蟹
彼女はため息とともに電車に乗り込んだ。効きすぎた冷房が彼女にまとわりついた熱帯夜の空気を剥がした。
十一時を過ぎたワンマン列車には乗客はまばらで、一つのロングシートに二人か三人が座っていた。シートは空白が多すぎて、彼女はかえってどこに座ろうか迷ったほどだった。結局、誰も座っていないシートの真ん中に座った。
乗客たちはみんな頭を下げて雑誌や新聞、スマホを見ているか、目を閉じて舟をこいているかだ。誰もが彼女に注意を払わないし、彼女も乗客たちに一瞥もくれない。まるで電車が走る音を聞くために、全員が沈黙を保っているかのようだった。
彼女は鞄からイヤホンを取り出して、スマホで音楽を再生した。音楽を聴くためでなく、自分を世界から隔離するために。スマホの画面に洪水のように流れ込んでくるメッセージを追ううちに、彼女と外界を繋ぐものは電車の振動だけになった。
二駅越えたあたりで彼女はスマホから目を離し、頭痛をほぐすために眉間を揉んだ。スマホの振動を手に感じるたびに、彼女の心は重くなった。
家が遠いため大学ではサークルに入る気はなかったが、語学で知り合った友人にしつこく誘われて、最近彼女は映画サークルに入った。そしてすぐに後悔した。映画はBGMのように流されているだけで、サークルでの時間のほとんどは部員同士の他愛もない話に費やされる。それだけならまだしも、しつこく言い寄ってくる先輩が彼女には我慢ならなかった。
前期末のテストが終わり、その慰労の名目で行われた今日の飲み会で、彼女は退会を決意した。口説いてくるあの先輩が、彼女の飲み物に酒を混ぜていたのだ。一口飲んで味の異変に気がついた彼女は、飲み物を先輩の顔にぶちまけたい衝動をなんとか抑えて、適当な理由で飲み会から離れた。
たとえ誘ってくれた友人との関係がギクシャクしたとしても、これ以上サークルにはいられない。彼女はアプリで友人とのトークルームを開いた。彼女が文字を打とうとしたとき、友人からメッセージが入った。
「あのあとちょー盛り上がったよ! なんで帰っちゃたのー?」能天気なメッセージのあとに同じく能天気な動物のスタンプが二つ送られてくる。
ケースにひびが入りそうなほど、彼女はスマホを強く握った。怒りが吐き気のように胃の奥からこみ上げてきた。続いて送られてきた写真には、彼女があの先輩と仲良く肩を組んでいる姿が映っていた。喉を上ってきた悪態をなんとか胃に押し返し、震える指で友人とサークルをブロックした。
どいつもこいつも……。自分の息が荒くなっていることに気がついて、彼女は周囲を見回した。他の乗客たちはみんな蝋人形のようにかたまっていて、彼女のほうを気にする素振りも見せなかった。彼女はほっと一息ついてスマホを鞄に入れた。すぐに鞄に入れたスマホが震えたので取り出すと、サークルの別の同級生だった。彼女はサークルのメンバーを片っ端からブロックした。今度こそ静かになったスマホを鞄にしまって、彼女は向かいの窓に目を向けた。
普段の帰宅時間なら、海が金の粉をまぶしたようにきらきらと陽の光を反射する。静かな太平洋の風景は、まだ慣れない大学生活で疲れた彼女を癒してくれた。うんざりするほど長い通学時間も、海を見れるなら悪くはないと思えた。
だが、窓外に広がる夜の海は日中のものとはまったく違った。夜空よりも黒々とした海は大きく揺れて、水平線からせりあがり空も大地も飲み込んでしまいそうだった。彼女は窓に映った自分が海に沈んでいるように見えた。波が岩に砕ける音が頭の中で響いて、イヤホンから流れている音楽はまったく聞こえなくなった。彼女の意識は海中に漂うプランクトンのようにおぼろげだった。
鋭い光に照らされた駅舎が見えて、彼女の意識は海から浮かび上がった。電車が停まり彼女の扉が開く。水あめのように粘着質な温い空気が彼女を包んだ。彼女は肩をぶるっと震わせて着ていたカーディガンの前を閉じた。彼女の鼻が、かすかに磯のにおいをとらえた。海からのにおいが届くほど、駅は海に近かっただろうか? 普段は風の強い日でも磯のにおいなどしない。違和感に彼女は首を傾げた。そう思えば、電車から見える海はあんなに近かっただろうか? 彼女はつい前のめりになって、駅の名前を探した。もしかしたら、間違えた路線に乗ったのかもしれない。
