part 11
Mont~光の国の魔法使い~
眼下の海からざわめきが聞こえる。城の屋上で亜麻色の髪を潮風になびかせてリフィアはじっと昼下がりの海を見つめていた。オーリエの町は海へと続く岸壁に階段のように連なっている。白い壁と青い屋根の町はさながらオーリエの海と白い雲のようだった。
父との会話から一夜を経て、彼女の頭の中には様々な思いが交差している。
(…私は…)
モーントに深入りすべきではないと父に伝えた。彼らの平穏を乱すくらいなら、と。でも、実際はどうだろうか。今、目の前に彼が現れたなら自分は彼を拒むだろうか。関われば貴方の平穏が危ない、とでも言って。
リフィアは息をついて室内に戻ろうとした。
そのとき、
「リフィア!」
突然聞き覚えのある声が聞こえた。
「アルヴァー…」
リフィアは目の前に現れたその姿を見て、思わず胸が高鳴った。
「…なんか…久しぶり」
アルヴァーは照れたように笑った。前髪をかきあげたその腕に白い包帯が巻かれているのに気づいてリフィアは驚いた。
「貴方、怪我を?」
「昨日、集落に…なんていうか、魔物…が出て」
アルヴァーは慌てたように包帯を隠す。
「恐ろしいわ…魔物が現れるのはよくあることなの?」
「そこそこかな…」
肩をすくめたアルヴァーはひょいと屋上の縁の石積みに腰掛けた。
「リフィアはあのあと何かあった?」
彼の問いかけにリフィアは微笑んだ。
「王に謁見したのち、父の容体が快方に向かったと知らせを受けたの。おとといの晩にはお話しできたわ」
そこまで言ってリフィアははっとした。父と話したことを思い出したのだ。
(…私…)
--アルヴァーとまた会う日を心待ちにしていたんだわ。そんな自分に気づいても、まだあの日と同じことが言える?
「リフィア?」
アルヴァーは突然押し黙った彼女を不思議そうに覗き込む。
「アルヴァー…」
考える前に言葉はリフィアの口からこぼれ出た。
「…私と貴方が関わることでよくないことが起こるかもしれないわ」
「良くないこと?」
リフィアはアルヴァーから目をそらした。
「この国は豊かであると諸外国から思われているわ。だから『光の国』などと呼ばれているの。けれど、実情は全く違う。豊かな南方に住まう南方民族と、山がちで荒れた北方に住まう私たち北方民族が常に対立しているわ。その状態で貴方たちモーントの存在が明るみになれば彼らにとって都合の良い存在でしかない。なんとかして自分たちの側に引き込もうとするわ。そうなれば貴方たちの平穏は壊される…」
アルヴァーは黙っていた。朝の澄んだ青空を見上げながら。
--ああ、そういえば、青空の下で彼を見たのは初めてだったかもしれない…
リフィアは不意にそんなことを思った。
「…そういえば、指導者たちがそんなことを言ってたような気がする」
アルヴァーの声にリフィアは我に返った。
「でも、自分たちを守りたいのなら、まずは敵を知らなくちゃな」
リフィアは彼が何を言っているのか理解できなかった。
「君たち南北両民族が何を考えて暮らしてて、どんな風にオレたちを縛りに来るのか。それを知っているかいないかで平穏を守れるかどうかは全く違う。それに、指導者の中からも南北の民と交流を持つべきだって意見が出てきてるんだ。むしろいい機会だ」
アルヴァーは笑った。
「もし、そいつらに交渉を持ちかけられたら、味方になってよ、リフィア。それで、そのためにも色々教えてよ」
月明かりの下で、魔的な色を放っていた彼の瞳は日の光のもとでは澄んだ空の底のようだった。
「…そう、貴方がそういうのなら…」
リフィアも微笑んだ。
--都合のいい言い訳を見つけてしまったような感覚が心の奥に一瞬よぎった。
「リフィア、見せたいところがあるんだ」
アルヴァーはぐいっと顔を近づけた。
「どこかしら?面白いところ?」
「すごく綺麗なところだよ」
「行きたいわ!」
差し出された手をリフィアは握った。彼の手は相変わらず冷たかったが、彼女の心は浮き立った。急いで髪を括り、部屋に戻りながらリフィアは振り返った。
「動きやすいものに着替えるわ。あと、レアと口裏合わせをしなければね」
「…お出かけ、ですか?」
レアは戸惑ったように問いかける。
「そうよ。構わないでしょう?」
「しかし、リフィア様…」
まだ躊躇っているレアにリフィアはさらに続けた。
「たしか、ラメルの街の領主家の令嬢…たしかエディスよ。彼女から以前お手紙があったわね」
レアは黙って頷く。
「そこにお出かけすることにしておきなさい。どうせお母様は気になさらないでしょうし、お父様は…それどころではないわ」
「しかし、たかが領主家の娘の元に出向くというのは不自然です」
レアはそれでもリフィアの遠出を渋っている。
「あら、今更なことを言うのね。考えてごらんなさい。オーリエ家は血すじこそ中流貴族であるけれど、実態はたかが領主と変わらないどころか、下手をすればあちらの方が裕福よ」
「…それはあの家が町民に重い税をかけているからでございます」
レアに一旦言葉を切り、ため息をついた。
「…わかりました。お嬢様がそこまでおっしゃるのならばこれ以上は無礼というものでしょう。お召し物をご用意いたします」
