに来たのだろうか。いや、そんな高尚なものではなく、一人で逃亡生活を送るのが寂しいから、俺を拉致りに来たのだろう。もともと、面会日もすっぽかす人なのだから、俺のことなど、自分の都合の良い時だけ可愛く思う、いわば犬か猫の如く思っていたに違いない。
息子はもう、無邪気に父親を慕う、少年ではない。
だから父のようにだけはなるまいと、真面目に勉強をし、かといって特に優等生というわけではないが、一応、公立の大学に現役で合格した。当然、母親には感謝している。女手ひとつで、昼夜なく働き、養ってくれたのだ。それも、ファミレスのウエイトレス兼厨房手伝いを軸に、時間が空けば公園の便所掃除から工事現場の旗振りまで、割の悪いパート労働を幾つもこなしてだ。おかげで彼女の肌はもうかさかさだ。これから幸せにのんびりして欲しいと切に願う。
それに引きかえ親父は何だ。
あなたは本当にろくでなしだ。
人間の屑だ。
母のような立派な人と結ばれる資格などなかったのだ。
だいたい、出所した後、連絡ひとつ寄越さなかったのは、何故だ。家に一円も入れなかったのは、何故だ。いや、それだけは訂正する。実は親父、出所してからは、家に金を振り込んでいたのだってな。この前、お袋から聞いた。でも、それはお袋の嘘だと俺は思う。お袋は、俺には親父を多少は尊敬していてほしいのだ。お袋に免じて、騙されてやろう。
って、文句ばかりで申し訳ないが、それはあなたの自業自得だから、あきらめろ。墓参りに来ただけでもありがたいと思え。もっとも、これが最初で最後だろうがな。俺、家を出るからな。それから、お袋が再婚するのは、もう知ってるよな。てめえ、変な逆恨みをして、お袋の邪魔すんじゃねえぞ。
息子は、桶に入れてきた水をひしゃくですくい、父の墓石の砂埃を洗い流しながら、心に思いつくのは文句ばかりだった。
八月の太陽がてりてりと墓地を照りつけていた。
でも乾燥しているのか空気は綺麗な感じだった。
ところどころに植えられている柳の緑が生温い風を浴びてゆらゆらしていた。
そういえば暦のうえではもう秋なんだよなあ。
息子は、もういっぺんだけ父に合掌してから、墓地を後にした。
その後、今晩は飯はいらないからいいですとお母さんに電話し、もーまったく早く帰ってきなさいよなんて言われ、子供じゃねえんだからとか思いながら漫画喫茶で暇を潰し、早くも五時には駅へと向かっていた。
「ハアハアごめん待った?」「いや全然俺も今来たところサ」って、息子はずっと言いたかったものなので、その長年の野望を今晩ようやく果たせそうである。
しかし、六時を過ぎても蜂須賀は現れないもので、はちゃあ、すっぽかされてしまったかと悲しくなった、ちょうどその時である。
「よう兄ちゃん、ちょっといいかい?」
って、ぶろんぶろんいわせたハーレーに跨ったおじさんが、路肩から息子に声をかけたのだった。
変な奴である。
頭はノーヘルのぼさぼさ髪、顔は一面ひげもじゃで、グラサンと皮製のずぼんにブーツ、Tシャツには祝融婦人の美人画がプリントされており、その上に安っぽいアロハを羽織るように着ていた。
ただ、そのアロハになんとなく息子は、見覚えがあるような気がした。
「なんでしょうか?」
とりあえず息子は、なるべく穏便にことを済まそうと、好青年の笑顔で受け答えた。
「おう、御多忙のところをわりーな、道を聞きてえんだが」
「はあ、どちらへお出かけですか?」
「っていうかアメリカはどっちの方向だい?」
「……」
息子は、はからずも固まってしまった。
よく見ると、そのハーレーにはキーが付いていなかった。
「うひゃ」
おじさんは悪戯そうに相好を崩すと、息子の頭をぐわしぐわしと撫で、答えを聞かないまま、いきなりぶろんと走り去ったのだった。
「ああ待って」
息子はぺたぺたとハーレーの後を追いかけた。
でもハーレーには叶わない。
おじさんは片手を離し、後ろ向きに息子に向かってクッと親指を立てると、渋滞する車の向こうへ消えてしまった。
それこそ煙のように。
しかし息子は、なにか悪いものにとり憑かれたかの如くハーレーを追おうとしたのだが、突然、腕をはっしと掴まれて。
蜂須賀だった。
「……本当は、いつも会いたかったんだ、とても悲しかったんだ」
息子は、人目も憚らず、目頭を抑えた。
お父さんは、見ず知らずのちんぴらの喧嘩にツマラナイカラヤメロと仲裁に入って刺され、人づてに聞いた今際のきわの言葉が、「これで息子は俺を誇りに思ってくれっかなあ?」って。
そんな、あなたがどんなに挫折の人であろうと、あなたの息子であることが、僕にはいつまでも誇りなんです。
蜂須賀がそっと息子の手を握った。
とても暖かかった。
かなり昔に書いたもので、それこそ西暦二千ひとけた台。古臭い背景や拙い文書で、読み返すと顔から火が出る思いです。しかし、空回りした結果益々事態を悪化させるようなダメ親父のコメディものが大好きでして、個人的に愛おしい作品です。