すぐに『あしの浜』という駅名が見つかり、彼女は胸を撫で下ろした。彼女の家の最寄り駅まであと三駅だ。ここから線路は左、海から離れて山側へと曲がる。
安堵で伏せた彼女の視界に、スラックスと革靴が目に入った。
都市部を離れていく電車に、こんな時間のこんなところから乗る人がいるなんて珍しい。もしスラックスと革靴が、水を被ったようにびしょ濡れで、流れ落ちる水が線をひいていなければ、彼女はそう思うだけだっただろう。
なにか恐ろしい予感が彼女の頭をひっかきまわした。今日は一日中カンカン照りの晴れだった。それなのになぜ、この男の足元はこれほど濡れているのだろう? なんとか筋の通った理由を見つけようとしたが、足が彼女の前を通ったとき、腐った魚のような猛烈な臭いに襲われて、彼女の努力は断ち切られた。なぜだか妙に恐ろしく、彼女は目線を上げて、この足の持ち主を窺うことができない。
足は彼女を数歩過ぎたところで停まり、向かいの座席に腰を下ろした。見た目は普通のビジネスバッグが足の間に置かれた。バッグからも水がにじみ出て、両足から流れる水と混じっておおきな一つの水たまりをつくった。臭いはますますひどくなり、彼女は魚の開かれた腹に鼻を突っ込んでいる気分だった。
電車が揺れて発車した。水たまりに波紋ができた。
彼女は顔を上げて、このずぶ濡れの男の顔を見ることができなかった。顔を伏せたまま、視線だけをできる限り左右に動かして、他の乗客の様子を窺った。
車両の右端にいる中年のサラリーマンは、食い入るように週刊誌を見ていた。彼は普段からそうしているのか、それとも車内の異変に気づいていない振りをするためなのか。彼女には後者のように思えた。
左端、車両の最後部にはスマホを凝視する大学生らしき男と、座席に深くもたれて眠っている三十前後の男がいた。大学生はいまにも画面に吸い込まれそうなほどスマホに顔を近づている。彼もまた、ずぶ濡れの男から目を逸らすためにスマホを見ているようだった。眠っている男も、さっきの駅に着くまでは起きていたはずだ。
少なくとも異臭は彼らにも届いているはず。彼女はこの男が自分にだけ見えている幻覚で、臭いもそれから生み出される幻臭なのかと思った。実際、そっちのほうがずっと良かった。あるいは、疲れはてて眠ってしまった自分が見ている夢であれば、もっと安心できたかもしれない。夢なら覚めればいい。だが、どんどんきつくなる臭いは、彼女の脳が夢に逃げられないほど生々しかった。
彼女の体が震えだした。恐怖のためでもなく、強すぎる冷房のせいでもなかった。向かいの男だけでなく、彼女は自分も全身が濡れている気がした。
不意に、男のズボンの裾のあたりが動いた。彼女が目を逸らせずにいると、裾から小さな蟹が二匹、ゆっくりと這い出てきた。
「ひっ」彼女は小さく悲鳴をあげて、その拍子に顔を上げてしまった。
男の上半身を見て、彼女の喉がつまり悲鳴は切れた。
ほとんど真夏だというのに、男はジャケットを羽織り青いネクタイを締めていた。そして、ワイシャツから伸びるはずの頭がなく、ただ窓の向こうの海が映るだけだった。
頭のない男が、あまりにも行儀よく彼女の正面に座っていた。彼女は事態を飲み込めず、ただこれが夢であることを祈るばかりだったが、祈れば祈るほど、臭いは吐き気を催すほどに強くなった。
彼女は男に手がないことにも気がついた。水が滴る袖口にはフジツボがびっしりと張り付き、中ではなにかがもぞもぞと動いていた。
男の裾からでてきた蟹が、彼女のほうへと近づいてきた。見慣れた横歩きで近づいてくる蟹の小さな目は、しっかりと彼女を見据えていて、彼女もその視線に気がついた。彼女は足を振り蟹を蹴り飛ばした。仰向けになった蟹は、起き上がろうと鋏と足で宙を掻いていた。もう一匹の蟹は鋏を振り上げたまま動かない。
ようやく恐怖が体を動かし、彼女が立ち上がろうとしたとき、電車が大きく曲がって彼女は再び椅子に倒れこんだ。