「…最初からそうすればよいのよ」
リフィアは勝ち誇ったように笑った。
「お待たせしたかしら?」
身軽な服装になったリフィアはアルヴァーの目の前に躍り出た。彼はバルコニーからオーリエの海を見渡している。
「お、準備できたって感じだ。じゃ、行こうか」
そう言って笑って、手を差し出した。リフィアがその手を取ると、ふたりの身体は宙に浮かび上がった。驚いたリフィアは小さく悲鳴をあげる。
「大丈夫!落としたりしないよ」
そんな明るい声で空中を跳ねるように進んでいく。リフィアもだんだんと恐怖心が薄れて、笑顔になっていった。眼下の町は白と青のまだら模様に変わり、崖に引っかかっているように見えた。複雑に入り組んだ石畳の階段はさながらひび割れのようだ。対して海はどこまでも滑らかな一枚の布のようだった。
「小さいのね」
不意にリフィアはつぶやく。
「私の住んでいる町はとても小さい。ここから見てしまえば両手のひらに収まってしまうわ。海は果てを眺めても、決して見えないというのに」
歌うような彼女の呟きにアルヴァーは水平線を眺めながら答える。
「高いところから見下ろす景色は壮観だろ?でも、遠いんだ。自分の知ってる場所なのに、知らない場所に見える。自分と世界が隔絶された感じがするんだ」
ふとリフィアに向き直ってその柔らかい灰色の眼をじっと見つめる。
「ねえ、リフィア。世界はあまりに広いと思わない?」
リフィアは微笑んで答える。
「ええ、思うわ。一生かかっても全ての景色をこの胸に刻むことはできない。だからこそ、奇跡だと思うの。どこまでも広い世界で、この景色を見られることが、ここで生きていることが」
じっと彼の瞳を見つめて、彼女は心の中で問いを重ねる。
(…貴方は気づいているかしら?)
--私の奇跡は、この広い世界で自分が生きていることだけではないわ。今、私が一番感じている奇跡は、貴方と出逢えたことよ。
空の青と海の青が交わる中、ふたりは静かに佇んでいた。
緑が途切れ、灰色の岩がむき出しになった山頂に雪がかかっているのが見える。立体感を失ったそれは、美しい絵画のように青空のキャンバスに張り付いていた。
「…こんな場所があったなんて知らなかったわ」
岩の隙間から幾筋もヴェールのように水が流れ出し、澄んだ青い泉を生み出している。あまりにも美しい泉は水底の丸石さえも見透せるほどだった。
「モーントでも知ってるのはオレと、あとカルガント…ほら、前に一度一緒にいたあいつだけだよ」
その言葉を聞きながら、リフィアはそっと泉に手を伸ばした。
「すごく冷たいわ」
驚いたように手を引っ込める彼女にアルヴァーは笑いかける。
「この水は何千年も何万年も前に降った雨なんだ。それがゆっくり土の中に染み込んで、途方もない時間をかけてここに流れてくる…」
アルヴァーの言葉にリフィアは目を丸くして水を手ですくった。
「…何万年も前の水が今ここに…?」
ひたすら透明な水を見つめ、やがてそっと靴を脱いだ。
火照った爪先に水の冷たさが痛い。
「この雨を見た人はとうの昔に亡くなってるのに、その水に私たちは再び出会う。大自然の時の流れに比べれば、人の一生なんて瑣末なものね」
リフィアが振り返るとアルヴァーは近くの手頃な石に腰掛けていた。
「…アルヴァー?貴方は入ってみないの?」
彼女の問いかけにアルヴァーは苦笑する。
「…水は…眺めてるのは好きだけど入るのはちょっと…」
「…泳げないの?」
アルヴァーは考え込むように首をかしげて、それから口を開いた。
「…いや、泳げないわけじゃないんだけど…昔から進んで入ろうとは思わないって感じ」
リフィアはその答えにさも愉快そうに笑い声をあげる。一歩、二歩と彼に背を向けて泉の中心へ跳ねてゆく。
「あら、意外ね。貴方にもそのような面があるなんて考えもしなかったわ」
そう言ってくるりと振り返る。いつも足元まですっかり覆うドレスは今は膝を隠す程度の長さの軽装になり、いつもは見えない脚が白い陽光に照らされながらすらりと伸びている。振り返る動きに合わせて亜麻色の髪がゆれ、スカートの裾が広がった。
(…眩しいな…)
アルヴァーは彼女の姿を見つめながら、一瞬目をそらしたくなるようなむず痒さを感じた。
「…アルヴァー!」
リフィアの呼び声にハッとする。突然、目の前に光の粒が広がったように見えた。
「うわっ!?」
驚いて二、三度瞬きする。そうして漸く理解した。
--水をかけられた。
彼女は無邪気に笑っている。いつもは澄ました顔をしている彼女が。
アルヴァーは思わず笑った。笑いながら立ち上がって泉の水を両手ですくい上げた。
「やったな、リフィア!」
彼が放り投げた水は空の青と、稜線の影をくっきり映しながら彼女の豊かな髪の上に降り注いだ。
「あら、負けず嫌いね!」
負けじとまた水をかけてくる。光の粒が宙を舞った。笑い声も一緒に空気の中へ広がってゆく。
--そこにいたのは、オーリエ家の聡明な令嬢とモーント最強と称される兵士ではなかった。ただ、今この時を楽しんでいる少女と少年だった。
≪次回は6月5日更新予定≫