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不定期更新ですが、週1,2度は更新できるよう頑張ります。
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グーテンベルク島は、モントヤーデ帝国本土から西方120キロに浮かぶ「ドゥ・シュド海」最大の島だ。その面積は、例えるなら九州の3分の1ほどで、東西に細長く、歪な靴底のような形をしている。気候は年間を通して温暖だが、夏の終わりから中秋にかけて南東の激しい季節風が吹き、海上交通に大きな影響をあたえている。
200年ほど前から帝国による入植が始まり、最初の入植地である東端の海港オルバースは、今や帝国内でも屈指の貿易港となっている。このオルバースを拠点に、西へ西へと入植は進められたのである。
コペルニクスは島内で最も西に位置する村だ。しかし、地図上では島のほぼ中央に位置している。というのも、コペルクスから西には鬱蒼とした原生林が広がっており、入植者の行く手を阻んだからである。当初は数家族が細々と農業を営む集落だったが、近くに古代遺跡とその地下に迷宮が広がっていることが発見されると、コペルニクスはたちまち帝国中にその名を知られることとなり、内外から一獲千金を求める探索者がこぞって押し寄せてくるようになった。こうして僅か20人余りの集落は、地下迷宮への拠点として急速に発展したのだった。
唯は村の広場に立っていた。サッカーグラウンドほどの広さの円形の広場で、中央に差し渡し2メートル以上はありそうな菩提樹の大樹が立っている。さしずめ村のシンボルといったところか。村民もここを「リンデンバウムの広場」とか「リンデン広場」と呼んでいる。今は夏の初めで、菩提樹はクリーム色の小さな花を一杯つけて辺りに甘い香りを放っていた。木陰では数人の老人がボードゲームに興じたり、若い娘たちが喧しくおしゃべりをしている。
この広場を中心に東西に石畳の大路がのびていた。村の目抜き通りである。通りには箒やインクといった日用品をはじめ、探索者向けの特殊な魔道具を扱う店など、あらゆる種類の商店が軒を連ねている。
一方、広場の周りには公会堂や神殿や旅籠のような、より公共性の高い施設が立ち並んでいた。これら施設は半木骨造ではなく、付近の山間から切り出される赤茶色の砂岩で造られている。資金と労力はかかるものの、木造よりも頑丈で耐久性が高いからだ。
唯が向かおうとしている「赤い猪亭」も、一見すると要塞のような重厚な砂岩造りの建物だった。広場の北側にでんと構えるそれは、村内に3軒ある旅籠の中で一番の老舗で、なおかつ最も大きい。
唯は「赤い猪亭」の分厚い樫の扉を開けた。そこは天井の低い居酒屋で、ビールと煙草と香辛料の混ざった匂いが部屋全体に立ち込めていた。居酒屋を切り盛りしているのはマリア・ユステという40代の恰幅のよい女将だ。昼間は弱いエールと食事のみの提供で、今日のメニューは店の名物である「ひよこ豆と鶏肉の煮込み」と「アニス入りの揚げパン」だった。食事をしてきたばかりだが、アニスのほのかな甘い香りのせいで唯は口からよだれを垂らしそうになる。エリアスはカッサンドラの制作にあたって17ー18世紀頃の中世ヨーロッパの文化・風俗を参考にしたようで、おかげで唯は衣食住に関して今のところそれ程酷い思いをしなくて済んでいた。
「赤い猪亭」は1階が居酒屋と厨房、談話室、厩舎、2階が探索者たちの長期宿泊施設、3階はオーナーであるユステ一家が住居として利用していた。唯は居酒屋を突っ切って、奥の談話室へと向かった。
談話室は中庭に面した明るい広々とした部屋だった。室内には色形の違う椅子やソファーが雑然と置かれている。ここを利用できるのは「赤い猪亭」の宿泊者のみで、その多くはワン・フー目当ての探索者たちだ。
唯が部屋に入ると、そこには3組のパーティと1人の男がいた。男はひげ面の小男で、昨夜深酒でもしたのかソファーの上にだらしなく身を投げて大きないびきをかいている。
「あら、ユイちゃんじゃない」
窓際にいるパーティの一人が唯に声をかけてきた。マチルダ・ウィアーという見事な赤毛の女戦士で、唯のシリアルバーを最初に買ってくれた人だ。他のメンバー、マチルダの実弟のエラン・ウィアーと姉弟の従兄だという魔法使いのライナス・ラグランジュも一緒だ。
マチルダが椅子を勧めてきたので唯は礼を言って座った。
「マチルダさんたちはワン・フーの探索に行ってて留守だと思ってました」
「いやー、一昨日潜ったことは潜ったのさ、ところが兄さんがさ」
そういってエランがライナスを指さした。「兄さんが、巨大ムカデに噛まれて毒のせいでブツブツと存在もしない嫁の話を始めたから、仕方なく戻ってきたんだよ」
「面目ないです」とライナスがすかさず言った。確かに酷い顔色だ。
ライナスは灰色の髪と瞳の陰気で少し変わった男だ。パーティーの中で一番年長なので、エランからは『兄さん』と呼ばれている。
「解毒剤を忘れたからだよ。だからあれほど装備の確認をしろと言っただろ、エラン。アンタにも責任あるんだからね」とマチルダがぴしゃりと叱る。
「大丈夫なんですか? その、顔色がかなり悪いですよ?」
唯が心配そうにライナスを見た。
「大丈夫ですよ、これを朝晩飲めば2,3日で毒が抜けますから」と、ライナスは手に持ったカップの中身を唯に向かって見せた。それは、ドロリとした濃い緑色の液体で、ところどころに赤い粒状の物体が浮いている。なんだか物凄く不味そうだ。
「よければ、傷跡もお見せしますよ、フフッ」
「いいえ、結構です」
「からかうんじゃないよ、ライナス。ところで、ユイちゃんは私たちに何か用があるんでしょ? シリアルバーなら喜んで買うわよ」とマチルダ。
「はぁ、実は今日はお話を伺えればと思って…」
唯は自分も近々地下迷宮に挑戦つもりなので、その下準備に情報を集めているのだと説明した。
「ほぉー、お嬢ちゃんみたいな子が迷宮ねぇ。なんでまたそんな気になったんだ? やっぱ金か?」
エランが驚いた顔で聞いてきた。
「はぁ、その、ちょっと、よんどころ無い事情ができまして」
唯はしどろもどろに答えた。まさか「ここは作り物の世界なので元の世界に帰ろうと思っているんです」なんて口が裂けても言えないよなぁ、と唯は思った。
「まぁ、いいじゃない、エラン。みんなそれぞれ事情があるのよ。あれこれ詮索するのも野暮ってもんでしょ、ね、ユイちゃん」