清浄のあずまぐも
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
つぶらやのおじさん、お風呂空いたよ! 冷めないうちに入りなよ!
――区切りのいいところまでやるから、ボイラー切っといてくれ?
もう、すっかり夢中だね。まるで「ご飯できたからきなさ~い」と言われても、一向にピコピコ、ゲームをしている子供みたいだ。
おじさん、生活リズムが乱れているって誰かに言われたことなかった? 僕なんか21時には布団へ入って、6時前には起きるよ。がっつり眠らないと次の日が辛くて辛くて……。
おじさんにとっては、夜更かしがいつものスタイルなんだっけ? やりたいことやるのはいいけど、身体壊して早死にしないようにね。気持ちだけで、ものを書くことはできないんだから。風呂とかご飯とか、習慣づけとくと身体も休まるって聞くよ。
――何か、面白い話を話してくれたら、そうする?
相変わらず、おじさんはよく分からない人だなあ。まあ、眠るまで時間があるし、ちょっとくらいならいいよ。
「晴耕雨読」って言葉、おじさんは聞いたことあるよね?
晴れた日には畑を耕し、雨の日には屋内で読書をする。このようにその時々で、ふさわしいことをしながら暮らす姿から、世間のわずらわしさを外れて、悠々自適に過ごす意味合いがあるんだって。
でも、おじさんを見たところ、やりたいことはやっているけれども、本来の「晴耕雨読」からはかけ離れちゃってるんじゃないかな、と僕は思う。
この言葉には、自然の流れというものを大切にする、人間の営みがありありと浮かびあがっている。そこへ行くとおじさんの休日は、眠るべき夜に眠らず、起きるべき朝に起きないでしょ?
いわば意識的に、営みに向かってケンカを売っているようなもの。体調を崩したとしても、生物としての望ましい姿から外れた、そのツケが回ってきただけ。時代に応じて、ルールも習慣も変わらなきゃいけない、とはよく聞くけど、変えちゃいけないものもいっぱいあるんじゃないかなあ。
日本の南西に浮かぶ、小さな島々。今は人がいなくとも、昔は集落を作って人が住んでいた場所がいくつかあった。
ある島では、漁によって得られる魚たちが食事の大半を賄っていたが、島のあちらこちらでは田畑が作られて、野菜も食べられていたみたい。かつて魚ばかり食べて痛風に苦しみながら、亡くなった人がいてね。魚をほどほどに、他のものもしっかり食べるという教えが根付いたみたいだね。
ただ、野菜を育てる上で少しだけ困ったことがあった。それはこの島が、ほぼ毎年、台風の通り道に当たっていることだ。
適度な雨風であれば、むしろ作物には好ましい天候。しかし、強い風で葉っぱごと引っこ抜かれてしまったり、水の蓄えすぎで地面が滑ってしまったりすると、大きな損害を被ることになった。
しかし、大いなる自然現象に対して、取れる手段はさほどなかった。作物よりも自分たちの成果の土台たる、家々を守らないことには、明日へ踏み出すことさえままならないのだから。住処を守るためならば、たとえ収穫目前まで育ったものであろうとも、見捨てるように言いつけられたみたい。
だが、台風よりももっと畏れられている現象が、この島にはあったんだ。
その年は台風の被害がさほどでもなく、野菜たちは順調に育っていた。特に真夏ごろ、最盛期を迎えるように調整をした、琉球伝来の「しまかぼちゃ」は、葉やつるの育ち具合から、例年以上の出来になると、多くの人が楽しみにしていたくらいなんだって。
ところが、村人たちが集まる畑に、村の「雲見番」である男が走ってきた。「雲見番」は村に作られた櫓の上で、雲の動向を確かめる役目を負っている者のことだ。
息を切らしながら、彼はみんなに告げる。「東雲が現れた」と。
瞬間、皆の間に緊張が走った。
同じ漢字をいただいても、「あずまぐも」は「しののめ」とはわけが違う。にわかには信じられない数人が、村にとって返すと、東の空へ目を向けた。