おかしい。彼女は振り向いて外を見た。電車は右に曲がり、住宅の明かりがすさまじい速さで遠ざかっていた。
この電車は左に曲がるのに。山のほうに、住宅地のほうに向かうのに。
パニックになりながら他の乗客を見た。三人とも、石像のように先ほどと同じ姿勢を保っていた。心拍が急激に速まり、彼女はこめかみに流れる血を感じた。血が運んでくるのは恐怖だけだった。イヤホンからは音楽ではなく、うねる波の音が流れていた。
鋏を振り上げていた蟹が彼女に向けて突進してきた。彼女はとっさに蟹を踏んだ。蟹は卵のようにあっけなく潰れたが、靴からはみ出た鋏と足がもがいていた。彼女の背中に痛いほどの鳥肌がたった。しばらくすると鋏と足は動かなくなった。
電車は異常なほど加速した。仰向けの蟹が床を滑る。彼女は恐る恐る男のない頭を見た。
ワイシャツの襟から、彼女の腕ほどの太さのある蟹の足が出ていた。わずかに赤みを帯びた足は電車の天井につきそうなほど長く、周囲を探るように振り回されていた。
彼女が言葉も発せず茫然としていると、足が次から次へと襟元から飛び出しぜんぶで四本になった。足たちは捕らわれた網から抜け出すかのように暴れ、男の体が左右前後に小さく揺れた。
一本の足が窓ガラスを叩いた。するとすべての足が動きを止めて、窓ガラスにゆっくりと触れた。彼女は呼吸をするのも苦しくなり、息を止めて足を見ていた。
一斉に足が動いて激しく窓を叩きだした。頭を揺さぶるような音が響いた。彼女は窓の外に蟹が張り付いていることに気がついた。
男の袖から大量の蟹が溢れた。網から水揚げされたように床に落ちる蟹は、あるものは動き回り、またあるものは後から降ってくるものによって潰された。彼女は小さく悲鳴をあげてシートの上に立った。異様な数の足が床を引っ掻き、巨大な足は窓ガラスを叩き続けた。彼女は網棚に掴まりながら、シートに登ってくる蟹を懸命に足で振り落とした。蟹と格闘しながら他の乗客を見たが、彼らは依然として固まったままだった。彼らと彼女の空間が隔絶されているようだった。
しばらくして、窓ガラスを叩く音が止んだ。それに合わせて小さな蟹たちもぴたりと動きを止めた。彼女の視線は自然と男に吸い寄せられた。
男の腹が膨れ上がったと思うと、その膨らみは胸へと上り、襟元まで来るとさらに大きく膨らんだ。ネクタイが千切れ、ボタンが飛び、襟が大きく開いた。
現れたのは巨大な鋏だった。丸いが先端は鋭い鋏は、彼女の首くらいなら簡単に切りおとせそうだった。鋏は振りかぶると、ピッケルのように鋭い先端を窓ガラスに叩きつけた。ガラスにひびが入る音が聞こえた。いつの間にか彼女のイヤホンからはなにも聞こえなくなっていた。ガラスの外には蟹がびっしりと張りついていた。
もう一度、鋏はガラスを突いた。ひびは広がり、三度目には小指ほどの穴が開いた。蟹たちは勝利を喜ぶように一斉に鋏を振り上げた。穴から水、まぎれもないあの腐臭がただよう水が入ってきた。鋏は先端を穴に突っ込み、ぐりぐりと回転させて穴を大きくしようとする。すぐにこぶしだいの穴が開いた。外の蟹たちが水とともに我先にとなだれ込む。襟元から伸びる足と鋏は踊るように揺れている。
彼女は突然口の中に塩気を感じた。喉を逆流してくるなにかに耐えられず彼女が吐き出したのは水だった。湧き水のように彼女は何度も水を吐いた。三度目には吐いたものの中に小さな蟹と小魚が混じっていた。
あまりのことに彼女は網棚を掴んでいた手を離し、シートに倒れこんだ。すると呼吸ができなくなった。どれだけ口を開けて酸素を求めても、口の中には塩気が満ちるだけだった。薄れる意識の中で、彼女は他の乗客を見た。彼らは水死体のように見えない水に浮かんで揺れていて、その体には蟹たちが這っていた。
すぐに彼女の体も浮き始めた。アナウンスの前に入る雑音が聞こえたが、流れてきたのは人の言葉ではなくごぼごぼという水が渦巻く音だった。蟹が泳ぐようにして宙を舞い、彼女の体にまとわりつきだした。襟元から伸びる足と鋏は、まだ喜びの踊りを続けている。
とうとう手足を動かせなくなった彼女が最後に見たのは、窓の外に広がる黒い海、そして電車を掴もうとする巨大な蟹の鋏だった。