水平線の向こう。すでに登り始めているはずの太陽を覆い隠すかのように、大きな積乱雲が湧き出していた。青い空の中で、雲はそいつしか見当たらない。他の雲をすべて吸い取ってしまったかのような、威容だった。
東雲は数年、長いと数十年おきに現れる、豪雨と雷鳴を孕んだ雲。天気は西から変わるという常識に囚われず、東から迫ってくるこの雲には、古くからの言い伝えがある。
「あずまぐもは、浄化の印。見初めたものを根こそぎにする、神の愛。人の身で、受けることも歯向かうこともできはしない。ただひたすらにじっとして、愛されぬよう祈るのみ」
その戒めを受けて、東雲が発生した日はすべての仕事を休み、家を守ることが最優先事項となる。たとえ、今まで育てた作物に、どのような被害が降りかかろうとも。
しかし、今回の発生は実に二十年ぶり。若い者の中には、話に聞くだけでいかなる脅威か知らない者も多かった。嵐に紛れて、いかなる盗人が現れるのかを確かめようとする動きもあったらしいんだ。
大人たちは、若人たちのたくらみの気配を察して、首を突っ込まないようにくぎを刺したものの、その程度で引っ込む血の気など、彼らは持ち合わせていない。
せっかく育てた野菜たち。それらを守るような方策を一切取らず、家に閉じこもることを指示する年配者たち。しかし、嵐が吹きすさぶ夕方ごろになると、そろってさっさと床に入ってしまったのは、若い連中への挑発だったのかもしれない。「知りたいのならば、勝手にしろ」と。
その様子を見て、思いとどまった者もいたが、数名は当初の思惑通りに、風雨が家の壁を揺らす中を外へ向かって駆け出していった。
すでに暗くなった空の下。雨に濡れ、足元はぬかるみ、耳の中で雷がとどろく。
これだけならば、すでに台風とお友達になっている彼らの歩みを、緩めるものにはなり得ない。彼らは一心に、今まで世話をしてきた畑を目指した。
ふと、先頭を走っている若者の顔面に何かが張り付き、視界を塞いだ。もぎ取ってみると、それは女が身につける長襦袢。片一方の袖の先が、近くの木の枝に引っかかり、彼の手に挟まれている、合わせ目から腰の部分にかけてが、風の吹きすさぶままに暴れている。
襦袢を着ながら畑の近くに来る者など、島の女には一人もいなかった。だとすると、これは盗人の現れを示すものかも知れない。彼らは勢いを得て、更に奥へと進んでいく。
畑は無事だった。地面から生えた葉っぱたちも、とめどなく吹き付ける雨混じりの風になびいているものの、数は揃っている。
とりこし苦労ならば早く戻ろう、という意見と、いやいや絶対に盗人がこれから現れるという意見に真っ二つに分かれる面々。結局、戻りを提案した者たちは帰ってしまい、ますます数を減らす探究隊。
一応、苗たちの状態を確認しようと、めいめい散って、畑の中へ入り込む。自分たちが育てた一本一本の前でかがみこみ、触っていく若者たち。やがて畑の真ん中あたりまで見て行った時。
ふっ、と今まで触っていたはずの芋のつるが、かき消えた。
それだけではない。触れていた自分の右手の親指から中指まで、一気に姿を失くしたんだ。
痛みはない。けれども、感覚もない。初めからなかったかのように、指があったところのつけねはしっかりと塞がっている。
ほどなく、あちらこちらで悲鳴があがる。皆も同じような目に遭っているのは、想像に難くない。
彼らは夢中で逃げ出した。どうにか畑を抜け出た時、後ろを振り返ってみたが、確かに生えそろっていた葉やつるたちは、もはやすっかり消え去っていたらしい。
そして彼らも、家まで逃げ帰ってようやく、両足の指さえも失くしていることに気づいたとか。
あずまぐもは、浄化の証。見初めたものを根こそぎにする、神の愛。
僕はあの襦袢は、本当に神様の着物だったんじゃないかと思っているんだ。だとすれば、その先は神様の風呂場。
お湯が垢を流すように、「今」というかさぶたを、神様が風雨と共にはいで行っちゃったんじゃないか。作物も若者の指たちも。